カタカムナ押し出すチカラ を表す文字「ン」と、空海。
茅葺の涼しかりける内裏かな 高資
片蔭に将門の眼こそ鋭けれ 高資
日盛りや剣璽は闇に眠りたる 高資
石南花に寄り添ふ獅子の親子かな 高資
吽形の獅子石南花を守りけり 高資
石南花の紫立ちて甘露かな 高資ー 場所: 大宝八幡宮
https://ameblo.jp/lightflower0803/entry-12355545420.html
【押し出すチカラ を表す文字「ン」と、空海。】
先週、世界ふしぎ発見!で「空海」が取り上げられてましたね。
興味深い話がたくさんあったので、周回遅れながら取り上げたいと思います(笑)
今更と思われるかもしれませんが、お付き合いください(笑)
中でも面白かったのが、文字に関する話でした。
番組によれば、空海は「ん(ン)」に初めて「文字」をあてた人物なんだそうですね。
それまで「音」では使われていても「文字」としては存在しなかった「ん(ン)」。
カタカムナでは、「ん(ン)」は48音中いちばん最後の音になります。
言靈は「かかる音を強める」。
数靈は48
思念で「かかる音を強める」と言われても、なかなかピンとこないですよね(^_^;)
そういう時は、実際に体感してみるのがいちばん!
試しに「ンー」と声に出して言ってみます。
すると、口は自然に閉じた状態で身体の内側に響く振動が感じられます。
内臓や骨、身体の内側がブルブルと震える感じです。
(目を閉じるとわかりやすいです(*^-^*))
確かに身体に強く力を込める時や、力を出す時って、思わず「ンーー!!」って出ますよね!
そんな風に、「ン」には力を強める働きがあります。
「ン」は、それ自体を音として口から発声することはできません。
自然に口や喉が締まります。
必ずなにか別の音が前にあって、初めて「音」として口から外に出すことが出来る音なのです。
例えば、「アイウエオ」順に「ン」をつけてみると・・・。
「アン」「イン」「ウン」「エン」「オン」
「カン」「キン」「クン」「ケン」「コン」
「サン」「シン」「スン」「セン」「ソン」
「タン」「チン」「ツン」「テン」「トン」
「ナン」「ニン」「ヌン」「ネン」「ノン」
「ハン」「ヒン」「フン」「ヘン」「ホン」
「マン」「ミン」「ムン」「メン」「モン」
「ヤン」「ユン」「ヨン」
「ラン」「リン」「ルン」「レン」「ロン」
「ワン」「ヰン」「ヱン」
清音だけ並べてみましたが、濁音、破裂音も含め全ての音の後に「ン」を付けることが出来ます。
こうして後に「ン」を付けることで、前の音の「思念」を強めるんですね。
「感じる」という思念の「ア」は、「アン」になると「大きく感じる・強く感じる」と変化し、
「伝わるもの」という思念の「イ」は、「イン」になると「大きく伝わるもの・強く伝わるもの」と変化します。
「ン」は、身体の内側に起こす振動によって、前の音(かかる音)を強く押し出すチカラを持っているのです。
こんな重要な音である「ン」には、最初、なぜか「文字」がなかったそうです。
驚きですが、その「ン」に「吽」の文字を当てたのが空海なのです。
804年、空海が仏教を学ぶために渡った「唐」は、当時、東西をまたぐ人種・文化・学問の中心的存在でした。
空海はそこで「仏教の文字に出来ない教え=密教」を学びます。
そして、日本に戻った空海が広めたのが「真言宗」でした。
「真言(シンゴン)」とは、もともとお釈迦様(仏様)が話していたインド・サンスクリット語そのままの言葉であり、そこにある教えを空海は伝えようとしたのです。
そして、サンスクリット語を表すには「ン」の文字がどうしても必要だったのですね。
テレビでは「空海が初めて[ん(ン)]に文字を当てた」と言ってましたが。
実は遥か昔、縄文時代以前には、すでに「ん(ン)」の文字は存在しました。
そう。
カタカムナの文字!(*^-^*)
神代文字と呼ばれた文字ヲシテ(ホツマ)文字や カタカムナの図象にも「ン」の表記はありました。
とすると、縄文時代以前には存在したはずの「ン」の文字は、なんらかの理由によって人々から消されてしまったことになります。
偶然に消えてしまったのか、はたまた何者かによって消されてしまったのか。
チカラの増幅装置とも言える「ン」を表す文字は、一度この日本から消失してしまいました。
