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平安京の四神相応

2023.12.25 02:07

鳳の雲と翔るや秋夕焼  高資

火と水を斎く社や九月来る  五島高資ー 場所: 太平山神社

「居着く」「鋳付く」「傅く」「慈」「美」「厳」色々ありますね!!

室の八島のある大神神社の宮司も兼ねておられる太平山神社の宮司さんを訪ねて2時間半ほど神社の縁起や人麻呂や製鉄との関係などについて歓談しました。色々な発見がありとても有意義でした。

「大神神社」は古代製鉄の職人集団の居住 した地だそうですね。

第5章 近代室の八島・第6章 現代室の八島 以降の備考

tntenji.sakura.ne.jp/bikou/kingendai_bi.html - キャッシュ

これが現在の大神神社の由緒 では「第十代崇神(すじん)天皇の皇子豊城入彦(とよきいりひこ)命が東国治定の時」 と、崇神 ...... の「大神神社」古代製鉄の職人集団の居住 した地でもあり「煙の名所」 の呼称も嘘ではない由緒のある下野最古の神社である。」

亀が玄武(水性)、鶴が朱雀(火性)と見なされ、南北をも示しているそうです。


https://ameblo.jp/kazue-fujiwara/entry-10284440744.html  

【平安京の四神相応を考える】


http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail03/

【神社と記紀の神々 - 奈良県】

ヤマト王権成立よりも古い奈良県の神社

奈良県の古社には、ヤマト王権が発生する前から奈良盆地に根を張り、生活してきた氏族に由来するものが多く見られます。大神神社の三輪氏、石上神宮の物部氏、葛城山の裾野の葛城氏や鴨氏などです。それら氏族が祀ってきた神々は、ヤマト王権成立後に王権所縁の神々に習合されていきました。こうして、王権所縁の神々とともに、それぞれの地域、氏族の神々が「古事記」「日本書紀」に登場することになったのです。

社殿のない神社

柿本人麻呂は「石上布留の神杉神びにし吾やさらさら恋に遭いにける」(訳・石上の布留の森の神杉のように、神さびて古び年老いたこんな私もまた恋をするのだなぁ)と、布留の森を歌いました。「布留の森」とは石上神宮(いそのかみじんぐう、天理市布留町)の森のことです。この神社は大神神社(おおみわじんじゃ、桜井市三輪)とならび、我が国最古の神社であるとされています。さらに大神神社との共通点は、もとは社殿のない古式の信仰形態をとっているということです。大神神社のご神体は、よく知られているように秀麗な山容の三輪山ですが、石上神宮の場合は「高庭の地」という、「布留の森」の奥にある空間を信仰の対象としています。この空間に崇神天皇七年、物部氏の遠祖である饒速日尊(にぎはやひのみこと)が天下るときに持ち来たった十種の神宝と、神武天皇が大和へ東征した折に、一行を土地の神々から守護した布都御霊大神(ふつのみたまのおおかみ)という神剣が埋められました。おどろくべきは、明治7年に当時の宮司により社地を調査した際、多くの宝物が発見され、現在は神宝として奉斎されているのです。そのような石上神社と大神神社は、「山の辺の道」とよばれる、我が国最古の官道のような道でたどることができます。山裾に座す二つの社と山裾を縫う古道により、古代奈良盆地の情景を想像することもできるのです。

鴨神社のはじまりは奈良にあり

奈良盆地の南西方には、ヤマト王権発生以前からの風格をもつ神社が多く見られます。「古事記」にも名前が出てきますが、鴨都味波八重事代主(かもつみやえことしろぬし)を主祭神とする鴨都波神社(かもつばじんじゃ、御所市宮前町)がそのひとつです。この神社周辺には、古代鴨一族が水稲耕作を営んだ遺跡があります。事代主を奉斎して田の神を鎮め祀った所以から、皇室の守護神として崇拝され、またそれを祀る鴨氏は神武、綏靖、安寧の三帝に娘を娶らせました。のちに平安京遷都後も洛北に盤踞する鴨氏(加茂氏)の祖神である高鴨神社も葛城山の山裾にあります。全国に数多くある鴨社は、すべてこの高鴨神社に源を発しているといわれています。全国の鴨神社のルーツは奈良にあったのです。

