神道・物部氏
巴なすうつろ涼しや太湖石 高資
結葉や陰陽廻る太湖石 高資
魂魄の留まる石や青葉風 高資
太湖石 : 中国の蘇州や日本の岐阜県明星山から産出する空洞の多い複雑な形の奇石。中国各地の庭園では鑑賞や瞑想などのために置かれ、特に庭の中央に置かれたものは「仮山」と称され、「宇宙山」の象徴とされたそうです。
http://news.kodansha.co.jp/20170503_b02
【「神社」とは何なのか? アニミズムから靖国まで、神道の謎を追う】 より
「神道」という文字はどう発音されてきたのでしょうか、これがこの本の最初の問いです。
・「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、そのまま古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音で「ジンドウ」であった。
・その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。
・この「神道(ジンドウ)」が室町期、14世紀ごろの日本で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。
これらを明らかにしたのはノルウェー・オスロ大学のマーク・テーウンでした。彼は「神道(シントウ)」は「自然発生的な日本固有の民族的宗教」と考えられてきた(いる?)常識の誤りを指摘したのです。
テーウンが提起した「神道」の読みや語義の問題を踏まえて、日本の宗教全体のなかで神道がどのような位置を占め、どのような役割を担わされたかを追求したのがこの本です。また、仏教等の影響のなかで成立した神道を追求することは、そのまま日本宗教史を追求することにもなっています。極めて豊穣な1冊です。
自然信仰(アニミズム)と思われていた神道を大きく変えていったのは「神社」の成立でした。「常設の神殿をもつ宗教施設」、神社はなぜつくられたのでしょうか。
──中国先進文明を代表する象徴的な存在としての寺院・仏教が本格的に導入されたことは、天皇を含む独自の特徴をもった律令制の構築をめざす「日本」にとって、それに対抗するための宗教施設の創出が不可欠、かつ緊要の課題として提起されることとなった。それが神社なのである。──
こうした「先進文明への対抗」というのは常に「神道」にかせられた役割となっていったのです。近代以前は中国が、近代以後は西欧が、日本にとって時に学び、時に争う先進文明となりました。
この「神社」の成立は、それ以前の「自然信仰」に大きな変化をもたらしました。八百万(やおよろず)という言い方が象徴しているように、“神”は民衆の周囲にあまねく存在するものでした。ですから神社が成立する以前は、神は精霊であり「祭礼の度ごとに神を招き降ろし、榊・岩石や人などの依代(よりしろ)に憑依(ひょうい)させることが不可欠」でした。しかし、神社はこの神を「常時本殿に鎮座するものとし」「固定化された祭神そのものが信仰の対象」とするようにさせていったのです。この「偶像崇拝的な信仰形態の成立」は「人為的・政策的なもの」だったというのはいうまでもありません。
また、あまねく存在するものを「固着」させることは、神の中に“序列化”をもたらしました。誤解をおそれずにいえば、神社以前の神には“序列”などは存在しなかったのです。
──アマテラスを祭る伊勢神宮を別格とし、その下に全国の神社を官弊社と国弊社、さらにそのそれぞれを大社と小社とに区分することによって、伊勢神宮を頂点とするピラミッド形で構成された中央集権的な神社制度が成立することとなったのである。──
律令制の成立とともに、民衆の自然信仰は、政権によって政治的・文化帝国主義的なものへと変容されていったのです。神道は決して古代から一貫した日本固有の信仰ではありませんでした。これは、井上さんがこの本でしばしば論及している柳田國男の神道観への批判につながります。
柳田國男の神道観とは、戦前の国家神道を「偽の神道」として激しく批判する一方で、新たに「自然発生的な日本固有の民族的宗教」として神道というものを捉え返そうというものでした。いうまでもなく、戦前の「国家神道」とは“八紘一宇”あるいは“大東亜共栄圏”思想として、軍国主義・侵略主義を支えたイデオロギーとなったものです。
柳田はかつての「偽の神道」である「国家神道」に新たな「神道」を打ち立てることで「日本固有」というものを保持しようとしたものでした。
──日本固有というのであれば、神祇信仰のみならず陰陽道や修験道も挙げなければならないし、仏教に関しても、浄土宗や浄土真宗・日蓮宗をはじめとして日本で独自に成立し発展を遂げた諸宗派を含め、仏教それ自体が日本的宗教として発展してきたというのが実際で、神祇信仰だけを取り出して、それを日本固有と考えることはできない。──
柳田のいわば純粋志向は空を求めるものだったのかもしれません。日本の宗教の基本的な性格は「仏教(仏道)や神祇道・修験道・陰陽道などをそれぞれ区別しながらも、時と処に応じてそれらを適宜使い分け、ともに信仰の対象とする」ところにあります。まさしく「融通無碍な多神教」こそが基本的な性格なのです。
