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脱出の道 キリスト

2019.10.06 04:32

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。Ⅰコリ10:13

 聖書の中にとても仲の良い3きょうだいの記事が出てきます。マルタとマリアとラザロです。彼らはベタニアというエルサレムから東へ3キロほど離れた村に住んでいました。イエス様は彼らととても親しかったようです。ある時、ラザロが病気になりました。数日寝ていたら回復するだろう考えていたのですがそうではありませんでした。どんどん悪くなっていくわけです。マルタとマリアは心配になり、イエス様のもとに使いを送りました。そして、「あなたが愛しているものが病気です」と伝えるのです。彼らのイエスへの絶対的信頼がよく伝わってきます。この短いメッセージだけでイエスが最善をしてくださることを彼らは体験的に知っていたのです。 イエス様はきっと取るものもとりあえず飛んで帰ってきてラザロの病気を治してくださる。彼らは信じていました。しかし、そうではなかったのです。イエスは使いが来てもなお二日間おられた場所にとどまっていた。そう書いてあります。

 私たちの願いと神様の御思いは違います。しかし、神は私たちが望んでいるものよりも遥かに素晴らしいものを与えようと準備しておられます。神は私たちを失望に終わらせるようなことはなさいません。マルタとマリアの願いは「ラザロの病気が治ること」でした。しかし、イエス様が彼らに与えたいことはそうではなかったのです。

 さて、ラザロは死にました。そして、墓に葬られて4日が過ぎた時、やっとイエス様はベタニアに戻られたのです。そして、ラザロを死からよみがえらせます。マルタとマリアはイエスが病気を治されることは良く知っていました。しかし、死人をよみがえらせることは十分に分かってはいなかったようです。 彼らが求めた試練からの脱出の道は「病気が治ること」です。しかし、神が与えたかったのは「死人がよみがえるという事実」「死んで終わりではないんだ」ということでした。 たとえ、病気が治ったとしても、死は必ず再び襲ってくるのですから。

 さて、試練は私たちの人生にはつきものです。その中で最大のものは死と向き合うことではないでしょうか。その時、あなたに脱出の道が備えられているならば、(もちろん、諸々の試練が試練でなくなるとは言いませんが)、でも、大きな安心があり、安全ではないでしょうか。神が備える脱出の道とは目の前の問題が解決するだけではないのです。 死をも突き抜ける完全な脱出の道を与えたいのです。イエス様はそれを明らかにするために、ラザロが葬られて4日後に彼を死からよみがえらせました。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言われました。イエス様こそが究極の試練の中での脱出の道なのです。私たちは試練を望みませんが、もし、あなたが試練に遭われたなら、その時、見出すべき脱出の道はイエス・キリストであることを思い出していただきたいと思います。