Okinawa 沖縄の旅 Day 68 (8/10/19) Gushichan Beach ぐしちゃん浜 (八重瀬町 ③)
[Nanjo City 南城市]
- Maekawa Hija 前川樋川
[Yaese Town 八重瀬町]
Nakage Hamlet 長毛集落
- Minatogawa Fisha 港川フィッシャー遺跡
- Tou nu Utaki 唐の船御嶽
- Yuhi River 雄樋川
Gushichan Hamlet 具志頭集落
- Yuttachijo Utaki ゆったちじょうの御嶽
- Kurashiunjo Cave (Trench) クラシンウジョウ壕
- Midori Gusuku Castle Ruins ミドリグスク
- Yafu Ga 屋富祖井 ヤフガー
- Hananda Bridge ハナンダー
- Gushichan Beach ぐしちゃん浜
- Maasuburi Rock マースブリ
- Gushichan Fukugi Street 具志頭のフクギ並木
- Gushichan Castle Ruins 具志頭城跡 (9/16 訪問)
Hanagusuku Hamlet 玻名城集落
- Hanagusuku nu Duen 玻名城之殿
- Tatana Gusuku Castle Ruins 多々名グスク
- Hanagusuku nu Shrine 玻名城の御宮
Yoza Hamlet 与座集落
- Yumuchi Ga ユムチガー
- Ui Gusuku Castle Ruins 上グスク
Asato Hamlet 安里集落
- Giza Banta 慶座絶壁 (ギーザバンタ)
- Asato Stone Lion 安里の石獅子
今日のコースは八重瀬町の太平洋側へ、南城市を経由して向う。多分、今日で八重瀬町の知る限りの史跡見学は終了となるだろう。八重瀬町は標高こそそれ程では無いのだが、アップダウンが非常に多い地区になり、結構ハードなライドになりそうだ。
Maekawa Hija 前川樋川
この樋川 (ヒージャ) は八重瀬町の境に近い南城市にある。太平洋に流れ込む雄樋川 (ゆうひがわ) の上流部分にあり、湧き水はその雄樋川に注がれている。樋川は切り立った崖の下にあり、集落からは崖を石畳の階段を降って行く。水は澄み切って、絶え間なく湧き出ている。崖のいたるところに洞窟がある。沖縄戦の避難防空壕としての掘られたもので、案内板にもある様に40も掘られている。防空壕と場所を同じくして墓らしきものも存在している。中には多くの甕が放置されている。骨壷なのだろうか? 少し不気味な感じだ。
南城市から八重瀬町に入る。
Nakage Hamlet 長毛集落
2015年の国勢調査によると人口1,038人、世帯数は365世帯。豚が名産品。
Minatogawa Fisha 港川フィッシャー遺跡
採石場で1万8000年前の旧石器時代の古代人「港川人」が発見された場所。(後で分かったのだが、ここは石材会社の私有地で、見学には事前登録が必要だそうだ。知らずに、中まで入って行った。ブルドーザーやクレーン車などがあり、作業員からじろじろと見られたが、特にお咎めは無かった。) 公園化の工事中と看板が出ていたので、作業者は公園工事をしていると思う。
案内板では縄文人の祖先の「最古の日本人」と書かれているが、2009年に、この説に疑問が出て、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いという説が発表されている。2017年には、港川人より5千年古い約2万7千年前の人骨が石垣島で発見されている。
Tou nu Utaki 唐の船御嶽
難破した中国の貿易船の乗組員が、この地には上陸し生活をしていた際に、故郷に帰る航海の安全を祈願するために建てた媽祖廟。彼らの帰国後は地元の人たちが祠を受け継ぎ、唐の船御嶽と呼んで崇敬するようになったそうだ。中国の媽祖廟の形態ではなく、琉球の御嶽形式になっている。
Yuhi River 雄樋川
今日一番に訪れた前川樋川には雄樋川 (ゆうひがわ) 沿を走ったのだが、その時は細いありきたりの川だったのだが、港川港に近くなると川幅がかなり広くなり広い河口に変化している。
港川港では針につけた餌と石を使って釣る伝統漁法「石巻落とし漁」が伝わる。
Gushichan Hamlet 具志頭集落
2015年の国勢調査によると人口1,818人、世帯数は578世帯。豚なが名産品。八重瀬町青年エイサー祭りというイベントがある。