一言主神社の由来

「古事記」「日本書紀」雄略天皇の条に、天皇が狩りをしていると、ご自分と同じ身なりをした神が現れ、ともに鹿狩りを楽しんだとあります。またこの神はよきこと、悪しきことを一言で言い放つ神、と書かれています。一言の願いなら何でも聞き届けてくれるという信仰をもち、里人からは「いちごんさん」と呼ばれ、現在も親しまれています。それが一言主神社(ひとことぬしじんじゃ、御所市森脇)です。

近年、神社を訪れる契機としてパワースポットという考え方があるようです。パワースポットとは、訪れる人の心の充足をもたらす場所という意味のようですが、それらの場所は、少なからず歴史と我々を結ぶ場所でもあります。ふだん私たちが何気なく目にしている神社には、由緒はもちろんのこと、興味深いエピソードがたくさん残されています。「古事記」「日本書紀」をひもとけば、神社参拝もまた違った楽しみがプラスされるかもしれません。

監修:奈良大学文学部国文学科 上野 誠教授


https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11930866671.html  

【葛城王朝【葛城古道を訪ねる】】  より

【葛城王朝】

▶大和政権確立前

大和政権確立前には、色々な説がある。

日本の古代歴史学者の間に王朝交替論と呼ばれる学説がある。天皇家は『古事記』や『日本書紀』に記述されるような万世一系などではなく、幾度も王朝が交替しているという説。

「騎馬民族渡来説」→江上浪夫

「三王朝交代説」→水野裕

「三輪王朝」→上田正昭

「丹波王国」

「葛城王朝説」

「物部王朝」

そうした各種の古代王朝交代論の中で、研究者がほぼ一致して、最初の王朝の建設者としてあげているのが崇神天皇である。

▶古代王朝の「葛城王朝説」

「葛城王朝」と言われるような邪馬台国の後継王国的なものが古墳時代に大和葛城地区に存在していた。そして、葛城王朝に取って代わる新政権が誕生する。これが崇神天皇であり、これこそ「大和王権初代」であるという。(3世紀末ー4世紀初め頃)

4世紀末あたりからその葛城王朝の血筋を引く一族が勢力を伸ばし大和王権に匹敵するくらいの力をもった。大和王権との婚姻関係成立。その血筋の天皇出現。

しかし、葛城氏の血筋を引かない21代雄略天皇の頃(5世紀中頃?)その葛城氏は 、滅ぼされた。葛城王朝は、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる初期ヤマト王権によって滅亡しましたと言われている。

その後葛城氏の血筋を引いたと思われる蘇我氏が台頭し、遂には大化の改新を迎える結果となった。しばらく蘇我氏の裔が権力中枢に残ったが、藤原氏の台頭により消滅。

▶古代から神々が鎮座する聖なる山

大和と河内にまたがる、金剛山と葛城山の連山は、古代から神々が鎮座する聖なる山である。  

この山の東裾野一帯は、大和朝廷よりもはるか以前に栄えていた「葛城王朝」と呼ばれる葛城氏の故地であった。

南北に延びる葛木古道一帯は、1600年以上も昔に、大和朝廷を支え興隆した古代豪族の「葛城氏」や、もっと昔には、「鴨氏」の本拠地だった。『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されている。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とし、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくくった。

また、土蜘蛛の最も有名な根拠地である。身長が低くて手足が長く、小人のようだと記されている。天皇軍は葛の網を作って、不意を襲って殺した。それでこの地を「葛城」というようになったと書かれている。

