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《紀行文》牛島 うしま 2018

2019.10.14 15:05

2018年10月13日(土)

「牛島」と書いて「うしま」と読む。香川県の塩飽諸島には同じ漢字で「うしじま」と呼ぶ島があるが、今回訪れた「うしま」は山口県光市にある島だ。

「狭い港町に、渋い鉛色をした瓦屋根が海を背景に重なり合う情景」

夏頃にSNSでそんな牛島の情景を見た。これはすぐにでも飛んで行って、その地に自分の身を置いてみたい。山口県の島なら、もれなく魅力的に違いない。

過去にも、山口県の島では柱島群島の柱島・端島・黒島や、大津島を訪れていて、同じ瀬戸内海でも広島ー松山以東に比べて秘境感があり、魅力的なエリアであると感じていた。

 全体的に本土側の港にアクセスするだけでも苦労するところ。

 しまなみ海道や瀬戸大橋など巨大建造物が一切見えないところ。

 大型船が目の前を横切るような細い海があまりないところ。

 伊予灘と周防灘というぽっかりと島が存在しない“空白地帯”を持ち、多島美とは相反する大海原の瀬戸内海を望めるところ。

島の中を歩けば、手つかずの島風景が残っているから更に心惹かれる。広島より東の島々は、古民家や小道具をお洒落にリノベーションをしたり、或いはアート活動によって来島客を増やしている島も多いが、――それはそれで心躍る島の風景――山口県の島は質実剛健と言った具合で、時代の流れに任せた整理整頓がいい意味でされず、ありのままの昭和が正々堂々残っている。私はかねてよりこの地域を『奥瀬戸内海』と呼んで特別視してきた。西の奥の方に残された最後の秘境……そんな感じに。一見すると地味かもしれないが、それこそ旅で出会いたい素朴な風景なのだ。例外なく人口減少が進む島々で、もし未来に向けて進化していくことがあるのなら、その前に自分の目で見て心に焼き付けておきたい情景を抱えている。山口県の島は、真面目に凄くイイ。

山口県の島のことになると熱くなってしまうのだが、期待大の牛島も、例によって本土側の港のアクセスがあまり良くない。牛島へ船が出る港は室積半島という場所にあるが、ここは関東の人間からしたらほとんどの人が初めて聞く地名だろう。私はNHKの『こころ旅』という番組で、火野正平氏が室積半島の“象鼻ケ岬”で沈みゆく夕日を背景に手紙を読んでいる映像を見て、訪れてみたい地のひとつになっていた。

「全然知られていない場所だけど、自然の地形が生み出したこんなに面白い場所があるんだなぁ」

いつか行けるようにと、「室積半島、象の鼻、室積半島、象の鼻、室積半島、象の……」と何度も地名を言葉にし、頭に叩き込んだ経緯があったので、牛島について調べている時に、船が室積港から出ると判明した時は一石二鳥の大チャンスが訪れたと歓喜したというわけ。

室積港から牛島行きの1便が出るのは、朝10時と遅め。かんぽの宿光に宿泊していた私は、8時前にチェックアウトをし、念願の室積半島散歩に出かけた。室積半島歩きの記事だけで1ページ立ち上げたいくらいだが、ここでは詳細を省く。簡単に室積半島の地理を説明すると、山口県光市の南西部にあり、沖合に突き出た峨嵋山に至る砂州に街が形成されている。つまり峨嵋山は陸繋島という事になる。かつて島だったと思うと、より一層、峨嵋山まで訪れなければならないと使命感が湧く。スマホで古地図を確認しながら、旧道を選んで岬の先端を目指した。歩いているアスファルトの上はザリザリとどことなく砂っぽくて、足の裏から陸繋島を感じる。

象鼻ヶ岬までやってくると、その名の通り、象の鼻のようにくるりと海を巻き込みコンパクトな湾が目に入った。ここは波も風もない、いかにも天然の良港といった感じ。岬の先端のすぐ対岸には、小さな港が風景写真のように見えている。これから乗る牛島行きの船着き場だ。やはり港は湾の中でも一番いい位置にあるのだなと思った。室積の町と牛島の歴史がリンクして見える光景だ。

