「日曜小説」 マンホールの中で 第四章 1
「日曜小説」 マンホールの中で
第四章 1
ギー・・・・ガタン
話している最中、マンホールの中に鉄がきしむ音が響いた。地上では、やっと消火活動が終わったのであろう。
普通であるならば、すぐに助けを求めて大声を出すところであろう。しかし善之助と次郎吉はそのことをしなかった。何事にも慎重にそしてその物事の意味を考えて動くことを、今まで二人で語ってきたのである。
音が聞こえたところで、二人はそれまでの会話をやめ、そして、耳を澄ませた。普通であれば目を合わせてコンタクトを取るところであろう。しかし、残念ながら善之助にはそのようなことはできない。目が不自由な人が、このような場合に取れるコミュニケーションは手を握ることだけなのである。善之助は、次郎吉の掌を感じた。
その時よりも一時間ほど前、地上ではやっと一応の鎮火となっていた。「一応の鎮火」とは、目立った炎が出ていないということでしかない。それまでは、他に延焼する危険がある紅蓮の炎が、一帯を覆っていた。しかし、懸命な消火活動からその炎が見えなくなったのである。もちろん、焼け残った木材などの端がまだ赤くなっている部分があるが、そこを中心に他に延焼する可能性は非常に少ない。それでも消防署員や消防団は、そのような赤い色を見つけたら、すぐに水をかけ、そしてその種を消していった。
普通の火災ではない。何しろ自動車事故から化学薬品、そしてガソリンスタンドと二つの爆発があったのだ。その二つの爆発と火災からこの町を守るために、何十台という消防車の赤色灯が、あたりを赤く染めていた。消防車だけではない。パトカーや救急車も、数台で足りるようなものではない。隣町や他府県からも、多数の消防車や消防ヘリが来訪しているようで、見慣れない消防職員なども少なくない。その向こうにいるのは、自衛隊の車両であろう。自衛隊が出動するほどの惨事であるかどうかは別にして、化学薬品の爆発となれば、来てくれてありがたい。
実際に、現場にいる人間にとっては、目の前にある災害に対して自衛隊であろうが、消防署員であろうが、他国の軍隊であっても何ら変わりがない。目の前の炎を消すためであれば、味方は多い方が良い。自衛隊反対などということを言っていられるのは、よほど平和でなおかつこのような現場を知らない人なのである。この現場であっても、自分の隣でホースをもって消火に当たっていた人がどこの誰であるのか、それが自衛隊員であったのかなどは全くわからない。目の前の火の海と、その近くに斃れている被害者しか目に入らないのだ。それが普通ではないか。助けてくれる人をわざわざ、くだらないイデオロギーで排除するようなことはしない。
そうやってやっと火を消した。二次被害がないように、この近く一帯は電気やガスを止めてもらっている。もちろん、電気に関しては大爆発で電信柱ごと吹き飛んでしまい、電線は途中で切れている。そこに水をかけているのであるから、電気が止まっていなければ、もっと多くの被害者が出たであろう。
数百名の被害者が目の前で苦しんでいる。しかしそちらは近くの病院からトリアージに来ている医師のグループに任せ、消防団は、完全な鎮火に向けて、小さな火種も消していた。同時に、陰に隠れているような被害者を探すこともしなければならない。消防団長は全体を見ながらそちらを指揮していた。
「これで全部か」
数時間前までの後継とは全く変わってしまった交差点の真ん中で、消防団長は腕を組んだ。警察は、被害者の身元の確認などをしている。