修験道の開祖「役小角」(賀茂氏)土蜘蛛の子孫は、欽明天皇六年(634)葛城上郡茅原郷矢箱村で生まれた。

役小角は「鬼神を役使した」→道教 道教系の呪術を使う。呪術師だった。また修験道の本山「金峯山寺」の創造した人物です。

【葛城氏】

武内宿禰を元祖とする奈良盆地西南部(葛城郡)に古くから土着していた豪族である。

3世紀末から4世紀にかけ長期間にわたって奈良盆地東南部(三輪山麓)にある「大王家」から独立する体制を築いてきた。

◉武内宿禰

武内宿禰(この宿禰は人名)を祖とする8氏族は、

「許勢臣〔こせのおみ〕」「平群臣〔へぐりのおみ〕」「葛城臣〔かつらぎのおみ〕」「紀臣〔きのおみ〕」「波多臣〔はたのおみ〕」「江野間臣〔えのまのおみ〕」「蘇我臣〔そがのおみ〕」

*「臣」姓を持つ氏族は、都近くに住んで朝政を担当しており、倭王権との関わりが深いです。多くは居住地名を「氏名〔うじな〕」としており、第8代孝元天皇以降の王室を祖先と称しているようです。

15代応神天皇の擁立に神功皇后と活躍し、後の大臣を産み出した氏族の祖は総て武内宿禰というのは余りに出来過ぎで架空の意図的改竄系図である、とも言われている。また年代的にも不合理であるなどである。

後の大豪族蘇我氏が葛城襲津彦の直系の血筋として発生したとしている。

◉葛城垂水宿禰(かづらきのたるみのすくね)

垂水宿禰は、開化天皇の后の父にあたる。

葛城の女性が生んだと伝えられる王を祖とする諸氏が葛城ー河内ー丹波ー日本海沿岸中部にわたっている。

葛城之垂見宿祢の女、鸇比売(わしひめ)を娶して生みませる御子、建建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)は、越の道守臣(ちもりのおみ)、葛城の忍海部造(おしぬみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽の忍海部(いなはのおしぬみべ)、丹波の竹野別(たかぬのわけ)、河内の依網(よさみ)の阿毘古(あびこ)等が祖なり。

◉葛城襲津彦

4世紀末葛城地方に古墳が出現した。そのことは、この時期に葛城氏が、「大王」の支配下に入ったことを示している。との説あり。

応神天皇以降は、ほとんどが葛城氏との血縁が政治的にも大きな意味を持っていた。

少なくとも5世紀前半の間は、朝廷は、「大王家」と葛城氏との連合政権ではないかと思われるほど葛城氏の勢力は、強かった。

その時期の葛城氏をまとめたのが「葛城襲津彦」である。

娘の磐之媛を16代仁徳天皇の后とした。17履中、18反正、19允恭の母となる。

15応神天皇以降の天皇はほとんどが葛城氏の女性を妃とするか、母としていた。このことは、葛城氏の政治権力の大きさによるものか、あるいは当時の王権の構造に由来するか。

葛城氏は、紀伊ー難波ー淀川ー木津川ー筒城ー那羅山ー倭ー葛城の交通を確保し、かなりの広域な地域的連携の上に成立していた。それを示すかのように葛城氏は紀氏を初め、息長氏や和珥氏、吉備氏などと連携関係にあった。

また、南河内にも勢力を張り、神戸の垂水から但馬・丹後に通じていた。また吉備王国とも結んで瀬戸内ルートも抑えていた。

ブログ☞和邇氏

ブログ☞吉備王国

ブログ☞丹後王国の地

☞渡来人との関係

『日本書紀』神功記には葛城襲津彦か葛城の忍海など四邑に住む漢人の祖先を連れ帰ったとする記事がある。

「葛城の豪族 葛城襲津彦が朝鮮半島 新羅の蹈鞴津の港から上陸し、草羅城を攻め落として帰ってきた。 その時連れ帰った人達が現在桑原、佐糜、高宮、忍海の四箇所に住む人達の祖先である。」