この柳田神道観との対決はこの本の読みどころだと思います。また、このテーマには今に続く重要なものがあります。というのはこれは「日本固有とはなにか」ということにつながり、また、「日本文化とはなにか」につながるものだからです。
いくら「国家神道」を排したものであっても、神道的なもの(柳田のいう神祇的なもの)がそのまま「日本固有のもの」にはなりません。それは国家神道以前の歴史をみても分かると思います。たとえば本地垂迹説により「神と仏の本質は同じ」と考えられた時代もありました。さらには儒教の影響を受けたこともあります。とりわけ仏教との共存(?)が深く民衆の信仰心に大きな影響を与えたことは、現在の日本人の宗教行動からもわかります。
「融通無碍」といえる民衆信仰と神道に乖離をもたらせたのは明治政府でした。
──日本国民(臣民)は個人的にどのような宗教を信仰するかにかかわらず、すべからく「日本人」の一人として天皇への崇敬の念を持つべきであり、したがって天皇の祖先神などを祭、国家的な祭祀と儀礼の場である神社を崇拝し、氏子としてそれに奉仕しなければならない。──
これが明治政府の基本的な考えかたです。
「国家権力が強権的にその教義内容にまで踏みこんで宗教に厳しい統制を加え、それを政治的に利用した」のです。これは「神社を媒介とした、国家による宇宙観・世界観(コスモロジー)の独占」というものであり、現在でも靖国神社にその影響が残っています。
かつての律令国家が神社を利用したように明治政府は神社に政治的な性格を付与しました。これは神道の「非宗教化」ともいえることです。明治政府は中央集権的国家(=近代国家)を創出するために それまで“国とは藩”であった民衆意識に“国家像”を植えつける必要に迫られました。そしてそのために「神道」を利用したのです。神道は民衆信仰である性格を脱ぎ捨てました。この延長に生まれたのが教育勅語です。教育勅語は「忠孝を核とした儒教的徳目を基礎に置き、忠君愛国を究極の国民道徳と定めた」ものでした。ですから日本古来の(神道の)精神をあらわしたものではありませんし、普遍的な徳目を標榜したものでもありません。
では国家神道と乖離した民衆信仰はどこへ向かったのでしょうか。神社が政治的に利用されたにもかかわらず「依然として信仰対象として神社」とかかわっていました。これこそが「融通無碍な多神教」というもののあらわれだったのです。
しかし、民衆の神社信仰は次第に国家による神社支配に吸収され、特異な日本ナショナリズムを生み出すことにもなったのです。ですから柳田の主張したようには「国家神道」と「民衆信仰」を一方的に切り離すことなどできません。井上さんがいうように柳田の神道の再生・再発見には徹底性が欠けていたのです。
「日本固有のもの」を追求するためには戦前のナショナリズム、ファシズムの徹底的な分析と批判が不可欠です。そしてそれをくぐり抜けないかぎり、「日本なるもの」を見出すことはできません。そんなことを痛感させる1冊です。読むごとにずしんと響いてきます。
『「神道」の虚像と実像』書影
「神道」の虚像と実像
著:井上寛司
近年、内外で神道に対する興味と関心が大きく高まっています。原理主義の伸長などを背景に一神教の行き詰まりが論じられ、多神教的宗教のありかたへの見直しが始まっていること、靖国問題などをめぐって神社や神道があらためて問題とされ、その理解をめぐって種々の議論が展開されていることが要因でしょう。さらに地球温暖化など環境問題の深刻化とも関わって、自然との共生という観点からアニミズムへの関心が、日本の神社や宗教のありかたに目を向けさせたといえます。
しかし、日本の神社・神道や日本の宗教についてこれまで論じてきた著作は、いずれも日本の宗教の一部に触れるに止まって、その全体を論じ得ていないのみならず、事実認識という点においても多くの誤りを含んでいます。
第1に柳田国男などの見解に基づいて、「神道」は日本固有の宗教であり、原始社会以来の自然発生的な宗教だとこれまで理解されてきましたが、むしろその起源は7世紀後半の古代律令制国家成立期に求められるべきです。いわゆる「神道」や「神社」は国号「日本」や「天皇」号同様に、中国からもたらされた律令法と一体をなす寺院や仏教に対抗し、「日本」の独自性を強調するための一環として創始されたものと考えなければなりません。
第2にその独自性の発展形態、単なるシンクレティズムでない「融通無碍な多神教」として中世以降の「神仏習合」を理解する必要があります。
第3に江戸期から近代における「国体」観と明治期の国家神道の成立をきちんと捉えなおさなければなりません。一言にしていえば「国家神道」とは世俗の国家権力によるコスモロジー(古代天皇神話に基づく宇宙観・世界観・国家観)の再編成と独占、それに基づく宗教統制及びその政治的利用にあり、それを象徴する宗教施設が靖国神社であり、それはまさに「国家神道」の象徴というべきものといえる、ということになるでしょう。
