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物部氏=タケミナカタ?

2023.12.25 02:18

玉砂利に色なき風の渡りけり  五島高資

柏手に破風の羽ばたく葉月かな  五島高資ー 場所: 諏訪神社

浦島の鰐に跨がる伊奈良かな  五島高資ー 場所: 雷電神社

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/moriya.htm

【物部守屋を祀る物部守屋神社 伊那市高遠町藤沢】

■ 長野県神社庁では「守屋社」の表記です。合併前は上伊那郡高遠町字片倉で、諏訪の神社ではありません。

守屋神社奥宮 14.5.5

物部守屋神社「奥宮」 守屋山の東峰に、守屋神社の石祠が鎮座していました。その脇にある石柱には「守屋神社奥宮」とありますから、麓に「里宮」が存在することになります。

 守屋山のウリである大パノラマを堪能しながら最高峰の西峰まで足を延ばしました。その帰りに、東峰の手前で「守屋神社里宮」の字を見ました。しかし、久しぶりの山行とあって足に蓄積した疲労感を無視できず、小さな標識にある矢印の先をチラッと見るだけに留めました。

守屋神社里宮 15.6.29

 去年と同じ立石コース登山口に車を置き、徒歩で急坂の国道を登ったり下ったり…。守屋神社里宮はこの近くと見当をつけたのですが、建物と言えば別荘ばかりです。案内板もなく、木立を透かしても鳥居らしきものは見えません。期待した山側に向かう車道ですが、その先は、「何故こんな所に」と疑問を感じてしまう廃牧場でした。「あの守屋神社里宮は白日夢だったのか」と疑念さえ広がり始めました。

 下山路と道標の位置関係を思い出し、ここより下ではないかと車で下ってみました。徒歩より十倍以上の速さでも、「こんな下だったの」と言える距離にようやく鳥居を見つけました。鳥居額から「物部守屋神社」が正式な名称と知り、山に向かって延びている参道を登りました。

物部守屋神社「拝殿」 最上部の社殿は、造りは拝殿ですがその背後にあるはずの本殿が見当たりません。「本殿の覆屋を兼用しているのだろうか」と中をのぞきますが、右に神輿が置かれているだけで空っぽと言う状態です。「これはおかしい」と脇へ廻ると、更に上に続く石段がありました。

物部守屋神社「覆屋」 妻入りの屋根がその先に見えます。諏訪大社の宝殿にもひけを取らない厚い茅葺という重厚さに、「これは…」と期待しました。しかし、格子を透かした中に本殿を認めると、「なーんだ」という覆屋でした。奥の梁に棟札が並んでいます。中央の消えかかったものでも大正ですから、その頃に建て替えたか新造したのでしょう。

物部守屋神社本殿 本殿の扉は、左は手前に開かれ右は蝶番が外れ中に倒れ込んでいます。“神も仏もないものか”という全くの見捨てられた状態に驚きました。過疎が進み、氏子だけでは維持管理ができないのでしょう。覆屋が立派なだけ落差が際だった本殿を後にして、拝殿まで戻りました。

神紋「三つ柏」 左右に並んでいる灯籠には神紋「三つ柏」が見られ、境内の左端に位置するまだ新しい神庫も金色の三つ柏を掲げています。その輝きは、つい最近まで神社と人の関わりがあったことを思わせました。

物部守屋神社の謎 19.4.7

物部守屋神社「本殿」 初めて参拝してから5年目の再訪となりました。勝手を知った守屋神社なので、直に本殿へ続く石段を登りました。

 相変わらず本殿の扉は壊れたままでしたが、幾らか手が入っているようで「奉正遷宮 守屋社」と書かれた木札が見えます。現在は、これが「御神体の代わり」ということでしょう。

 扉を修理して閉めてくれればそれで済みます。誰か手を入れてくれる人はいないのでしょうか。「私で良ければ」と手を挙げたいところですが、峠の向こうからの助っ人では神様は当惑するだけです。

物部守屋神社の石棒 今回は、本殿の下に石棒があるとの情報を得ていて、それが目的の守屋神社里宮です。スカートの中を覗くような何か危ない感覚を覚えながら目をやると、竪穴式石室のような穴があります。ところが、「縄文の石棒」ではなく、私にとっては“只の石”が収まっていました。