駆け足だったが、来てよかった。少し速足で港に戻った。

牛島へ渡る室積港の乗船場は、早長八幡宮の参道の正面にある。しめ縄越し見る港と灯篭が、小舟が往来していた往時を忍ばせる。古くからのオフィシャルルートなのだろうか。こういう風景は、嬉しいよね。

うしま丸の「牛」ロゴがいいね。

牛島までの所要時間は20分。窓から、昨日訪れた馬島や佐合島が見えているようだが、重なり合うように連なっていて、島なのか半島なのかよくわからなかった。それにしても、平生町の山腹にある光輝病院はどこからでも見えるなぁ。


室積港を出港してから、直線で走ってきていたうしま丸が、牛島の湾内に入るとエンジン音が切り替わり徐行運転になった。乗客たちは思い思いに下船準備を始め、船内に慌ただしい空気が流れる。私もそわそわしながら荷物を背負い、一番最後に出口に向かった。いよいよ牛島に上陸だ。

船から降り立ち、目に飛び込んできた波止の情景に心奪われた。定期船が着いたのは、目を喜ばす明治時代に築造された石積みの波止。そこは『西崎・藤田の波止』と呼ばれる小規模な波止場で、牛島を代表する文化財だ。公益社団法人日本土木学会が指定する「選奨土木遺産」でもある。(詳しくはこちら http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/341

海岸から拾った変成岩の丸石でできていて、かつては島の海岸沿いに14か所も存在していたという。今はほとんどが埋め立てられてしまい、築造当時の姿が完全に近い形で残されているのはこの『西崎の波止』と『藤田の波止』だけという。西崎の波止も、海に突き出て海岸線と平行になった部分を利用して定期船の着く桟橋が増設されているが、石積みの部分はそのまま活かされた。素人目にはわかりづらいが、こうした石を積むには特殊な技術が必要で、当時は島外の石工を呼んで指導を受けたらしい。

集落を走る海岸沿いの道を端から端まで歩いても、800m程度。そこに14か所もこんな波止があったのだから、昔の牛島には今よりもさらに美しい漁港風景が広がっていたのだろう。

瀬戸内海で石積みの波止はとても多いが、広島以東では赤みがかかった温もりある花崗岩の波止場をよく目にする。比較すると、牛島の変成岩の波止は堅くて重そうだ。波止内の水深はそれほど深くなく、引潮になれば船は砂地に残されてしまう。日本各地の現代の港は、大型船が入港するために海底を掘り下げる浚渫(しゅんせつ)がされているが、昔の港は砂地のまま。つまり牛島には当時のままの姿が残っているわけだ。

定期船で着いた場所で何時間も過ごせそうだったが、集落内も歩かなければ。自分で自分の手を無理やり引くように、島の中を歩き出した。そもそも、牛島に来ようと思ったキッカケは、集落内の屋根風景だったわけで。

藤田の波止から東はしばらく埋め立てられた海岸が続くが、この辺りには『いたやの波止』『きどの波止』『おまえやの波止』『はまやの波止』『ふたばの波止』があった場所になる。何か名残りがないか意識して歩いていると、見えてくるものが多い。当時の海岸線と埋め立てられた場所はわずかな段差があって、そのコンクリートの一部から昔の石積みがあちこちで露出している。デイサービス施設の東端に見えている石積みは、地図で確認したところ『いたやの波止』の名残りのようだ。こうした“名残”の波止も解説板があると喜ぶ人も多いと思うのだが。往時を想像させる文化財として、ぜひ活かしてほしいものだ。

海岸の道路から、集落の路地に入ってみる。まずは高い所にあるお寺を目指そう。しかし、牛島の路地は、庭のような花壇のような空間。よもや人の敷地内に不法侵入してしまっているのでは?!と不安になってきたが、「路地は信じて進め!」だ。