本書は神道の全体像とその変遷を正確に叙述し、読者に理解していただく最良のよすがとなります。
https://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=18 【「神道」について】
「神道」は、日本を代表する「宗教」の一つに数えられますが、実際、「神道」は「宗教」というには、その「教え」に代わるものがなく、一般的な宗教概念からみると明らかに異彩を放っております。その本質的理解に及べば、「神道」は「宗教」というよりはむしろ、古代人の「考え方」や「姿勢」を習慣化したものに近く、どちらかと言えば、「イデオロギー」や「ライフ・スタイル」に近い性質を持っていると言えます。
一般宗教との違い
項目 神道 一般宗教
1.信仰対象 多神教(八百万の神々) 一神教(唯一神)
2.教義・教典 なし あり(仏典・聖書など)
3.主体性 崇敬者側(氏子) 教団側
4.布教活動 なし あり
5.信仰物 依り代崇拝 偶像崇拝
このように、「神道」は「宗教」というには、あまりにもその性質が異なっており、「宗教」という言葉の定義からみると、かなり逸脱した存在であることが分かります。
「鏡」が示す自問自答の精神
そんな「神道」のユニークさは、一つに、その発祥が「アニミズム」と呼ばれる土着型の精霊信仰(自然信仰)に由来していることから、その時代的背景が文字の開発される以前の太古性に負うことが挙げられます。つまり、一般の「宗教」が『文字を持った人の生き方を導くための科学的な訓戒』とするならば、「神道」は『自然との共生から編み出され原始的な感性』と例えることができるのです。
これは、「神道」という言葉が、「道」であって「教」ではないことからも指摘できます。これが「神教」であれば、相応の「教え」が付与されると考えられますが、「道」である以上、そこには明快な答えは存在しません。この「道」という言葉は日本のあらゆる伝統文化にも見られ、その解釈も難しいところがありますが、その真意の一端は、神社の「鏡」におけるたとえ話の中に聞くことができます。
『まず、「鏡」を「かがみ」と平仮名に変換してます。続いて、真ん中にある「が(我)」を抜きます。すると、残る文字は何ですか?「かみ(神)」です』というものです。非常に哲学的な例えですが、ここには安易な答えを他者に求めるのではなく、自分の心の声を聞き、自問自答し続ける姿が感じられます。
つまり、この「自問自答するプロセス」こそがすべてであり、そこを大切にできる姿勢が何よりも尊ばれているのです。こうした終わりなき問いかけにも似た自律的な(自らを律する)姿勢は、まさに「道」と呼ぶに相応しい考え方と言えるのではないでしょうか。
実際、剣道や柔道、華道、茶道といった武芸も、克己の精神をその根底に仰ぎ、明快な答えは用意されておりません。そう考えると、「神道」はその根源的な考え方を持っていると言えるのかもしれません。また、こうした考えは、欧米の方たちからしてみれば非常に曖昧かつ非効率に聞こえるかもしれませんが、それだけに「日本的」と言えるのであって、日本人にとって、「神道」の影響は決して軽微ではないということが分かるでしょう。
古代アニミズムの継承
そんな「神道」は、前述した通り、太古の世界に見られた古代「アニミズム(精霊信仰)」に始まると言われます。中には、「アニミズム」と「神道」は異なると指摘される識者もおりますが、その詳細を見ていけば、そのエッセンスを確実に継承していることが分かります。
例えば、自然信仰の一つに位置づけられる山岳に対する捉え方。もともと、太古における山岳信仰は現在のものとは少し異なるものでした。現在の山岳信仰はどちらかと言えば、「修験道(山岳信仰に仏教が加わった日本独自の宗教)」と呼ばれる近世に始まったものになりますが、これは太古の山岳に対する姿勢と大きく異なります。
・太古の山岳信仰 神域たる場所には決して足を踏み入れない(絶対不可侵領域)
・修験道 神域に入り、過酷な鍛錬を通じて神仏に触れる(修験場)
このように太古の世界では、そこに神様がいると思えば足を踏み入れず、遠くから遥拝する形を取ってきました。ある意味、そこに神さまがいると分かっていながらも、そこへ行く欲求を抑えられるということは、太古の人たちは一つに欲求に対する枷として、「畏れ多い」という考えを持ちあわせていたことが分かります。
この「畏れ多い」という考えは現在の「神社」にも継承されており、「神社」の中核を成す「ご神体」に対しても、そこに神さまがいると仰ぎながらも、これを易易と手に触れたり、直接拝もうとしないのは、こうした太古の山岳信仰における姿勢と共通する部分も少なくありません。ある意味、これも「神道」と「アニミズム」を繋ぐ一つの接点と言えるでしょう。
ちなみに、この太古の山岳信仰の捉え方は、奈良に鎮座する国内最古の神社の一つ、大神神社でも受け継がれてきました。今ではそのご神山となる三輪山への登拝は、入山料を払えば可能できますが、元々はこちらも不可侵とされてきました。