 これだけの造作ですから、この石室には蓋があったはずです。それが完全に露わになったままというのは、“ここに納められていたもの”が失われたことにあるのでしょう。今あるのはどう見ても代替品です。石室の形状から、石棒より「細長い何か」が安置されていたことが考えられます。盗難に遭ったのか・朽ちて消滅したのか、謎は深まるばかりでした。

 最近は、“ダメ押し”として目的圏外も注視しています。それに倣ってさらに上を眺めると、…拝殿と本殿の延長線上に石祠が見えます。

物部守屋神社「元宮」 急斜面の松葉に滑りながら這い上がると、石造りとしては大きな祠が佇んでいました。右側には意匠からかなり古そうな石祠がありますが、すでに屋根のみという状態です。左には「御神燈」と彫られた角柱が傾いています。火袋はすでに壊れたのか、背後に笠だけが落葉に埋もれています。

 この場所は地元の氏子だけが知る人ぞ知る、でしょうか。隣と言っても伊那郡外に当たる諏訪からの来訪者では、案内板がないと全くお手上げです。拝殿や本殿もそうですが、一体、この祠をどう位置付けしたらよいのでしょうか。

物部守屋神社の神紋「三つ柏」 手掛かりとなるのは石祠の大棟に刻まれた「丸に三つ柏」です。拝殿前の大灯籠や神庫でも見られますから、守屋神社の神紋に間違いありません。

 本殿を新造する際には旧社殿を「元宮」として残すことがありますから、下の本殿内に「正遷宮」の木札が置かれていることを併せると、「この石祠は旧本殿」となります。横にある屋根のみの祠を併せて考えると、原初は、この場所が守屋神社の中枢部であったことが考えられます。

 次に注目したのは灯籠の竿です。奉納年はありませんが「本願片倉郷守屋入道物部義近」と刻まれています。「物部守屋神社」ですから“守屋と物部”があってもおかしくありませんが、私には「仏門に入って守屋入道と名乗った物部義近さんが願を掛けた」としか解釈できません。入道はともかくとして、地元「片倉」には物部姓の人がいたのでしょうか。

 目的を達したので「お昼は何を食べようか」と下ると、鳥居前の灯籠に彫られた「社宮司」に目が留まりました。もちろん「ミシャグジの社宮司」です。「明治45年合祀」とありますから、「神社の統廃合時に、近隣の地から守屋神社の境内に移した」としました。

「従六位物部連比良麿」

鳥居額「物部連比良麿」 鳥居額に「従六位物部連比良麿謹書」と彫られています。その「比良麿」をネットで検索しました。ヒットした物部氏の系図に、物部神社(石見国一之宮)の歴代神職が金子家と書かれています。明治に世襲制が廃止された関係でしょうか、末尾の位置に「有卿(ありのり)」と「比良麿」が見つかりました。有卿が直系で、「物部神社神職・金子有卿 男爵 石見国造 物部連 饒速日命後裔」とあります。

 話は飛びますが、5月に島根県太田市にある「石見一宮・物部神社」へ行ってきました。その時に持ち帰った由緒書ですが、このサイトとは“縁”が薄いので処分してしまいました。そのため、手許のガイドブックでは詳細がわからないので、公式HPの「御由緒」を読んでみました。

(前略) この石見国造金子家は明治初年、神職千年以上奉仕する功により出雲の千家・北島の両家と共に男爵の称号を授けられる。その後国造金子有卿男爵は初代貴族院議員にまた出雲大社教初代副菅長などを歴任され、神社興隆のため活躍された。

 「世襲制を廃止したので普通の人に戻れ」と命じたものの、余りの名家に、それは忍びがたいと爵位を授けたのでしょうか。長男が「従五位」なので、(弟と思われる)比良麿が「従六位」を受けたと思われます。ところが、鳥居額では直系の兄ではない比良麿とあるのが不思議です。「物部守屋神社」の揮毫をお願いした時は、すでに弟の時代だったのでしょうか。

物部守屋神社の由緒

 案内板がないので、昭和17年発行の宮下一郎編著『藤澤村史』から、「明治10年の書き上げ」とある〔守屋神社〕を紹介します。ここでは、「守矢社」となっています。

守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、

由 来

(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したるは、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべく)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼(かいじん)せしと申傳(伝)へり、

社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、

山王小社同所にあり(社地略)

権現山神小社同所にあり(社地略)

山神小社同所にあり(社地略)

