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Lahui Mauna Kea Japan

最初で最後のハワイ王朝の女王リリウオカラニの歴史

2019.10.08 05:29



ソース Daily Mail 

最初で最後のハワイ王朝の国王であり女王:リリウオカラニの悲惨な生涯、その王朝統治はわずか2年



 女王リリウオカラニは、ハワイ王朝最後の国王であり、最初の女王であった。そしてハワイ王朝は1898年にアメリカ合衆国に併合され、新たに州として加えられた。

注:合併はアメリカの一方的取り決めで 国際法では認められていない為 実際は違法占領となります。ハワイ共和国は武力のクーデターで王国を乗っ取った企業家たちが アメリカの議会内で取り決めただけのもので 国際社会に認められたものでは有りませんでした。そのまま 1950年 ハワイ州になったのも アメリカ軍の家族ら40名程の投票で決められ ハワイ国民には寝耳に水でした。



 リリウオカラニが統治するハワイ王朝が倒された際、彼女は何千ポンドもの罰金を課せられ、宮殿に監禁された。



 宮殿に監禁され、悲しみの唄を作詞、作曲しながら孤独な生活を送った最初で最後のハワイ王朝の女王の生涯は悲運であった。


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 リリウオカラニ、旧姓リディア・カマカエハは、ハワイ諸島を統治する最後の国王であった。王朝は1898年にアメリカ合衆国によって併合された。



  1862年リリウオカラニは、ボストン船長の息子ジョン・オウエン・ドミニスと結婚。彼はアメリカの政治家であった。


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 1870年代の王朝:1874年兄のディビッド・カラカウアが国王となり、1877年には2番目の兄W.P.レイオホクが亡くなったのを受けて、リディアは女王となる。彼女の王族名はリリウオカラニとして知られている。



 彼らの結婚は不幸なものだった。夫の不義の噂が立つこととなる。


 彼らは、夫の未亡人の母と共にWashington Palaceに住んだ。現在はハワイ州知事の公邸である。


 1874年リディアの兄のデイビット・カラカウアが王となるも、1891年死去。リリウオカラニは即位し、その王位を継承し、王朝を治める最初の女王となった。

注:カラカウア王はサンフランシスコ訪問中に謎の死を迎えました。





 幸いにも、1881年のカラカウア王の9ヶ月に渡る世界旅行と、1890年のアメリカ合衆国訪問の際の、摂政皇女としての経験は、ハワイ王朝の女王としての新たな役目の備えの時となった。


 ネイティブハワイアン達は、彼らの権利と能力の回復を求めて新たな憲法の草案を求め、女王を説得した。

注:ジョセフ ナヴァヒなどが筆頭に勧められた憲法改正は王国打倒の三日前に女王により正式に承認された。


 その動きは、ビジネスマンや政治家の小さなグループによる併合委員会の反感を受けた。アメリカ合衆国による併合によって、ハワイの農作物を大量に輸入することが、ハワイの経済にとって有益と彼らは思ったからだ。


 1893年1月17日、リリウオカラニ女王は、軍との衝突、ハワイ国民の命が失われることを避ける為と宣言し、自らの身を権力に委ねた。

注:砂糖貿易を主とした ドール(バナナのドール)氏などを含むアメリカ人企業家達が米海軍を使ってクーデターを起こし ハワイ王国を違法占拠、女王の側近を一人づつ殺害していったと言われる。


 1895年、女王の復権を願ったハワイの勤王派の試みは、女王の逮捕という失敗に終わった。


 彼女は、王権を放棄し、将来それになんら要求をすることなく、退位する旨の文書に署名させられた。


注:訂正 女王は戦おうとしたハワイ国民(日系を始め入植者を含む)に対し 血を流す事は避ける様にと宥め 「私は一時この位を退きますが 必ず正義が私を元の地位に戻してくれる様願います。Onipa’a 」と言い残し その後 クリーブランド米大統領の間に ハワイを守る為の 大統領令 エグゼクティブ オーダーに調印しています。


 そして以前の宮殿で軍事法廷に臨むという屈辱的な公判に耐えなければならなかった。


 リリウオカラニ女王は勤王派筋を熟知しているという宣言を受け、捕らえられ、5年間の服役を言い渡された。それは後に軽減される事となるのだが。



スコットランド人作家のロバート ルイス スティーブンソン氏と 




 軽減される代わりに、イオラニ宮殿の2階の寝室にて閉じ込められ、従事の女性以外出入りすることを許されなかった。


 リリウオカラニ女王は部屋では、作詞、作曲は言うまでも無く、読書やキルティング、かぎ針編みをして日々を過ごした。


 女王は、彼女の寂しい監禁生活の中で、Ke Aloha O Ka Haku-女王の祈りなど、約165の唄を書いた。


 イオラニ宮殿から開放された後もリリウオカラニ女王はWashington Palaceの私邸に5ヶ月監禁された。


 さらに拘束が解かれるまで8ヶ月を過ごし、1896年に自由の身となった。ハワイ共和国は女王を赦免し、市民権を彼女に返還した。


 1898年1月12日、ハワイ諸島は正式にアメリカ合衆国によって併合された。

注: 正式に合併されたという事実は国際法で認められておらず、アメリカ合衆国の議会の投票でで決まったのみ。これをジュネーブの国際犯罪法廷では戦犯であり今も合衆国の違法占拠が続いているというのが現状である。実際 国連には ハワイ王国の議席が今も空席のまま残っており、ハワイ王国は今も尚存在し続けているのが事実である事を訂正します。



 リリウオカラニ女王はその後、1917年、脳卒中からの合併症で79才で亡くなるまでWashington Palace に住んだ。今でもハワイの人々から尊敬されている。


 彼女がかつてハワイ王朝の女王であったことから、壮大な国葬が執り行われ、亡骸はthe 

Royal Mausoleum(王族の陵墓)に安置されている。

注:ハワイアンにとって彼女は永遠に女王であり続けます。


 彼女の死に際して、リリウオカラニ女王は、口述で、全ての所持品、財産を売り渡すようにと言い残した。


 その売上金はリリウオカラニ女王子ども保護基金として上げられ、孤児やネイティブハワイアンの子ども達を援助する為に用いられ、今日もなお保護基金の働きは存続している。


 1993年、併合から100年後、クリントン大統領は議会の決議に署名し、アメリカ合衆国政府は正式にネイティブハワイアンに謝罪した。

注:謝罪と共に ハワイアンは自らが自らの政府を選び統治する事が認められましたが、その約束は 未だ重視されていません。


翻訳 鳥飼 ちさ子

元記事の白人側に偏った文章に、ハワイの歴史を注意書で加えました。


ハワイの歴史については ハワイ大学の教材ともなっている UA MAU KE EA: Sovereignty Endures- The Textbookを参考にしました。