葛城襲津彦は朝鮮半島へ遠征し、「秦氏の祖である 弓月君を招いた」とされる。

ブログ☞秦氏の影響

葛城襲津彦が新羅に派遣されたのが328年であったと認められているため、葛城襲津彦は4世紀末~5世紀初めの人物とされている。新羅と抗争し多数の捕虜をつれて帰った勇将であり、韓諸国との外交関係に活躍した「ヤマトの将軍」とされている。

◉「葦田宿禰」と「玉田宿禰」の二つの系統

葛城垂水宿禰

  ↓

葛城襲津彦

  ↓

  北部の「葦田宿禰」→蟻臣

  南部の「玉田宿禰」→円大臣

また、大和岩雄氏によれば、葛城臣と葛城首を出自の同じ土着勢力として一緒に論じてはならないという。

葛城臣(おみ)

葛城首(おびと)☜土着の葛城氏

これについては、石上神宮の物部氏のところでも述べた

ブログ☞二十二社 石上神宮(いそのかみじんぐう)

【紀氏との関係(古代大和の鉄の道の最重要路)】

まず、武内宿禰を祖とする葛城氏だが、武内宿禰の母が紀氏の女性である。

また、葛城の地に紀氏の同族が居住し、深い結びつきがあった。

ブログ☞紀伊国 紀氏

(紀伊風土記の丘資料館展示より)

紀の国は古代から昔クス・スギ等の良材の産地で、これを利用した造船技術が発達し、紀州独特の大型構造船の製造地で あり、紀ノ川河口には、岩橋千塚古墳群(国内最大級の群集墳)、大谷古墳(朝鮮に関係深い馬胄・馬甲等出土)、鳴滝遺跡 (紀伊水門倉庫群跡)があり、瀬戸内海から紀伊水門を門戸に紀ノ川を溯って大和に入るルートが、大和と朝鮮を結ぶ重要 な幹線で、古墳時代中期は和歌浦より紀ノ川を遡り、この紀路を経由して、中国大陸や韓半島から渡来した人・物の情報が 大和へ入ってきたと推定されている。

大和へ入る「紀路」は 五条で舟を降り、東の吉野へ分け入る紀ノ川(吉野川)を離れ、陸路で金剛山東麓を北の分水嶺を越え れば、大和・葛城 現在の御所市である。

この紀ノ川水系から大和への分水嶺の峠が「風の森峠」で、4世紀 天皇家の外戚・大臣として権勢を伸ばした鴨族の本拠 地「鴨神」で、さらにその北側 金剛山東山麓から葛城山麓が「葛城」で葛紀氏の本拠である。

この初期王権の最大の交易品は朝鮮半島諸国から移入される「鉄素材」だった。

その輸入路の支配が日本統一の源泉だった大和王権にとっては生命線で、数多くの渡来人や文物がこの道を通って大和 に入った。

大和王権の外交・軍事の一翼として活躍したのが、紀ノ川の河口を押さえる紀氏であり、葛城に本拠を構える葛城氏 であった。

【葛城氏が最も権勢を誇った五世紀】

5世紀前後、幾世代にも渡った大王家の外戚として知られている葛城氏。

葛城氏の本拠とされる葛城地方は、先に述べた文献資料にある「葦田」や「玉田」を考慮し、馬見古墳群のある広瀬郡、葛下郡(葛城北部地域)、忍海郡や葛下郡(葛城南部地域で、室宮山古墳等がある)と考えられる。即ち奈良盆地の西方を占めている。

葛城地域には、馬見北、馬見中、馬見南、新庄、室・国見山を本拠として、5つの有力な政治集団が存在した。

▶馬見古墳群(うまみこふんぐん)

4世紀末から6世紀にかけて造営された。古代豪族・葛城氏の墓域とみる説もある。この葛城地域には、古墳時代前期の中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から中期には、墳丘長200メートルを超える規模の古墳が造営されている。北群、中郡、南群の3群からなる。