守屋神社の「社宮司」

灯籠の「社宮司」 『藤澤村史』に「社宮司社が同所(守屋神社)にある」と書いてあるので、社宮司社他三社は守屋神社の境内社と理解しました。しかし、併記の社地「20坪」は他の三社にもありますから、守屋神社の限られた境内に求めることはできません。何回も読み直した結果、「同所」は「本村(藤澤村)の北片倉(旧片倉村)」を指していることがわかりました。

 つまり、村内の各所にあった四社を守屋神社の境内に遷した記念に奉献したのが、参道脇にある「明治45年合祀 社宮司・山王(他)」の灯籠と理解できました。

守屋神社の石室

 『藤澤村史』の〔藤澤の概観〕では、伝説として「一、洩矢神守屋大臣伝説・二、物部守屋伝説」を挙げ、「三、守屋山は諏訪大神の弓矢を埋めし地と云説」として《祠に弓矢を埋めた。矢を守る→守矢→守屋》という話を紹介しています。

 ここでは、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に載る古文献の二書から、その一部を転載しました。

守矢氏神長官たる事

 神長官守屋氏(守矢氏にも作る)ある人のいう自ら誤りて後代の子孫物部氏守屋の子孫という大なる僻事(ひがごと)なり、中村中叟高遠の儒醫は大神の弓矢を掌(つかさど)りし大臣の子孫なりと考えし未だつくさゞるに似たり、守屋が嶽は大神の持給いし弓矢を蔵しという、

『洲羽事跡考』

一、鳳凰が嶽

守矢が嶽鞍掛が嶽につゝいて有り。岐岨路記に上諏方の向の山を鳳凰が嶽という、その西の山を守矢が嶽というとかけり。守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣(せっこう)に神劍を納む。御手洗(みたらし)の水あり。旱魃の節雩行(うぎょう※雨乞い)にこの水を以すれば、必雨ふると云。

『諏方かのこ』

 「守屋山(頂)に石匣がある」と読めますが、現在それに相当するのは守屋神社里宮本殿下の石室しかありません。それは、剣または弓矢を納めるには格好の大きさですから、石匣と見なすこともできます。もっとも、伝承に合わせて石室を造った可能性もありますから、何とも言えません。

∥サイト内リンク∥ 「守屋神社奥宮」

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12412457072.html

【守矢氏は物部氏という説】より

明神入諏神話の最古の記録は、宝治3年(1249年)に諏訪上社の大祝(おおほうり)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出された、宝治3年(1249年)の『諏訪信重解状』(上社と下社間でいずれが本宮であるかと争った際、上社大祝(おおほうり)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出された訴文)が語る地元の伝承によると、天から降臨した諏訪明神は、守屋大臣(もりやだいじん)の領地を手に入れるために、藤鎰(かぎ)を持ち出し、鉄鎰を手にした大臣と引き合ったが、明神が勝ち、大臣を追討したという。

諏訪の土着神「洩矢神」は、文献によっては守屋大臣(もりやだいじん)、守屋大明神、守矢神、守矢大神等とも呼ばれる。

「守屋大臣」は、諏訪大社上社のご神体である守屋神社(物部守屋神社)が守屋山山頂の奥宮と山麓の国道256号沿いにある里宮に祀られており、「1400年前、蘇我氏との戦いに敗れて逃げてきた物部守屋の一族が創建した」と伝えられている。神長守矢家の祖先と伝えられる。

「モリヤ」という名前から、物部守屋の後裔とされることもある。

『神長官守矢系譜』にも記録されている守矢氏と物部氏との関係をうかがわせる家伝があり、これによれば、物部守屋の嫡男の弟(つまり次男)である武麿が「丁未の乱」の後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、後に守矢氏の神長の養子となって、やがて神職を受け継いだという。守矢家の屋敷の裏にある古墳(7世紀中頃)が武麿の墓であると言い伝えられている。

右差し 物部 守屋

生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月

敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。

物部氏は有力な軍事氏族でしたが、587年 物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立

ブログ☞蘇我氏 VS 物部氏 仏教受容問題

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。

☞しかし、1935年に八尾市渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の忍冬唐草紋の瓦が出土している。この遺構は物部氏の居住跡である渋川廃寺址とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。

物部氏については👇

ブログ☞謎の物部氏の伝承地を訪れる。

うーん さて、信濃国周囲を見ていくと

右差し 長野と群馬の県境

長野と群馬の県境にある荒船山を祀る神社に

 群馬側の荒船神社の祭神は経津主命。

 長野県側の荒船山神社の祭神は建御名方命。

群馬県にある一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は物部氏が祖神を祀ったことに始り、物部氏の祖神「経津主神」を祭神としている。