また、この「神社」という読み方からもアニミズムとの接点を感じ取ることができます。今では普通に「じんじゃ」と呼びますが、かつては、「社」を「もり」と読みました。これは、「杜」と同じく、いわゆる「鎮守の森」を示し、平安時代以降になって、両者は使い分けられるようになったと言います。つまり、「神社」と「森」の関係は非常に深く、この自然と信仰が一体となる空間構造は「アニミズム」より受け継がれたものと言ってもいいのではないでしょうか。
神道への発展
それではこうした「アニミズム」が一体どのように「神道」へと発展したのでしょうか。さすがにこれは憶測に過ぎませんが、『この「畏れ多い」という姿勢が今日の祭祀を招いた』と考えられる節があります。つまり、『神様がいる神域は「恐れ多くて」足を踏み入れることができない。ならば、お越し願えばいいだろう』という発想の転換です。これは「依り代」の性質を見ていけば分かります。
「依り代」とは「神霊」が依り憑いたものになります。その条件は特に制限されていないため、その姿・形は無数に存在しますが、当初、この「依り代」には一つの特徴がありました。それが「形状が尖ったもの」です。
例えば、「ご神山」と呼ばれる「山」や「ご神木」と呼ばれる「木」。葉先が尖った「榊(さかき)」に、正月に飾られる「門松」など。これらは代表的な依り代となりますが、共通して言えるのはその尖った形状にあります。実際、「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道用の墓石もありますが、一般の墓石が上部平なのに対し、奥津城は上部が尖っています。それは尖った形状のものに神霊が依り憑くと考えられたほかありません。
それでは何故、尖ったものを用意すれば、「神霊」が依り憑くと思ったのでしょうか。そこには一つモチーフになる自然現象が考えられます。それが「落雷」です。一般的に雷は尖った場所というより、位置の高い場所に落ちるのですが、この高い場所というのが結果的に先端性の高い部分に位置すると考えれば、太古の人たちはこの「尖ったものを用意すれば神さまが降りてきてくださる」と考えてもおかしくありません。実際、太古の人たちにおける「雷」の存在は非常に特別なものでした。
例えば、太古の人たちは、「雷」を神聖視するにあたり、その恩恵というものを知っていた可能性があります。それは、「雷」のことを「雨かんむり」に「田」と書くことからも分かります。つまり、太古の人たちは『雷が豊穣をもたらすこと』を知っていたということです。これは、「稲妻」や「稲光」も同じく、必ず農業と結び付けられていることからも明らかです。
そして、事実、『雷が豊穣をもたらすこと』は科学的にも証明されており、ある大学の研究結果では、『キノコの収穫量が倍になる』という発表をしております。このため、太古の人たちは、「雷の姿に恐れを感じると共にその後にもたらされる豊穣を以って感謝を抱いた」のです。そう考えれば、「落雷」を真似ることは「神霊を招く」行為につながると考えても決して不思議なことではないでしょう。
また、この「雷」を神聖視する言われは、「神」という漢字そのものからも推し量ることが出来ます。漢字はあらゆる事象を表象化したものとなりますが、この「神」という漢字は、いわゆる「祭壇」と「落雷」の組み合わせから成り立っていると言われております(「示すへん」が「祭壇」+「申」が「落雷」を意味します)。
もちろん、この「雷」は中国に由来することからも、この雷神信仰的な発想は日本固有というわけではなく、世界的に見られた傾向でもあります。ギリシャ神話ゼウスや北欧神話の雷神トール、そして、バラモン教の雷神インドラを見ても同様で、これらの神々はいずれも元は最高神と仰がれた神々です。
しかし、日本の場合、「依り代」という独自の発想を以って、こうした太古のエッセンスを伴いながら「神道」へ発展させることができました。対して、海外では「雷神信仰」や「アニミズム」といった古来の考えは近代化の流れとともに衰退し、より人類に重きを置いた科学的な考えへと目覚めていきました。ある意味、日本人と欧米人における「合理性」という思考の差は、こうした「古代観念的な背景」と「近代合理的な背景」による違いに見ることが出来るのかもしれません。
また、「祀(まつ)る」という語源も一部、「待つ」という言葉に由来するという指摘が一部あります。これはまさに「依り代を用意して神霊を待つ行為」とも言え、その間に「お神楽」のような演舞を奉納したり、「供物」をお供えしたりすると思えば、日本人の「おもてなし」の精神は案外このあたりに基づくのかもしれません。ともかく、あまりに古い話なので確実なことは言えませんが、あらゆる状況をつなぎ合わせるとこうした解釈も出来るのではないでしょうか。
神社への発展
そんな「神道」も当然のことながら、いきなり現在の「神社」のような形態を取っていたわけではありません。ここには「仏教」の影響が大きく関わり、一説には、神社が社殿を持つようになったのも、「仏教」を始めとした外来文化の流入による影響と見られています。このため、仏教伝来以降のものを「神道」と呼び、それ以前のものを「古神道」と使い分けることがあります。