Yuttachijo Utaki ゆったちじょうの御嶽
“ゆったち“とは”世建ち“と書き、よりたちと言う部落の先祖神を祭ったのがこの御嶽だ。世建ちといって具志頭の村のはじまりの場所とされている。具志頭集落では最も古い御嶽の一つ。
Kurashiunjo Cave (Trench) クラシンウジョウ壕 (暗御門壕)
尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われ、先日訪れた具志頭城跡の真下にある。沖縄戦では米軍の港川上陸に備えて自然洞穴を拡張し日本軍陣地壕としての使われた。全長約150m、壕内にはカマド跡がある炊事場、坑木跡が残る坑道、壁にはロウソク台などが残っているそうだ。1945年6月4日に米軍は港川を占領し、そこに物資集積所をつくって本格的な攻撃の準備をはじめた。ここクラシンウジョウの壕に陣取った日本軍部隊は6月9日の夜に洞窟を出て切り込み攻撃を行った。壕の内部の見学は事前予約でガイド付きらしいのだが、予約が必要とは後で知ったので、外観だけを見学した。外観だけでも迫力があった。
Midori Gusuku Castle Ruins ミドリグスク
Yafu Ga 屋富祖井 ヤフガー
この屋富祖井はもともと「やふそがー」と呼ばれていた湧水場所だが、「そ」がぬけて「ヤフガー」となった。立派な水場で、水は澄んでいる。案内板によれば、昔干ばつの時に屋富祖さんの飼っていた犬がずぶ濡れで帰って来た。不思議に思い、犬の後を追いかけたらこの湧水が見つかったという。それでためここを「屋富祖井」と名付けたそうだ。この水場へ通じる石畳の古道が残っている。
Hananda Bridge ハナンダー
琉球石灰岩が自然の侵食により形成された自然橋で、元々は洞窟出会ったと思われるが、長い時間をかけて今の姿になったと思われる。牛の鼻輪を思わせる形からハナンダーと呼ばれてきた。
この史跡をインターネットで調べていたら、八重瀬町が作っている史跡紹介サイト八重瀬八景があった。洒落た作りになっている。単に史跡を説明するのではなく。この史跡が地元の人に何を伝えているのか、この史跡とどう触れ合っているのかを地元からのメッセージとして紹介していた。これは良い!気に入っている。この数日まわった所が選ばれており、そうなのかと思わせてくれた。
Gushichan Castle Ruins 具志頭城跡
具志頭城跡には 9/16に土肥さんの運転で連れて来てもらった。その時のレポートは以下リンク。
Hanagusuku Hamlet 玻名城集落
2015年の国勢調査によると人口636人、世帯数は214世帯。菊みそなどが特産品。
Hanagusuku nu Toun 玻名城之殿
玻名城之殿は、玻名城部落が元々は多々名城のある場所にあったが、この場所へと移動した際に作られた。沖縄では殆どのケース、各集落には、村ができた時に、この様な村の殿が造られる。
Tatana Gusuku Castle Ruins 多々名グスク (タタナグスク、タタラグスク、ハナグスク)
多々名グスクは、13世紀の後期~14世紀初期 に花城按司により築城された。この時には花グスク状と呼ばれていた。4つの郭からなる連郭式の城。南山の軍勢が花グスクを攻めたが、防備は固く攻めあぐねていた。グスクの用水井「んじゃ井」を南山軍が抑え、水路を断ち、遂に花グスクは落城。この後、南山がここを支配するようになって多々名グスクと名を変えた。(いつも、その城の歴史を調べると、城主などの名前が出てこず、この城の場合と同じ様に、花城按司と役職名が出てくる。役職名だと、何百年も同じ役職名の人物がいるので、時代背景が特定できない。これは琉球の歴史を追いかける上で非常に不便に感じる。)
城は雑草や灌木に覆われ、中に入ることが出来ないが、近くの遊歩道が城跡を通っている。その遊歩道を歩き、雰囲気を見る事にした。
案内板によると、ここが多々名グスク跡らしい。
更に遊歩道を行くと海岸に出る。倒木が道を塞いでいる。
Gushichan Beach ぐしちゃん浜
ぐしちゃん浜は具志頭集落に位置しているのだが、遊歩道の終点なので、ここに書く。シーズンが過ぎた平日だからか、誰一人いない。日本で言えば真夏の気候なのだが....
白い砂浜に独特の形の岩が多く立ち並ぶ、夕方に来ると幻想的な所に思える。海岸は遠浅で岩棚が敷き詰められているという感じ。のんびりと岩陰で読書でも出来れば最高だろう。今日はその余裕はないのだが...