路地は雑然としていて、家屋からは無住の音がする。便宜上なのか狙ってなのか、ところどころにアートのように漁具がかけられている。それは使っているものなのか、まだ使える物なのか、もう使わない物なのか。素人にはいつ見ても判断しかねるものばかり。

海岸沿いの集落から、教念寺に上った。狭い路地を使い、集落の上に続く道はあるが、この教念寺が一番高いのではないだろうか。境内から見た景色は、海岸沿い集落の2階の屋根に上ったような視線。SNSで、牛島に興味を持つきっかけとなった屋根瓦の街並みが広がっていた。写真で見た印象より小規模で、歴史で燻された鈍い鉛色をしている。これが牛島。発端から2~3か月しか経たないうちに訪問できたなんて、縁があるね。

再び海岸に降りてきて、集落を東端まで歩いてきた。この辺りも埋め立てはされていないので、完全な形ではないにしろ古い時期の波止が残っていた。手持ちの資料によれば、『こうらの波止』『東のの波止』『友やの波止』というらしい。『東のの波止』は、美しいカーブを描いていて情緒がある。犬走りが崩れているので歩きにくいが、逆に内部までどんな石が使われているのか間近で見られるので長所にもなる。土木遺産に指定されていないのは、一部崩れて完全な形でないから?時代が下っているものだから?それは不明だが、こちらもしっかり波止の形を残しているので、忘れずに歩きたい場所だ。

集落の東には牛島小学校の校舎が残っている。光私立牛島小学校は、平成11年(1999)に休校となりそのまま平成17年(2005)に閉校したとう。校舎の他にも、正門、体育館、校庭など全て立派な佇まい。

小学校から先に進むと、墓地がある。墓地の中には、島の伝説にまつわる「丑森明神」と刻まれた墓石があった。

「昔むかし、島の甚兵衛という若者が大切に飼っている牛がいた。ある日、仕事が終わり牛を海岸で洗ってやり、さあ帰ろうと綱を引っ張ったところ、牛は嫌がってびくとも動かなくなった。甚兵衛がやっとのことで追い上げて家に帰った日の晩、島で火事があり、牛小屋は焼けてその牛も死んでしまった。それから数年経ったある日、島の空を牛の形をした黒雲が覆い被さってきた。その日、再び火の手が上がり、甚兵衛の牛の祟りではないかと村人たちは恐れ、「丑森明神」と刻んだ石碑を建てたところ、島で火事は起きなくなったという。」

牛島らしい、牛の伝説だ。牛にまつわる伝説なら「牛鬼伝説」もあり、本当に牛だらけだ。元々は平安時代に牛を生産していたことから牛島と呼ばれるようになったのが由来らしい。わずかな平地に集落があって、殆ど森のような山を見ていると想像もつかないが、牧草が広がっていた時代もあったようだ。

牛島海運のホームページでは、島の伝説や見どころなど掲載されているので、訪れる際は参考にしてほしい。(牛島海運有限会社http://www.kvision.ne.jp/~ushima-kaiun/

さて、再び集落に戻って来た。改めて家屋を見ると、大体が石積みの上に建てられている構造だ。昨日見てきた佐合島や牛島にはなかった建築構造。港の波止場に通じる構造だ。目の前にある幅3m程度の道路より向こうは、例の波止場のある海だったので、防潮堤を兼ねたものなのだろうか。石積み部分に地下室が設けられている家が何軒かあり、新しく立て直したと思われる家も、地下室だった部分をガレージのように活用していた。


散歩をしていると、港の前の長いベンチに3人の男性が屯していたので、島の事など色々な話を聞かせてもらった。そのうちに、室積に戻った後はどこへ行くのかという話になった。

「祝島へ行く予定です」

「祝島って、あそこの?」

男性は島の山を指さしながら少し驚いている。指さす山の向こうには間近に祝島が見えているはずで。島と島の間は7kmほどしか離れていないが、牛島とは自治体が異なるために両島を繋ぐ定期船は就航していない。そのため、牛島から祝島を目指すのは簡単ではないのだ。

「どうやっていくの?」

「室積に戻ってからバスで柳井まで行き、それから電車を使って柳井港まで行き、船にのります。定期船がないので大回りしようかと思って」

そこまで言うと、3人の男性は呆気に取られているようにも見えたが、一人の男性はすこし考えて、こう言った。

「あとで僕は祝島まで行くんだけど、よかったら一緒に乗って下さいよ」

え……?