これも「神道」という言葉が中国からもたらされた上で、『日本書紀』が「仏教」に対する対義語として、この「神道」を国内固有の信仰(つまり、現在の「神道」)に用いたことに始まると言われております。そして、それまでは「古道」という呼び方が馴染んでいたことから、この両者を組み合わせた「古神道」がそれ以前の呼び方として用いられました。
■神社発展のおおまかな流れ
アニミズム(精霊信仰)→古神道(古代祭祀)→[仏教並びに外来文化の流入]→神道(神社祭祀)
そんな古神道時代のスタイルは、現在の「地鎮祭」に近く、「磐座(いわくら)」や「神籬(ひもろぎ)」を用いて、仮設の祭祀場を設ける形で祭祀に及んでいました。これは、「神霊は一定の場所に留まっているのではななく、どこにでもいる」といった考えによるもので、「神南備(かんなび)」といった神霊漂う山や森といった一定の空間や領域はあっても、同じ場所に依り続けることは本来なかったのかもしれません。
しかし、「仏教」の伝来と共に急速な近代文明化がはかられると、そうした状況にも変化が出てきました。一説には、神社の代表的建築様式の一つ「神明式」も、古代日本に見られた「高床式倉庫」をモチーフにしており、これも仏教建築の流入に伴い、その対抗策として採用されたとも言いいます。つまり、「神道」は「神仏習合」を通じて、その体系化や近代化を推し進めることができたのです。そして、これこそが今、私たちが目にしている「神社」の姿なのです。
先祖崇拝
そんな「神道」には、もう一つの大事な要素、「祖霊祭祀(それいさいし)」というものがあります。これはそのまま「ご先祖さまを祀る」という意味ですが、広義に捉えれば、それは人の「御霊(みたま)」を意味し、直接的血縁関係を含まない偉人にまでその対象は及びます。いわゆる天満宮の菅原道真公といった歴史的偉人や、地域各地の功労者、また、靖国神社や護国神社をはじめとした戦没者などはそんな一例と言えるでしょう。
このため、「神道」には明確な「教え」というものはありませんが、「敬神崇祖(けいしんすうそ)」という言葉をその基本姿勢として推奨しています。これは「神を敬いご先祖さまを崇めましょう!」というもので、結局、その「畏敬」の対象は、自然社会に留まる「神霊」のみならず、人の「御霊」もまた同様に扱われているのです。
実際、夏の習慣として定着している「お盆さま(盆行事)」も、今では単純に仏教の習慣と思いがちですが、これも神道の「祖霊祭祀」が元になっているとの指摘があります。これは「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれる仏教行事と習合した結果で、江戸時代の幕府令で、祖霊祭祀の仏式化(先祖供養)が奨励された結果とも伝えられております。このため、『お正月には神さまを、お盆さまにはご先祖さまを祀る』というのが、「神道」の二大年中行事とされるのです。
そう言われてみると、確かに、日本における「祝祭日」は、五穀豊穣に関わる祭りごとと歴代天皇への奉祀に関わる日が多く、この「神霊」と「御霊」をお祀りするという感覚は、日本の伝統的な感覚と言えるのかもしれません。
神道における神の姿
しかし、こうした「神霊」と「御霊」を共に「神」として扱う感覚は、ある意味、非常に日本的な考えとも言えます。何故なら、一般的な外来宗教における「神」とは唯一無二の存在であり、あらゆる「理」を超越する存在だからです。対する日本の神々は、その対象となる数が多いばかりでなく、「神」と「人」の領域すら曖昧とされております。
例えば、この「多神教」という視点においても、その類似性として、ギリシャ神話や北欧神話などが上げられることがありますが、八百万の神々と同じく共に多く存在しても、やはりその存在は超人的な存在です。しかし、日本の場合、それら神々の系譜の果てに私たちの祖先が直接つらなり、現在に至っております。「人類は神が作り上げた存在」という考えとは大きく異なるのです。
実際、「氏神さま」という考え方はその象徴的なもので、今では「その土地の神さま」という意味合いで使われておりますが、もともとは特定の氏族が仰いだ特定の神さまを意味しております。古代史にみる豪族の多くは、まさにその祖先にそれぞれの神々の存在を上げており、この「神」と「人間」の領域は非常に曖昧なままです。
■各氏族と神々の関係(一部)
氏族 祖神
○物部氏(もののべ)・穂積氏 (ほづみ) 饒速日命(ニギハヤヒ)
○蘇我氏(そが) 武内宿禰(タケノウチノスクネ)
○藤原氏(ふじわら) 天児屋根命(アメノコヤネ)
○尾張氏(おわり) 天火明命 (アメノホアカリ)
○出雲氏(いずも) 天穂日命(アメノホヒ)
○吉備氏(きび) 吉備津彦命(キビツヒコ)
このように、「神道」では、「神」と「人間」の明確な境界線というものが存在しません。ある意味、こうした感覚が残っているというのは、日本という国が、それだけ他国や別の勢力によって過度に干渉されることなく、一定の国体を長期間にわたって維持出来た結果と言えるのかもしれません。だからこそ、悠久なる時の経過が太古のエッセンスを失うことなく、現代の社会と融合していったのではないでしょうか。