社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。

古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される。この2社が現神社の前身であるとする。

貫前神社境外である安中市鷺宮の咲前神社は、貫前神社の前鎮座地とされる。社伝では、経津主命が建御名方命を追って上野国・信濃国国境の荒船山に出陣した際の行在地とされる。

大和朝廷側の経津主命と国つ神側の建御名方命との神戦いがあり、千曲川の水が七日間血に染まったとも伝えられ、ここ荒船山で最終決戦をし、和議が成立したといい、荒船山山中には「皇朝家古修武之地」と刻まれた石柱が立っているらしい。

貫前神社は中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、

貫前明神と抜鉾明神は本来は別の神で、「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神だったのが、『神道集』などでは男女神が混同され、荒船明神=抜鉾明神で、さらに女神であるという。

長野県佐久市の新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)の祭神である興波岐命の父神は諏訪の建御名方命で、母神は上野貫前女神(荒船大明神)と伝わる。

▶︎また、千葉県の下総国一宮 香取神宮(かとりじんぐう)も「経津主神」を祭神としている。古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。

▶︎茨城県の常陸国一宮 鹿島神宮(かしまじんぐう)は、武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とする。タケミカヅチ神は、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなっい、建御名方命と相撲をとって勝利した神。神事・祭祀をつかさどった中央豪族中臣氏古代常陸には中臣部・卜部が多く住んでおり、神職を兼ね、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。

*『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、「武甕槌」と「経津主神」で、二神が東征にあたっていたという伝承がある。

右差し 物部氏系の諸国造系で

国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新(646年)以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、物部氏族国造があったという。

信濃国周囲の物部氏族国造は

ブログ☞謎の物部氏〜物部氏族の国造〜

▶︎三河国造(現・愛知県西部)を支配した国造

成務天皇(13代)の時代、出雲色大臣命(いずものしこおおみのみこと)の5世孫・知波夜命(ちはやのみこと)が三河国造に任ぜられたことに始まるという。出雲色大臣命は、物部氏の祖である。饒速日命(にぎはやひのみこと)の3世の孫

▶︎三河国の穂国造(現・愛知県東部)を支配した国造

『先代旧事本紀』の巻五天孫本紀によれば、成務朝の物部胆咋宿禰(もののべのいくいのすくね)が三川穂国造の美己止直(みことのあたい)妹伊佐姫(いさひめ)を娶ったという。

▶︎伊豆国造 伊豆(現・静岡県三島市周辺)を支配した国造

仲哀天皇(14代)の后・神功皇后摂政の時代、物部連の祖で機織(はたおり)を司る天藐(藐の兒は生)桙命又は天御鉾命(あめのみほこのみこと)の八世孫・若多祁命又は若建命(わかたけのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。

▶︎久自国造 (現・茨城県日立市・常陸太田市周辺、旧久慈郡)を支配した国造

国造本紀(先代旧事本紀)によると、成務天皇(13代)の時代に物部連の祖・伊香色雄命(いかしこおのみこと)の三世孫である船瀬足尼(ふなせのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。

▶︎遠淡海国造(現・静岡県西部、遠州平野一帯)西部を支配した国造

成務天皇(13代)の時代、物部連の祖・伊香色雄命(いかしこおのみこと)の子・伊岐美命(いさみのみこと)が遠淡海国造に任じられたことに始まるという。

▶︎久努国造 (現・茨城県日立市・常陸太田市周辺、旧久慈郡)を支配した国造

国造本紀(先代旧事本紀)によると、成務天皇(13代)の時代に物部連の祖・伊香色雄命(いかしこおのみこと)の三世孫である船瀬足尼(ふなせのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。

▶︎三野後国造(現・岐阜県可児市周辺)を支配した国造

国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、物部連(もののべのむらじ)の祖・出雲大臣命(いずもおおおみのみこと)又は物部十千根(もののべのとちね)の孫・臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が国造に任じられたことに始まるとされることから、物部氏と同系とみられる美濃後直(みのしりのあたい)が国造家であったが、後に三野前国造に合併されたとも言われている。