「船で、ですか?」

「うん、連れて行く人がいるので。一緒に乗っていけますよ」

「いいんですか?」

「うん、ちょっと人が多いけど」

「私が乗っても、構わないんのですか?」

「うん」

予想もしていなかった展開で、しつこく聞き返してしまった。なんて有り難い話だろう!本来なら、これから12時半の便で室積に戻り、上記の通りバス、電車、船と乗り継ぎ、祝島に着けるのは17時頃のはずだった。それがここから船に乗れるとしたら、こんなに無駄のないルートはない。牛島から室積に戻る距離と祝島への距離は、ほとんど変わらないのだから。

「祝島へは、何時頃に出港する予定なのでしょうか」

「12時くらいじゃなかったかなぁ」

時計は11時半を過ぎたところ。時間がない!慌ててまだ見ていない牛島八幡宮とえびす神社へ走った。

残りの滞在時間が1時間あったはずが、20分に減ってしまったので大慌て。そのせいか、この辺りから牛島の記憶がやけに薄い。祝島に直接アクセスできる興奮で、周りが見えなくなっていたのかもしれない。

予定の12時まであと10分はあるかという時、先ほどの男性が何人か若い男性を連れて乗船準備をしている。

「(もう出港するんだ!)」

慌てて船に向かうが、若い男性たちには事情が伝えられていなかったようで、やってきた私に困惑気味。私からたどたどしく説明し、了解を得て晴れて乗船と相成ったのである。

大学生とその先生というグループらしく、スナメリの研究で牛島ー祝島の海域を調査しにきたという。島の男性は、船を出している人と言うことか。なんだかすごいことになってきた。

正午前に牛島を出港し、船は島を西回りし、祝島へ向かう。真っすぐ祝島に向かいながらスナメリを探すのかと思いきや、途中、海の真ん中でエンジンを完全に落とし、スナメリの声を聴く装置を海に沈める作業をする。サイレントタイムで学生と先生たちはスナメリの気配を探るため耳を澄ませる。私も肩を丸めてじっとした。小波にたぷたぷ揺られながら、大海原の真ん中はこんなにも静寂なものなのかと驚いていた。波の気まぐれに任せて漂よう――。初めての経験に、ひとり海に放り投げられたような孤独感が押し寄せる。小型船なので、青黒い不気味な海面と数十センチで隣り合わせ。事故に遭って海を漂流することがあったなら、1時間も経たないうちに絶望で気が狂ってしまうと思った。移動のために再びエンジン音が聞こえた時の安心感と言ったらもう。その後も停止しては移動して、停止しては移動してを繰り返し、スナメリの姿を探した。ともすると、私もだいぶ慣れて余裕が出てくる。いつの間にか研究生になったつもりで真剣にスナメリを探していた。この時期にスナメリを見られることは多くないらしいが、運が良ければ、白い身体がポーンと海面から飛び出すらしい。いるなら見逃すまいと目線を低くして探した。青黒く見えていた海も、顔を上げれば美しい凪だ。残念ながら最後までスナメリは見つけられなかったが、まぁ、牛島から祝島まで船に乗れて、更にスナメリも見られてしまったらそれは運が良すぎるというものだ。

50分ほどの航海で、祝島に入港した。定期船がない航路を走れたこと、スナメリの調査に便乗できたこと、大海原で漂流気分を味わえたこと……一生忘れられない経験になった。偶然の出会いと出会った人との真心に感謝するばかりだ。牛島の方、そして大学の皆さんありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。


次は祝島を歩く。


2019.12.26 更新