ともかく、「神道」における「神さま」の定義というのは、厳密に言い表すのは事実上不可能というほど、曖昧な存在と言えます。しかし、逆に言えば、その「対象」はあらゆるものすべてに及ぶとも言え、その正体とはまさに「目に見える、見えない関係なく、あらゆる万物に注がれる」と言えるのではないでしょうか。換言すれば、神道の真髄は、「自分の身の回りのことすべてに対して感謝しましょう」という姿勢にあるというのが、もっとも分かりやすい捉え方なのかもしれません。
同時に、こうした姿勢にはいわゆる「謙虚さ」というものが求められます。この「謙虚さ」が自発性の中に求められるというのは、先に上げた「鏡」の原理そのもののでもあります。よく昔ながらの日本人像に語られる、「良いことが起きれば社会のおかげ、悪いことが起きれば自分のせい」という考えも、損得勘定から言えば決して利口な判断とは言えないのかもしれませんが、長期的な視野に則って考えた時に、こうした姿勢は安定的な秩序を育む上では有用であったと考えられます。よく、日本人は「人生志向」、欧米人は「生活志向」という考え方の違いを上げることがありますが、こうした展望による違いも日本独自の文化・習俗・歴史観が織り成した結果と言えるでしょう。
ちなみに、こうした姿勢は、「下克上」という実力主義が謳われた戦国時代でも同様で、いくら武力に長けていたとしても、戦に勝利すれば神仏の加護によるものとして寺社の建立や寄進に及びました。全国に武神の象徴となる八幡神社が多いのもこのためです。日本では「おかげさま」という言葉を聞きますが、実はこの言葉に該当する正式な訳語はありません。これも本来、自分の成果を讃えるなら、「おひさま」と言う感じで「自慢」したいところですが、敢えて「かげ」の側に例えることで謙虚さを示めしているあたり、総じて神道的と言えるのかもしれません。
何気なく関わっている神道的習慣
そんな「神道」は、実際、私たち日本人の生活とも深く関わっています。例えば、私たちが何気なく過ごしている「祝祭日」などはその代表的なものと言えるでしょう。
■神道の祭り事と祝日の関係
祭祀 時期 祝祭日
■歳旦祭(新年を祝う)/四方節(八百万の神々への遥拝) 1月1日 元旦
■紀元節(建国を祝う) 2月11日 建国記念の日
■春季例祭(五穀豊穣の祈念)・春季皇霊祭(天皇や皇族の忌日) 3月春分 春分の日
■旧天長節(昭和天皇の誕生日) 4月29日 昭和の日
■旧天長節(明治天皇の誕生日) 11月3日 文化の日※偶然とも言われる
■秋季例祭(五穀豊穣の感謝)・秋季皇霊祭(天皇や皇族の忌日) 11月秋分 秋分の日
■新嘗祭(新穀を祝う日) 11月23日 勤労感謝の日
■ 天長節(今上天皇の誕生日) 12月23日 天皇誕生日
これらの祭祀は実際、宮中をはじめ、多くの神社でも今なお執り行われております。私たちの多くは単なる「公休日」という感覚しか持ち合わせておりませんが、実際には、今なお太古から続く文化は今なお息づいているのです。中でも、「建国記念の日」は、その創建の意味を知らなくなっておりますが、もとは、神武天皇という初代天皇の即位を讃える日となります。その創建年数は2675年(平成25年時)という時を刻み、「皇紀」という紀年法を用いて表します。
これは世界の王室と比較してももっとも古く(二位がデンマークの約1100年、三位が英国の約900年と続きます)、本来、日本という国は「世界最古の国家」を有していることになるのです。これは単純な歴史の古さではなく、同じ国家体制が続いていることに意味があります。中国やエジプト、インドは文明の発祥としては古いものの、それらの多くは過去の遺産となっております。しかし、日本の場合は、これが現在も続いていることになり、換言すれば、それだけ古き文化・価値観が続いていると言えるのです。よく日本人の考え方や価値観は世界的に見ると非常に特徴的と言われますが、そこにはこうした歴史的背景が強く関係していることが分かります。そんな「神道」はその象徴的な存在と言えるのではないでしょうか。
神道と宗教
このように「神道」は私たちの生活や考え方に深く根付いております。もちろん、日本人を構成するエッセンスとしては、仏教の影響や地勢的要因、言語的な思考などといった要素も無視できません。このため、一概に何を持ってというのは不可能ではありますが、少なくとも「神道」は日本に生まれ、原則、日本にしか見られないと考えれば、その特徴を比較的多くを含んでいるということは言えるのではないでしょうか。
例えば、よく、日本人の多くは「無宗教」と言いますが、それでも元旦には寺社仏閣へ足を運び、一年の幸福を願いに行きます。また、心霊話や都市伝説好きなところを見ても、決して、科学的根拠から「無宗教」を表明しているわけではないことが分かります。同様に、神罰や仏罰というものを頭の中では信じていなくても心のどこかで信じているのは、まさに日本人の良心として今なお受け継がれたものでしょう。それは無用に古いものを傷つけたがらない倫理観の中にも見ることができます。