真相はわかりませんが、それを空海が改めて「吽」の文字として世に送り出した・・・ということでしょうか。
空海がヲシテ文字やカタカムナを知っていたかどうかはわかりませんが、天才と呼ばれた高僧であり書にも通じた人物ですから、空海は当然、文字そのものがチカラを持っている事はわかっていたでしょう。
また、密教を学ぶ上で触れたサンスクリット語においても、「ン」の重要性について知っていたはずですから、空海自身にとっても「ン」という文字の復活は、なにより必要なことだったのではと思います。
サンスクリット語は紀元前5世紀の昔からあり、インドに22ある公用語の一つで今も生きている重要な言語だそうですね。
仏教での修行方法である瞑想や、そこから派生したヨガ、インドに古くから伝わる生命医学「アーユルヴェーダ」でも重要な位置を占めています。
サンスクリット語は、今も「アーユルヴェーダ」を学ぶための必修科目にもなっているのです。
先日、「TaoZen(タオゼン)」の大内雅弘さんの「チャクラ瞑想」というワークショップに参加した際、感想と共にカタカムナの「ン」についてお話させていただいたところ、瞑想で用いられるサンスクリットの「真言(マントラ)」においても、「ン」の持つチカラは大変重要で、カタカムナの「ン」の思念に通じるとおっしゃってました。
(本来なら先生と呼ぶべきところ、さん付けなのは、なんとなく大内さんが自由そうだからです(笑))
なんかこう、おおおー!って感動しましたよ!(笑)
「チャクラ瞑想」っていうと、なんだかちょっと怪しい感じがするでしょう?(笑)
まあ、ウチのブログを読んでくださってる方は、カタカムナや瞑想や目に見えない不思議なモノに興味がある方が多いでしょうから、さほどでもないかもしれませんが。
でも、まだ一般的ではないですよね(^_^;)
吉野信子先生がよくおっしゃってる「真の言葉」と、「真言」は同じ意味ですし、言葉を音として体感することが出来ると思って参加してみました。
実際、参加していろんな発見が出来て、とてもよかったです(*^-^*)
本当なら参加が難しかったところを、相談に乗ってくださってとても感謝しています。
カタカムナを学んでいて面白いなと思うのは、カタカムナだけでなく、人に欠かせないもの・歴史的にすたれることなく長く伝わるものに「真(まこと)」というところで繋がりが見いだせるところです。
それは言葉であったり、音であったり、数であったり、形であったり。
現れ方は様々ですが、そこに「真(まこと)」があり、結びついている・・・という発見が心地いいのです(*^-^*)
一つの番組から、「ン」について改めて学んだり、前に体験したことが生きてきて、とても楽しかったです。
世界ふしぎ発見、ありがとう!(笑)
http://www.kumanolife.com/History/katakamuna.html
【六甲山中での不思議な出会い】
戦時中、一部の産業界や軍部から天才科学者と評価されていた楢崎皐月という人物がいました。その楢崎皐月が戦後、才能を高く買ってくれていた星製薬社長の星一氏の依頼で、当時の食糧難と将来に備えた農業技術の開発という名目で研究を始めることになりました。そこで、助手の青年数名と一緒に六甲山系・金鳥山に入り六十日余りの穴居生活をしながら研究をしていたろころ、穴居の扉をドンドンと叩く者がいました。楢崎皐月が出ていくと、初老の猟師が鉄砲を持って立っていました。猟師は「山に何しに来た。お前さんたちが泉に妙なものを仕掛けるから、森の動物たちが水を飲みに行けなくて困っておるのじゃ。すぐに除けてやってくれ。あそこは動物たちの水飲み場なんじゃ」と訴えるのでした。それは楢崎皐月たちが泉に電線を張り巡らせて水の成分も分析していたからでした。翌朝、楢崎皐月たちが電線を外すと、その夜に再び猟師が現れました。「お前さんたちは感心な人たちじゃ、穴居しなければ本当のことは分からんものじゃ。これは、すぐに外してくれたお礼じゃ」といってウサギを1羽くれたといいます。そして、その猟師は「儂は平十字という者じゃ、父親はカタカムナ神社の宮司であった。これは父祖代々伝わるご神体で、儂たちなんかが見たら眼がつぶれると伝え聞いているもので、秘密にされてきたものなのじゃが」と告げられて古い巻物を見せられたといいます。その巻物は古い和紙に書かれてあり、円と十の字を基本とした図形を渦巻き状に配列したもので、暗号のようなものに見えるものでした。