▶︎尾張国を支配した尾張国造は物部氏などと同系

▶︎飛騨国を支配した斐陀国造は、

『国造本紀』によると成務朝に瀛津世襲命の子の大八埼命が斐陀国造に任じられたという。斐陀氏は、物部氏・尾張氏などと同系。

▶︎甲斐国

甲斐国を支配した甲斐国造の系譜に関しては開化天皇皇孫の沙本毘子王(狭穂彦王、さほびこ)を祖とする伝承があり、「国造本紀」『先代旧事本紀』では、纒向日代朝(景行天皇)の世、狭穂彦王三世の孫臣知津彦公の子である4世孫塩海足尼が甲斐国造に任じられたと記している。

古代甲斐の前期国府所在地とされる笛吹市春日居町には「国衙」地名や物部神社や山梨郡山梨郷に比定される山梨岡神社の存在など古代甲斐の政治的中心地であったと考えられている。

原秀三郎氏は、『古事記』・『日本書紀』に記載される日本武尊の東征の際、行宮として設けられた「酒折」の地を春日居町域から曽根丘陵にかけての広域に比定し、酒折宮伝承の歴史的背景を甲斐銚子塚古墳の築造された4世紀後半代としている。

「山梨」地名が甲斐以外でも遠江国や下総国において存在し、いずれも畿内の影響を受けた前方後円墳と物部氏伝承を伴う共通点を指摘し、酒折宮伝承における御火焼老人を畿内王権に服従した甲斐銚子塚古墳の被葬者と推測した。さらにその出自を物部氏とし、酒折宮伝承やヤマトタケルの東征の歴史的背景を遠江を拠点とした物部一族が甲斐・下総へと進出する過程を反映していると説明している。

*ヤマトタケルは景行天皇の命により、南九州の熊曾建(くまそたける)や出雲の出雲建(いずもたける)を討つ西征をした後、東国の蝦夷征服の東征を行った。

ヤマトタケルの東征物語は、四世紀頃の大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する物語。

▶︎珠流河国造(現在の静岡県東部)を支配した国造

成務天皇(13代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・大新川命(おおにいかわのみこと)の子である片堅石命を国造に定めたことに始まるとされる。

国造本紀によると、物部連の祖・大新川命の子の片堅石命。成務朝に任じられたという。

天孫本紀によると、十市根大連の子で物部胆咋宿祢の弟の、物部片堅石連公が駿河国造の祖という。

👉氏族の金刺氏は、氏名の由来は欽明天皇の皇居磯城嶋金刺宮(奈良県桜井市)で、同天皇の舎人を出した。奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。

信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいる。伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。

諏訪大社下社の神主金刺家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。

たとえば、『日本歴史地名大系』と『信濃史科』などは「科野国造の祖先である建稲背命七世の後孫金弓君の二男金刺宮舎人麻背の子が蝶訪下社の神主となり」と載せ、刺氏族に諏訪・上泉・手塚の諸氏があると述べている。『金刺系図』によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されている。

うーん ん はてなマーク

諏訪大社下社の神主金刺家の祖は、科野国造でなかった?

▶︎科野国造

国造本紀(先代旧事本紀)によると崇神天皇(10代)の時代に多氏族の祖で神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫である建五百建命(たけいおたつのみこと、健磐龍命、建五百連命)を国造に定めたことに始まるとされる。

👉また成務天皇(13代)に国造に任じられたという説もある。百済系渡来人の科野直(しなののあたい)が国造を世襲し、後に金刺氏・他田等に分かれたという。

👉宝賀寿男氏によると

多氏族から出たと称する信濃の諏訪一族は、洲羽君の跡に科野国造一族の金刺舎人直から嗣が入り、のち神人部直(のち宿祢)姓に改めたもの

百済系渡来の科野氏は、科野国造一族が朝鮮半島に渡り、彼地に遺された後裔の回帰かと述べています。

・神人部直が金刺舎人直の改姓で諏訪上社大祝右矢印三輪氏と同族

・金刺舎人は珠流河国造の後裔で右矢印物部氏と同族

うーん なんかややこしい

▶︎『日本書紀』の武烈即位前紀にに大連として物部 麁鹿火という人物がおり、武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられています。528年磐井の乱を平定しその後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務めた人物で、父を物部麻佐良とし、母が須羽直(すわのあたい)女・妹古だと言います。

太田亮氏は「先代旧事本記」の天孫本記の「物部麻左良連公の譜に、この連公は、須羽直の女子、妹古を妻として二児生む」と見える須羽直は、国造の氏姓か、仮に国造の姓でなくとも、信濃国造の人にて、信濃国造一族だろうという。

物部氏の氏神である大和石上神宮の封戸が、平安期にも八十戸のうち、五十戸が信濃に存在していた。

うーん 「仏教受容問題」があっても、その後も物部氏系の国造がたくさん存在していたことを考えると、どういう事だったのだろう?