実際、この「宗教」という言葉も日本古来から見られた言葉ではありません。この言葉は明治時代に、「Religion」という言葉がもたらされた際に創りだされた訳語になります。何故なら、そこに代わる言葉が日本語として存在していなかったからです。かつては、「宗旨」や「宗派」といった言葉はありましたが、これは「宗教」という今の考え方とは少し違います。かつては、あらゆる「信仰」は、「仏教」も含めて一つの「信仰」という括りの中に同居しておりました。ただ、崇敬対象が神仏といった違いや信仰方法が異なるだけで、その違いは明確化されていなかったのです。それはまさに「神仏習合」がもたらした成果とも言えます。
しかし、「Religion」は異なる絶対教義性の強い信仰を個別に総称するものであったため、当時の「宗派」といった考えに合いませんでした。そうして、生まれたのがこの「宗教」という言葉であり、こうした経緯を見るだけでも、「宗教」という言葉が如何に私たちが本来持っている解釈と異なるのかが分かります。もちろん、「宗教法人」という立場における「宗教」という表現は否定出来ない事実ではありますが、その言葉の真意が必ずしも正しいかと言うと決してそうでもないのです。解釈としては非常に難しい部分が多々ありますが、「神道」とは、そういう意味では、やはり、「生きる上での姿勢」や「生活様式」の中から解釈されるものの方が実態に近いものなのかもしれません。
五百枝なす大楠の香や風の色 高資 熱田神宮
くだら野を渡りて君子神社かな 高資
山なみに日つまる君子神社かな 高資
君子神社・旧山王権現(祭神:大山咋命、配神:軻遇突智命、大日孁貴命、市杵島姫命)境内には、木喰五行上人造の木造薬師如来坐像、日光月光菩薩立像、十二神将立像(栃木県指定文化財)が祀られた薬師堂もあります。
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【出雲の謎は日本の謎・・関裕二氏の「消された王権・物部氏の謎」の推理】 より
梅原猛氏の出雲に関する大著を読んで、ますます古い日本の姿を見たいという気持が強くなりました。
特に、大和に先にいたとされる物部氏については、大いに考える必要があるのではないかという気がします。
また、日本人の魂の原形に辿り着くには、古神道と道教と密教のからまりあった紐を逆に辿ってほどいていくような作業が必要なのではないかと思います。
かつて出雲王国が存在していた、そしてその上にかぶさるように大和朝廷は成立した、という推定は、日本という国家がどのように成立したのか、というテーマそのものであると思われます。
成立期の日本史についてたくさんの論考を発表しておられる関裕二氏の「消された王権・物部氏の謎」を読んでみました。
アマテラス(天照大神)とオオモノヌシ(大物主神)は、どちらが本当の日本の太陽神なのか?
伊勢神宮の「心の御柱」は、なにを祀っているのか?
関氏の論考は、なかなか力強いものがあると私は思います。
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(引用ここから)
“あいまいな日本“という言葉があるが、今日の日本がここにあるのは“あいまい”という叡智が日本を守り続けてきたからであり、さらにこれからの世界が生き延びるために必要不可欠なのが、この日本特有の“あいまいさ”ではないかとさえ思う。
なぜ“あいまいさ”が長所となりうるのか?
その答えは歴史に隠されている。
6世紀、日本古来の神道と新来の仏教をめぐる争いは、物部守屋と蘇我馬個の権力闘争となり、ついには武力衝突へと発展した。
結果は周知の通り、仏教推進派である蘇我馬子の勝利となるが、ここで奇妙なことがおこる。
宗教戦争に勝ちぬいたはずの蘇我氏が、神道に対する弾圧を行った記録がまったく残らず、以後二つの宗教は日本のあらゆる地で共存し、共に融合してゆくこととなるのである。
なぜ仏教は神道を駆逐せず、まるで同化するかのように土着化していったのであろうか?
一神教の世界から見れば、教義も教典もないこのような信仰は、原始的な宗教ということになろうが、多くの渡来人が流入した日本にとって、このような信仰形態をくずさなかったことが、逆に幸いしたと考えられるのである。
「日本書紀」が認めるように、物部氏は天皇家が登場する以前の大和の大王家であった。
そして大和朝廷成立後8世紀にいたるまでは、物部氏が重大な発言権を持ち続けたように、天皇家と物部氏という二つの王族は曖昧な形で共存の道を選んでいたのである。
ところが物部氏の衰弱後、物部氏は“鬼”のレッテルを張られ、歴史の敗者として神・天皇の対極に朽ち果てたのであった。
問題は物部氏を追い落とした大和朝廷が、これを完璧に滅ぼしたわけではなかったことにある。
それどころか、“鬼”となった物部氏はここからもう一つの日本=裏社会を形作ることで大和朝廷と対等に渡り合おうとしてゆくのである。
なぜ“鬼”と化した物部氏は神の子天皇を選び、逆に天皇は“鬼”の接近を許したのであろうか?