猟師は「今までにこれを見て、刀のつばや定紋ではないかといった学者がおったが、そんなものではないのじゃ、このカタカムナの神を伝える家は、平家と食家(中家を入れて三家という説もある)の二つしかない」と語ったといいます。楢崎皐月はその巻物に描かれていた図形を見て、満州にいた頃に老子教の道志であった蘆有三に聞いた話を思い出しました。それは「日本の上古代に、アシア族という種族が存在し、八鏡の文字を使い、特殊の鉄を作り、さまざまな生活技法を開発し高度な文明を持っていて、それが神農氏らによって伝えられシナの文化のもとになったものと秘かに伝わっている」というものでした。巻物の図形を見て、楢崎皐月はこれが八鏡文字ではないかと直感したのでした。そこで楢崎皐月は猟師に巻物を写 し取ることを申し出ました。平十字と名乗る猟師はすぐに了解したといいます。このようにして楢崎皐月が六甲山中で平十字と名乗る不思議な猟師に出会ったことで写 し取った図象がカタカムナ文献だとされています。カタカナのもとになったのがカタカムナ文献であり、平十字なる人物がサンカ(山窩)ではなかったのかとの話もあります。
楢崎皐月
楢崎皐月は1899年(明治32年)に山口県に生まれて北海道で育ちました。日本電子工業 の専門学校を卒業したのちに独学で物理や化学を勉強したといいます。20代で当時輸入に頼るしかなかった特殊絶縁油を発明したことで、軍の要請を受け満州の陸軍製鉄所長兼技術研究所長として技術開発を行いました。 その満州の吉林に滞在していた頃に、その地でもっとも人々の尊敬を集めていた老子教道志の蘆有三老師と出会ったことで、楢崎は老子教の古伝にある不思議な話しを聞かされることになります。その時の話しがカタカムナ文献の発見につながるのでした。また楢崎皐月は重要な発明、発見をした科学者ではありましたがあまり欲がなかったのか特許も出さず著作も概論以外のものは残さなかったようです。その楢崎皐月が平十字から見せられた巻物を写 したものを約5年かかって文字の意味と解読に成功したものがカタカムナ文献だといいます。その研究を勉強する会が今も続いていて、「相似象学会」という勉強会を作り「相似象 」 という会誌に解読の成果を一部発表しています。
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-4276.html?sp
【鉄からニギハヤヒへ、そしてカタカムナへ】 より
まずyasuさんからのメールの紹介から。
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---Original Message---
From: yasu
Sent: Sunday, January 03, 2010 1:32 PM
To: ふるいちまゆみ
Subject: 鉄
信濃の鉄ものがたり読んでる?
まゆみさんの言うこともやることも、
いつもほんとは答えがわかってて答えあわせしてるみたいだよね。
他にもいろいろ書いてあるけどその一部。
信濃の鉄ものがたりの 85 御牧ヶ原散歩
サ・シ・ス・セ・ソの音はすべて「鉄」の意と言われている。
95 伝承を読む
山に入り鉱物資源を探すことが修験者に課せられた
任務の一つではなかっただろうか。
107 八面大王 伝承地を行く
上古代の韓国に「穢(えぇ)」と呼ばれた強力な部 族国家があり、紀元前8世紀以前から、
朝鮮半島北 端の豆満江岸茂山の嵌入地帯の砂鉄が豊富に集まる
「三日月地帯」に製鉄国を築いていた。
穢=?(ワ イ)らしい
↑穢=?(ワイ)らしいけど、穢多(えた)もこの あたりからきてるんじゃないかな。
日本に先に移っ てきた製鉄民族?
図書館で古代製鉄物語って言う本借りてきてパラパラめくってたら、
ニギハヤヒは製鉄に関係あって、日置郡の日置氏も製鉄に関係してるんじゃないかって。
日置氏は土師氏、忌部氏とならんでニギハヤヒに従う企業連合的な職業氏族だって言う説も紹介してる。
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時間がなくて諏訪以外は読んでいない。
>サ・シ・ス・セ・ソの音はすべて「鉄」の意と言われている。
これはこの前書いたけど、もう一度、大当たり!