なかでも4世紀末から5世紀初めの築造の巣山古墳(すやまこふん)はは、最大級の古墳で、大王の墓域が佐紀から河内へ移動する時期に築かれた前方後円墳。葛城襲津彦の墓と言う説が有力。

☞渡来人の鍛冶工房「忍海」

『古事記』清寧天皇3年には官名として「葛城忍海之高木角刺官」と見え、また『日本書紀』神功記には葛城襲津彦か葛城の忍海など四邑に住む漢人の祖先を連れ帰ったとする記事がある。

「葛城の豪族 葛城襲津彦が朝鮮半島 新羅の蹈鞴津の港から上陸し、草羅城を攻め落として帰ってきた。 その時連れ帰った人達が現在桑原、佐糜、高宮、忍海の四箇所に住む人達の祖先である。」

「忍海」は大和平野 金剛・ 葛城山の山麓 葛城市(新庄町)にある。

このように忍海の地はもともと葛城に含まれていたが、大宝律令施行以前に、葛城国が葛上郡と葛下郡に分割されるか、後にさらに分離成立したと考えられる。

忍海の後背の葛城山山麓の尾根 筋には 5世紀後半以降6世紀から7世紀にかけて、横穴式石室を持つ群集墓が作られ、鉄滓や鍛冶工具が副葬されている。横穴石室を持つ群集墓 い ずれも こ の時代に朝鮮半島から持ち込まれたものであり、鉄と関係する渡来人が この 「忍海」に古くか ら住み着き 鉄の生産 に携わっていた。

▶極楽寺ヒビキ遺跡

極楽寺(地名)で発見された5世紀前半の豪族居館遺跡。

葛城山麓の高台の上にあり、北と東が谷に面し、南と西には濠と塀がめぐらされる。大型建物跡の床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級。古代豪族葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に位置。建物や塀はほとんどが焼失しており、葛城氏が雄略天皇の軍勢の攻撃によって滅びたとする日本書紀の所伝を裏付ける。

日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。大伴・物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。大王(天皇)家を支えながらそれに匹敵する力を蓄えた葛城氏は、その後姿を消してしまう.

▶石光山古墳群

5世紀後半に前方後円墳の築造を契機として造営が開始される

副葬品にもこの古墳群の特徴が現れていて耳飾りや玉類などの装身具や武器や武具類もあるが、これらの僅少さに比較して、鉄製農工具類を副葬する割合か高い傾向か指摘されている。

▶地光寺跡

忍海郡に所在する唯一の古代寺院跡

屋瓦には新羅系の特徴をもった鬼面文軒丸瓦や三重孤文軒平瓦が使用されていて、朝鮮半島から渡来した系譜をもつ忍海氏の氏寺と考えられている。

▶脇田遺跡

遺跡は縄文時代に始まり、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代にかけて断続的に営まれ、6世紀後半以降の土坑や溝などの遺構のほか、堆積土中からも鉄滓、箱羽ロなど鍛冶関係の遺物や、製塩土器か多数見つかっていることで、かつての地光寺跡の発掘調査でも東西の両遺跡から鉄滓か出土していて、この一帯に鍛冶工房の存在か推定され、盛んに鉄器生産か行われていたことを示している。

▶葛城坐火雷神社(笛吹神社)

火雷大神と天香山命を主祭神とし、大日霊貴尊・高皇産霊尊・天津彦火瓊瓊杵尊・伊古比都幣命を配祀する。葛木坐火雷神社の元々の祭神は火雷大神で、天香山命は笛吹神社の祭神である。火雷大神とは文字通り火の神様で、鍛冶生産・鉄器生産の神と考えらる。

神社の後方には6世紀初頭ないし前半頃の造営とみられる横穴式笛吹神社古墳があり、この古墳を中心に多数の笛吹古墳群が続く。古墳から出土した副葬品には大刀、鉄鏃、玉類、土器のほかに、金銅製紋子や鍛冶に伴う鉄滓かあるほか、ミニチュアの炊飯具なども出土していて、渡来系氏族である忍海氏に関わった古墳群と見る考えかある。