Maasuburi Rock マースブリ
塩=沖縄方言でマース、きのこ岩 =ブリが合わさってマースブリという名前で呼ばれている。ポルタリングの聖地らしい。
海岸の西には断崖が続いている。断崖の先端にはこの後行く慶座絶壁 (ギーザバンタ) がある。
海岸から元来た道 (今後は登り坂になるのだが) を自転車を停めている地点まで戻り、近くの 具志頭集落の「南の駅 やえせ」で遅めの昼食兼休憩をする。綺麗に整えられたガジュマルがあった。いつもは野生の無秩序なガジュマルしか見ていないので、初めはガジュマルとは分からなかった。
この前の国道沿いにはフクギ (福木) 並木が残っている。
Hanagusuku nu Shrine 玻名城の御宮
具志頭集落から玻名城集落には戻る。案内板に書かれtらいるが、個人で娘の霊を慰める為に建てた祠を村人がその話を聞き、村の鎮守として立派な祠に立て替えたという話が伝わっている。何度か立て替えているにだろうが、それが今も続いている。沖縄の人の宗教感は昔日本中の人々が持っていたものが今でも続いていると思う。
Yoza Hamlet 与座集落
2015年の国勢調査によると人口93人、世帯数は37世帯と八重瀬町では一番小さな字で、集落の殆どが農地になっている。
Yumuchi Ga 世持川 (ユムチガー)
農地の端でこの後行く上グスクの麓にある湧水。ユムチとはおもろ語で「世直し」を意味する。 さしずめ、世直しの湧水とでも言うところか。現在のユムチガーは平成18年 (2006) に修理された姿で農業用水に使われている。昔、村人が生活に使っていた時には、馬を浴びす場所 (ンマアミシー)、洗濯所、男性の水浴場、女性の水浴場、食料水汲場に区分されていた。多くの川 (ガー) がここと同じ様に総合水場とでも言えば良いかと思うが、洗濯、水浴、炊事場が備わっていた。当時の様子を想像すると、朝の準備、朝食後女たちは洗濯をし、亭主が帰って来る前に水浴び、夕食の準備、男たちは仕事を終えてここで体を洗う、時には馬も洗ってやる。一日中誰かがここに来て話をしていた。村人の生活の中心で、交流の場であった。沖縄の史跡にヒージャー (樋川) や ガー (川) が多く、小さなものから大きなものまである。初めは、何故こんなものが史跡にと思っていたが、沖縄の人たちには長い期間にわたって村の中心で歴史を見てきた場所、そこには必ず拝所がある。自然に対しての感謝や敬いが現れている。だからこそ史跡なのだと思うようになった。
ちなみに、昔の水場の様子に近い形で残っているものを訪れている。9/27に見つけた仲村渠樋川という水場。リンクは以下。
Ui Gusuku Castle Ruins 上グスク (ウィグスク、宇江城グスク)
仲座集落/与座集落の南側丘陵に築かれた上グスクは二つ郭からなる連郭式のグスクで、14世紀初期頃に 上原按司によって築かれたと伝わる。当時、与座集落は上村と呼ばれていたので、これがグスクの名の由来である。花グスク按司に攻められて落城。その後、対南山勢に対しての前衛拠点となった。(案内板では、花グスク按司ではなく、多々名グスク按司に滅ぼされたとあるが、多々名グスクは花グスクが南山に占領されてからの名称で多々名グスク按司は南山側の人物。よって多々名グスク按司が対南山の防衛としてこの上グスクを位置付けることはおかしい。多々名グスク按司ではなく、花グスク按司の間違いと思われる。)
山道に入る。大きなバナナの木が何本もあり、うまそうなバナナがなっている。これは取っても良いのだろうかと考えながら、道を進んで広場に出る。ここが二の郭だろう。小さな拝所がある。
更に上に登ると別の広場。ここが主郭と思われる。ここにも拝所があった。
ここからぐしちゃん浜から見た断崖の慶座絶壁 (ギーザバンタ) に向かう、ここから慶座絶壁 までは“ザ・サザンリンクスゴルフクラブ”に沿って下り坂。断崖の上にあるゴルフ場で人気の高い所だそうだ。
Asato Hamlet 安里集落
2015年の国勢調査によると人口965人、世帯数は286世帯。ピーマンなどが特産品。汗水祭や唐人行列などの行事がある。
Giza Banta 慶座絶壁 (ギーザバンタ)
観光ガイドにはあまり載っていない穴場だそうだ。下に降りていく階段がある。途中で階段が終わり岩場になる。本当は下まで行きたいのだが、いくには滝の上部の水が流れている所を渡らねばならず、少し歩いてみたが藻が生えていてツルツル滑る。ここで滑ると岩場に転落しそうになる。人も誰もおらず、民家からも離れているので、下まで降りる事を断念。若い時は躊躇いなく降りていったのだろうが、年をとったのかな....
下まで行くとこんな風景なのだが、残念! (インターネットから借用)
Asato Stone Lion 安里の石獅子
ほぼ原型をとどめていない。特に頭部は損傷が激しく、獅子には見えない。この石獅子も八重瀬岳の方向を向いている。当時は八重瀬岳は火山 (フィーザン) だったので、多くの集落の石獅子が火返し (ヒケーシ) として八重瀬岳をにらんでいた。
そろそろ夕焼けどき。ここからの帰路は1時間かかるので今日は暗くなっての帰宅だろう。
これで八重瀬町での知る限りの史跡を全部周り終わった。