『サ・シ・ス・セ・ソはきっと鉄なんだよ。』って書いたものね。
修験者も当たってるね。
穢といえば、
穴と鉄の
『自宅の火が穢れたときには鍛冶屋へ行って
きれいな火を分けてもらうなどの習俗があったこと、』
穴と鉄から「金屋子神」へ、そしてとんでもないことにの
『①金屋子神は人間の女を嫌い、月の穢れ、産の穢れを忌む。』
穢、穢れとはやっぱり鉄だったんだね。
穢(わい)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-3-wai.htm
ニギハヤヒも当たったね!
『じゃ、やっぱり、ニギハヤヒ、物部は鉄だ!』って書いたものね。
”ニギハヤヒに従う日置氏”ってなんか凄くない?
H氏とはそういう間柄だったのかも。
彼の本拠地から近くだし、HNはここから取ったそうだし。
日置氏がニギハヤヒを従わせようとしたので、私の産土神であるニギハヤヒが怒った?
いよいよ彼との関係がみえてきたかな?
まだかな?
yasuさんがまた「楢崎皐月って製鉄がらみだよ。」って、メールくれた。
http://www.kumanolife.com/History/katakamuna.html
『軍の要請を受け満州の陸軍製鉄所長兼技術研究所長として技術開発を行いました。』
この前、三木市、三田市と三がつく場所は鉄じゃないかと書いたけど
金鳥山も鉄なのかな?
金かと思ったけど、金属の金かもね。
でもやっぱり金は捨てがたい。
昨日のカタカムナといい、一気に鉄でつながってきた。
鉄→ニギハヤヒ→日置氏(土師氏、忌部氏)・・・カタカムナ→楢崎皐月→鉄
楢崎さんは満州に行ってるみたいだから、あっちでも鉄だったりしてね。
金鳥山が鉄なのか金なのか。
金鳥山と鉄で検索してみた。
Reカタカムナ文献研究者・楢崎皐月考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/mojikakutokuhico/katakamunagoco/narazakisatukico.htm
『1941(昭和16)年、 陸軍省からの要請を受け満州の吉林(きーりん)製鉄所の陸軍製鉄技術研究所所長として渡満。貧鉄から品質の高い鋼の製造に成功。その後、軍の特務研究に従事。次のような娘の証言がある。 「軍の内密の命令により、今で云う原子力(父は質量勢力といっていた)の基礎研究のようなことをやるためであった。もっとも表向きは製鉄試験場ということで、貧鉄鉱から良質の鉄を精錬する研究なども行っていた」。 ・・・・・日本人として初めて寄進したことから、蘆有三に招じられ一服の茶を勧められた。楢崎はこの時、不思議な鉄製の茶釜を見せられている。蘆有三は、庭の泉水を汲んで入れ、4~5枚の木の葉を揉んで火打石で点火した。その場で出されたお茶は舌を焼くほど熱かった。楢崎は、僅かの火で湯を沸かす特殊な鉄に強い興味を持った。その茶釜を貰い受けたいと訪問を重ね懇請したと云う。』
やっぱり鉄だ。
星製薬のことがあるから、薬と鉄かな。
須磨区に鉄拐山という山があった。
もしかして、鉄道沿線の近くって鉄の産地が多いということはない?
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それから3日に記事にした7人の遭難騒ぎがあった寺地山は「神岡だよ」ってyasuさんが。
<img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/07/62/b0086362_2153661.jpg" border="0" OnClick="window.open('http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/07/62/b0086362_2153661.jpg',200,130,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>
神岡だったんだね。
神岡と7。
金、銀、銅、鉛、亜鉛を算出していた神岡鉱山。
神岡鉱山、神岡、カミオカンデ、三井のことは過去にたくさん書いたので検索してください。
三井家も鉄だろうね。
三井金属 神岡鉱山ってどんな鉱山?