☞尾張氏

尾張氏の本拠地は、葛城高尾張(現在の御所市から葛城市あたり)。

『勘注系図』は宇那比姫の他に、建田小利命(たけたおりのみこと)という人物を記す。

尾張氏系譜では建多乎利命と表記して、笛連(ふえふきのむらじ)等の先祖とする。

奈良県葛城市笛吹字神山に葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ)またの名、笛吹神社がある。

笛吹神社の宮司家である持田家の系図にも祖神を天火明命の児、天香語山命として系譜の中に建多乎利命の名を見る。この笛吹神社裏山に、笛吹神社古墳群とよばれる古墳が存在する。そこに建多乎利命の墓という伝承を持つ古墳がある。

尾張氏は葛城氏の女性を多く妻としており、尾張氏と葛城氏は密接な関係にあった。

ブログ☞尾張国

【葛城氏の衰退と滅亡】

南部の「玉田宿禰」→円大臣

『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。

玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳との説がある)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させた。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。

【眉輪王の変】

允恭天皇の崩御後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測される。この過程で葛城氏の円大臣は血縁的に近い市辺押磐皇子らの履中系と結ぶこととなり、允恭系との対立をますます深めたのであろう。

允恭系の安康天皇の即位によって劣勢に立たされた円大臣は勢力を回復すべく、次期大王として押磐皇子の擁立を画策したらしい。

ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した(眉輪王の変)。

大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのである。(ウィキペディア)

大泊瀬皇子(雄略天皇)は、456年10月に即位した。

葛城氏の衰退と滅亡は、吉備国にも影響を及ぼした。

ブログ☞吉備国王の系譜

円大臣は、

右矢印娘の韓媛を大泊瀬皇子(雄略天皇)の后に差し出し

右矢印妹の毛媛を吉備上道臣田狭の妻に入れた(葛城首長家と吉備勢力との政治的結合を意味した)

また、吉備上道臣田狭は、吉備窪屋の首長娘である稚姫と政略結婚していた。

その吉備に対して大泊瀬皇子(雄略天皇)は

☞吉備西部(下道臣)一族を滅ぼし

☞ついで吉備東部(吉備上道臣田狭)を「任那」国司に送り、稚姫を妃にした。

蘇我氏と紀氏・吉備氏との関係は、朝鮮半島との交渉をもとうとする場合に、海人を配下に有する瀬戸内海沿岸の勢力が不可欠だった。大泊瀬皇子(雄略天皇)はその結びつきを断ち、権力基盤の強化の戦略だったのだろう。

蘇我氏

葛城氏の衰退と滅亡後、円大臣の遺領に定着したのが、百済官人である「木 満致(もく まんち)」だった。

これは、木満致が日本に渡来して蘇我氏を興したとする説。

その後は、蘇我馬子が編成した軍陣の中、葛城烏奈良・紀男麻呂・巨勢猿・大伴囓・とともに新羅征討の大将軍の一人として、筑紫(つくし)へ出陣した。

などの記録があり、ヤマト王国への従属形態を多様にしていった。

皇極天皇の即位と同時に蘇我蝦夷は葛城氏の本拠であった葛城高宮に祖廟を造立し、武内宿禰の霊を祀った。

平林章仁によると

これは、蘇我氏が武内宿禰の直系の後裔氏族の中核に位置することの宣言であった。と述べている。

葛城臣氏と葛城直氏

蘇我氏がヤマト王国の政治的指導権を握った時期以降、「玉田宿禰」系の円大臣滅亡後の王族の一部は、本宗家を継ぐ葛城臣氏となっていった。

また、一族のうちで「葛城木土神」を祖神と称するものが、葛城直氏となり葛城国造とされる。

賀茂氏と秦氏の移住

賀茂氏や秦氏が葛城から山背への移住が、この葛城氏の衰退と滅亡に連動するという。それは5世紀末から6世紀初頭の頃だと推測されている。