ここに“あいまい”な日本の行動原理が作用したとしか思えない。
天皇家最大の祭りとされる大嘗祭や伊勢神宮祭祀は、物部氏の祖神を祀る天皇家の秘儀である可能性が高い。
即位後最初の新嘗祭を大嘗祭といい、天皇家は8世紀以来この伝統行事を続けてきたが、この祭りの中では唯一物部氏のみが他の豪族には見られない形で祭りの中心に位置して来た。
最大の問題はどちらの祭りもその中心部分が“秘中の秘”とされ、厚いベールで包まれている点にある。
そしてそこに出雲あるいは物部と深い関係が見出せるのである。
天皇家はなぜ最も大事な祭りの神を秘密にするのか?
そして天照大神よりも格上の神とはいったいなにものなのであろうか?
伊勢神宮の“秘中の秘”は、「心の御柱」と呼ばれる奇妙な柱のことである。
20年に一度の遷宮に際し、この柱は祭りの最も重要な地位を占める。
ではなぜ「心の御柱」が神聖視されるのか?
そしてその理由が秘密にされているのか?
何もかも謎のままである。
出雲と物部が異名同体であったとする推理は、神社伝承から「日本書紀」の裏を読み説いた原田常治氏によって提唱されたものであった。
その著者「古代日本正歴史」には、物部氏の祖神ニギハヤヒが大和の三輪山の大物主神と同一であり、スサノオの第5子であったことが、いくつもの神社伝承によって証明され、
そればかりか日本の本来の太陽神は、皇祖神・天照大神ではなく、この大物主神であったという。
私見は、大筋で原田説を支持し、物部氏の祖神・ニギハヤヒと出雲神・大物主神を同一とみなす。
天皇家と出雲・物部氏との“闘争と共存”がすでに大和朝廷成立時からはじまっていたことを、「日本書紀」を記した8世紀の大和朝廷は抹殺した。
そのようなことが行われた原因は、8世紀初頭の物部氏の没落であろうが、なんといっても、物部氏の古代社会に占める大きさが、記録にとどめることができないほど巨大であったためであろう。
「古事記」に注目すると、崇神天皇が国の定まらないことを憂いて占ったところ、大物主神が夢に現れて神托を下したとある。
その結果、大和の三輪山の神大物主神を祀ることで治世を安定させたといい、
「大和を建国したのは大物主神であった」という、天皇家にとって屈辱ともとれる歌を自ら詠っていることは興味深い。
崇神天皇から始まった出雲神重視が天皇家の伝統となっていったように、物部氏は古代社会のもっとも重要な神道の中心に位置しているのである。
「もののべ」の「もの」は古代、“神”と“鬼”双方を表わしていた。
これは多神教・アニミズムからの流れであり、神は宇宙そのものという発想から導きだされた宗教観でもあった。
神は人に恵みをもたらす一方で、時に怒り、災害をもたらす。
このような神の両面性を、神道では「和魂」と「荒霊」とも表現するが、物部氏はその両方をあわせもった一族であり、神道の中心に位置していたと考えられる。
物部氏の伝承「先代旧事元紀」によると、
神武天皇の即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマジはニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯を立てて祝い、新木も立て、「大神」を宮中に崇め祀ったとある。
そして即位、賀正、建都、皇位継承といった宮中の重要な儀式はこの時に定まったというのである。
神道と切っても切れない関係にあった天皇家の多くの儀式が、ウマシマジを中心に定められたということである。
そしてウマシマジが神武天皇の即位に際し、宮中に祀ったという「大神」の正体が注目される。
大和の地で「大神」といえば、三輪山に祀られる大物主神をおいて他には考えられない。
大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくることに気づかされる。
天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏、このような「日本書紀」の示した明確な図式でさえ疑わざるをえない。
天皇家が“モノ”(鬼)を実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。
大和朝廷成立=神武の東征は天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には「日本書紀」や通説では語られてこなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられるのである。
(引用ここまで)
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著者にはたくさんの著書がありますが、ほんとうにすごいエネルギーで一つのテーマを追求しておられると思いました。
前に見てみた梅原猛氏は「出雲王国の謎を解く」において、オオクニヌシの存在をはっきりと感じて、“出雲”というもう一つの日本の源泉、もうひとつの日本の姿を歴史の中に透かし見て、日本史を再編する必要を主張しておられました。
そのテーマを関氏の視点と言葉で要約したものが下の言葉になるのではないかと思いました。
>天皇家と出雲・物部氏との“闘争と共存”がすでに大和朝廷成立時からはじまっていたことを、「日本書紀」を記した8世紀 の大和朝廷は抹殺した。
著者はそのからくりを追及するために、たくさんの証拠を挙げています。
この本は実にスリリングな一冊だと思います。
Wikipedia「ニギハヤヒ」より
その他の説とし以下の説もある。
スサノオノミコトの子であり、大物主、加茂別雷大神、事解之男尊、日本大国魂大神、布留御魂,大歳尊と同一視する説
古代史ブームの火付け役と目される原田常治は、推論に推論を重ね、大胆に結論を断定する手法で、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だとする。
学術的には大いに問題があるという意見がある一方、影響を受けた作家も多く、多くの読者に読まれてきた経緯もあり、古代史へのロマンを広げる説であるという意見もある。