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/more/kouzan02.html
720 年頃 黄金を産し天皇に献じた口伝あり。
1589 年 越前大野の城主、金森氏の家臣、糸屋彦次郎(後の茂住宗貞)が鉱脈を発見。金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営した。
1600 年頃 飛騨地方は江戸幕府の天領となり、文化14年(1816)には前平坑を幕府直轄の鉱山(御手山)とした。
1874 年 三井組が大留・前平・蛇腹・鹿間の各坑(栃洞坑)を買収し、鉱山経営を開始。
1886 年 鹿間谷で洋式鉛製錬を開始。
1889 年 茂住坑を取得し、経営は神岡全山に及ぶ。
1905 年 鹿間選鉱場建設。
1927 年 鹿間選鉱場に優先浮遊法を採用。
1943 年 亜鉛電解工場完成。
1968 年 栃洞坑にトラックレス・マイニング法が我が国で最初に導入。
1986 年 三井金属より分離・独立。神岡鉱業株式会社設立。
2001 年 神岡鉱山鉱石採掘中止。
http://www.buzan.or.jp/index-1-4.html【弘法大師の生涯と業績 真言宗豊山派】より
誕生と少年時代
弘法大師
弘法大師は、奈良時代末の宝亀5年(774)6月15日、現在の四国香川県善通寺市で、父 佐伯直田公さえきのあたいたぎみ 、母 玉依たまより の三男としてお生まれになりました。
幼名を 真魚まお といいます。
聡明だった真魚は、早くから伯父で桓武天皇の皇子の教育係も務めた 阿刀大足あとのおおたり より漢語や詩・文章を学んでいました。
求道の青年時代
15歳のとき、阿刀大足に伴われて上京し、さらに学問を学びました。そして18歳の時、大学の明経科に入り学問を続けますが、官吏養成を目的とした立身出世のための勉強は、空海が求めていたものとは異なっていました。そして人生の根本問題を解明するためには仏教を学ぶ事が必要だと考えて、大学を中退し仏道に進む決心を固めるのです。
初めに一人の僧侶から 虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほう という密教の修法を学び、四国や奈良県吉野の山々をめぐり修行を重ねました。やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。しかし、24歳の空海は『 三教指帰さんごうしいき 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。
入唐求法
仏教の研鑽を続けていた空海は、大和 久米寺くめでら で、密教の根本経典『大日経』を目にしたとされています。しかし、密教の経典は、阿闍梨からの直接の伝授がなければわからない事が多く、入唐求法の機会を待っていました。31歳のとき、遣唐使船に乗り、入唐する機会を得ました。延暦23年(804)7月6日、今の長崎県 田浦たのうら を出港します。
ところが暴風雨に遭い難破し、空海の乗り込んだ船は、34日間の漂流の後、幸いにも中国の 福州ふくしゅう の付近( 赤岸鎮せきがんちん )に漂着しました。
しかし通常は、遣唐使船の訪れない土地ゆえ、上陸を許可されず、遣唐大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。そこで空海が書簡を書したところ、その理路整然とした文章と優れた筆跡により、遣唐使船であると認められます。その後上陸が許可され、12月に遣唐使一行は首都長安に着く事ができました。
長安到着後、空海は西明寺に住し、精力的に学んでいました。そして翌年5月末、青龍寺の恵果和尚をたずねました。恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我、先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし……」と言い、その年の12月15日に入寂するまで、 正嫡しょうちゃく の弟子として、空海に自分の教えのすべてを授けました。
恵果和尚入寂後、空海は「恵果和尚碑文」を書したのち、和尚の教えを守り、33歳の秋に帰国されました。
空海は大同元年(806)10月、九州に到着し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺ちくしかんぜおんじ に住しました。そして大同4年(809)、朝命により上京し、 高雄山寺たかおさんじ に入住しました。
高雄山寺から高野山へ
嵯峨天皇さがてんのう の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。そして空海のもとには多くの僧侶が集まり、日本天台宗の宗祖・ 伝教大師でんぎょうだいし 最澄さいちょう も高雄山寺に登って灌頂を受法されました。
空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年(816)には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。
文化活動