物部守屋の末裔と称するのは守矢氏だけでなく

奈良時代の僧で孝謙上皇に寵愛されて太政大臣禅師、法王なった道鏡や戦国時代の近江の戦国大名浅井氏も守屋の末裔と称した。

右差し『続日本紀』の神護景雲2年(768年:鑑真入滅から5年目、東大寺大仏殿竣工から10年目、大仏造立からは23年目に当たる年)に全国から善行のあった9人が朝廷から褒美を得た記述があり、、その内4人までもを信濃の国の人が占めた。信濃国からは水内郡の刑部千麻呂(友情)と倉橋部広人(税の肩代わり)、伊那郡の他田部舎人千世命(節婦)、更級郡の建部大垣の4人記述がある。その内の建部大垣が当郡の人とされている。

刑部氏(おさかべし)「刑部神社由来」を参考にすれば、第19代允恭天皇の皇后であった忍坂大中姫命の曲部として各地に配置され、その料地管理などに従事していた人々。恩坂や忍坂、坂部などの地名で残されている所もある。刑部氏には数氏があるとされる。多くは物部氏系と言われている。

倉橋部氏(くらはしべし)は、聖徳太子の叔父に当たる第32代崇峻天皇(587 - 592年)の皇居であった倉梯柴垣にちなみ、同天皇の料地管理等に従事した名代部とされる倉橋部に由来する氏族

他田部氏は、6世紀後半頃の第30代敏達天皇(572 - 585年)の宮であった訳語「他田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)」にちなむ部民である他田部に由来するとされている。敏達天皇は他田の宮にあって他田天皇とも称せられた。他田部はその料地に所属し所領の管理等に従事した人々といわれる。

建部氏は、第12代景行天皇皇子 日本武尊の名代部(ヤマトタケルノミコトを奉斎する軍事的部民)で、倭建尊から建部を正字とし、古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団であったとされる。

右差し「物部守屋の次男である武麿が丁未の乱の後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、後に守矢氏の神長の養子となって、やがて神職を受け継いだという。」

本当かどうか?分かりませんが、物部氏を受け入れることは容易だったように思えます。

また、ブログを書いていて「それもありか」と思ったところがあり、それは、

ブログ☞⑤上社の特殊神事「御室神事」ミシャグチ神とソソウ神との聖婚による懐妊儀式

正月1日の夜深更,神使の離任,着任で、神使6人と14人の神主にも同時に御左口神が勧請された。

憑ける作法として、御左口神を麻糸で結んで、その結び目に封じ込め体につける。また、結び目を解き放つことにより御左口神を上げることになるといいます。

えっ ふと思ったのですが、これって

ブログ☞物部氏の鎮魂祭〜石上の「玉の緒祭(たまのおさい)」

【神武天皇の鎮魂】

『先代旧事本紀』によると、物部氏の遠祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)の御子の宇摩志麻治命(うましまじのみこと)宇摩志麻治命は、初代の天皇である神武天皇と皇后に、天璽十種瑞宝を用いて鎮魂祭(みたまふりのみまつり)を斎行した。これが鎮魂祭の初めとなった。

この物部氏の鎮魂は、御魂を振動させる「御魂振り(みたまふり)」と「玉の緒」を結ぶことが中心となっている。

「玉の緒」とは玉を貫きとめる緒(ひも)のことで、玉(たま)と同音の「魂(たま)・命」を結び留めることを表しているという。

現在も石上神宮では11月22日夜に「鎮魂祭(ちんこんさい)」を、また節分前夜に「玉の緒祭(たまのおさい)」を斎行している。

また、宮中において斎行される鎮魂祭に最も近いというの石見国一の宮「物部神社」鎮魂祭は、大事なところは照明が消され隠されて行われるため、肉声で想像するしかないのですが、「結ぶ」という行為がよくわかります。

諏訪の土着神「洩矢神」は→タケミナカタ系→物部系と繋がり

さて?どこまで土着神の残存があるのだろうか?

水音を留める筆や人麻呂忌 五島高資

 図 : 物部神社・人麻呂木版(桜井満『柿本人麻呂論』)ー 場所: 物部神社