空海は偉大な思想家であると共に、多彩な文化活動をしました。唐で集めた文献や新知識により、社会のため人々のため優れた才能を次々と発揮されたのです。
中でも 満濃池まんのういけ の修築工事では、水圧に対してアーチ型の堤防を築くなど技術指導をされ、現在に至るまで利用されています。この他にも道を開き、橋を架け、井戸を掘り、温泉の効用を教え、漢方医学の知識を授けたなどの伝承があります。
また文化史上最大の功労者でもあり、『 十住心論じゅうじゅうしんろん 』や『 秘蔵宝鑰ひぞうほうやく 』をはじめ、多くの著作を著しています。『 文鏡秘府論ぶんきょうひふろん 』『 文筆眼心抄ぶんぴつがんしんしょう 』は日本最初の文章学概論であり、文芸評論でありました。
また『 篆隷万象名義てんれいばんしょうめいぎ 』という日本最初の辞書を作られました。『三教指帰』『 性霊集しょうりょうしゅう 』 などは、詩・文ともに、日本の文学史上高い評価を得られています。
中国語や梵語など語学にも造詣が深く、書道では三筆の一人として、美術においては弘仁期以後の仏像・仏画に大きな影響を与え、建築においても同様でした。
さらに日本最初の庶民教育機関「 綜芸種智院しゅげいしゅちいん 」を開き、教育の機会均等を実現したのです。
ご 入定にゅうじょう
金剛峯寺
承和じょうわ 元年(834)、数ヶ月後の入定を予期しつつ、国の安寧を祈るため、宮中に道場を開いて真言の秘法を修する事を奏上し、勅許を得ました。これは今日に至るまで「 後七日御修法ごしちにちみしほ 」として連綿と続いており、真言宗最高の法会とされています。
承和2年の正月、御修法の 導師どうし を勤めた空海は、弟子たちに遺言をのこし、3月21日、62歳で高野山において入定されました。そして86年後の延喜21年(921)、醍醐天皇から弘法大師の 諡号しごう を賜りました。
http://www.buzan.or.jp/index-02-4_16.html 【VOL.16 弘法大師理解の多様な方法】
真言宗豊山派宗務総長 星野英紀
弘法大師空海を理解しようとするアプローチはいくつもあるが、大きく分けて三つあるように思う。
一つ目は、弘法大師空海の人間的側面を見ようとする立場である。人間としては空海も私たちも同じである。極端にいえば、空海さんも私たちと同じように、喜び、悩み、悲しんだに違いないということである。
二つ目は、空海は普通の人間というよりも超絶的能力を持った天才であるという立場である。今の若者表現でいえば「チョー」が頭につくような才能を持つ。「チョー頭いい」、「チョー秀才」、「チョー天才」というような人が弘法大師空海さんである。宗教的実践家としても宗教思想家としても、飛び抜けた存在だという立場である。「チョー天才弘法大師」などというと、怪しげな、狂信的弘法大師崇拝のように思われるかもしれないが、善意ではあるものの、多少「いっちゃってる」感のある僧侶もここに入る。
三つ目は、しっかりした資料(史料)に基づいて、もっぱらそれに基づいて、厳密に空海像を再構築しようというアカデミックな空海研究である。宗学者の弘法大師理解もこのカテゴリーに入るものであろうが、近年非常に進んできた歴史学者たちによる空海研究や日本密教研究もこの領域なのではないかと思う。
実は「空海も人間だ」派も「空海は天才だ」派も「アカデミック」派も、必ずしも相互にあい対立しているわけでない。ほとんどの空海理解はそのいずれを備えている。ただし、どれらか一方の見方に重点が置いているということである。
ところで、私は最近あまり読書の時間がとれず困っているのであるが、そうした環境のなかで、保坂隆さんという精神科医の『空海に出会った精神科医‐その生き方・死に方に現代を問う‐』という本を読んだ。
総本山長谷寺への往復電車のなかで読んだので、かなり雑かもしれないことをお断りしておくのであるが、その中で「空海はうつ病だった?」という章があり、それも大師は生涯で三度うつ病に襲われたという指摘である。それを聞いただけで頭から湯気を出して怒る人がいるのが目に浮かぶようである。著者の弘法大師理解は自らの精神科医として磨いてきた経験と知識を用いながら、空海のライフコース理解を進めようとするものである。「空海には三回ほど重篤な疾患に罹り、死を思っていた時期がある」(松長有慶『空海』)ということはしばしば指摘されていることであるが、保坂氏によればそれは現代人にも蔓延しているうつ病の症例研究で理解できるという。弘法大師は「几帳面、律儀、綿密、きまじめ、責任感や正義感が強く、凝り性で仕事熱心」という特徴があり、この性格はうつ病になりやすい性格なのだという。つまりこのあたりは精神科医として弘法大師空海を捉えようとしている。ただし、客観的に心理学的に空海を分析しようという立場にとどまっているのではない。たとえば空海の入定をめぐる記述には、著者の空海への深い熱い思いがあふれている。
かつて弘法大師の書の文字を分析して、その書を書いた時の弘法大師の心理状態を解釈する番組を見たときにも、面白いことを考える人がいるのだなあと感心したことを記憶している。
私はこうした「人間空海」を捉える方法に大変興味を抱いている。私の中では、即身成仏を達成した空海とうつ病になった空海はまったく矛盾していないのである。むしろ、こうした人間空海論を読むと一層弘法大師が身近になるように感ずる。