あまりにもひどい状況に、消防団長は改めてため息をついた。もちろん、今までもなんでも悲惨な火災現場を見てきているが、今回のはひどい。目の前には一番初めに事故を起こしたと思われるトラックが横倒しになっている。そして、その横には何人もが犠牲になった作業員を乗せた作業車、その向こう側には数台の乗用車が、もともとおしゃれな色合いをしていたであろう名残を一部に残しながらもほとんどが真っ黒に焦げてしまっている。中央分離帯の向こう側には、化学薬品を積んでいたトラックの爆発の跡が、中央分離帯の上にあった植木のほとんどを吹き飛ばして倒れている。その向こう側のオフィスビルは、爆風の激しさを物語るように、真ん中に黒い焦げた柱が立ち、そして窓ガラスはすべて飛び散って、黒くなった天井をのぞかせていた。
隣のガソリンスタンドは、そこにそのような建物があったことを思わせるような痕跡すらなく、地下ののガソリンタンクに引火し、地を揺らす大爆発が起きたため、ガソリンスタンドの周辺の家まで巻き込んで大きな穴になっていた。その大きな穴の横に、マンホールの土管が一部見えていたのである。もう少し爆発が大きければ、善之助も次郎吉も、その爆風がマンホールの中を通って無事では済まなかったはずだ。
ちょうど夕方のラッシュ時に起きた大惨事であり、東京からも取材のカメラが多数押し掛けるほどの大ごとになっていた。死傷者は百人を超え、まだ身元の確認もできていない状態であった。
「団長」
若い消防団員が恐る恐る腕組みをしている消防団員に声をかけた。
「なんだ」
言葉にできるような状況ではない。実際に目の前に広がっているのは、教科書や資料映像で見る東京大空襲の後の焼け野原の日本のような焼け野原である。まさに、煤と焦げの「黒一色」の世界でしかなかったのである。しかし、消防団長は全体を指揮しなければならない。やっと紅蓮の炎を消し去って黒一色になったとしても、そこで仕事が終わるわけではない。
若い消防団員も結局同じことを思っているのに違いなかった。数時間で黒い世界に変えてしまった事故、自分たちがもう少し早ければ、もう一人助けられたのではないか。もう少し、黒く使えなくなる建物が少なくて済んだのではないか。そのように思っているに違いない。自分たちはできる範囲の最善を尽くした。しかし、その最善を尽くした内容が、この結果であっては、本当に心が痛む。
「お前も、この結果を見て何か言いたいのか」
自分の気持ちに正直に言った。
まだ、石油や化学薬品のにおいが立ち込め、そこに消火液と水の混ざった、火事場の消火あと特有の嫌なにおいが鼻につく。
「団長、確かにひどい状態ですね。」
「ああ。」
「消防署員、消防団員にも被害があり、三名死亡、八名重症です」
「そんなに……。」
団長は言葉を失った。消防署員や消防団員は、しっかりと防火服をつけ、そして炎や衝撃には耐えられるような装備をしている。その人々が、そんなに被害があるというのは、さすがに驚きだ。
「はい。」
若い消防団員も、しばらく無言であった。 確かに、通常の交通事故だけであっても工事現場であれば、様々な工具があり、またガスなどを使っていることから、被害が大きくなる。そこを、運悪く化学薬品の運搬車にガソリンスタンドの爆発。もちろん、化学薬品の運搬に関しては消防署員の注意不足であったかもしれない。しかし、そこまで運悪く不幸が重なるなどとは思っていない。また、事故を大きくしようとして水をかけたわけでもあるまい。
しかしその結果、消防団員までも被害が出てしまったのである。
「それで被害者は」
「はい、すべて消防が手配しておりますが、人数が多すぎて一般の人にも手分けしてもらって総合病院や大学病院に運んでおります。」
若いながら、しっかりと訓練が積まれている。心が揺れているのは団長の方なのかもしれない。実際に、消防の経験を何度もしているが、ここまでひどい現場は見たことがない。逆に若い団員の方が、このようなものかと思うかもしれないし、また、自分たちの時に比べれば火事や消防署員を扱った映画やドラマも多くなった。自分のころは「タワーリング・インフェルノ」くらいしかなかった。それも高層ビルの火災でありかなり特殊事例である。日常の消防署員を主人公にしたような内容はなかった。それだけに、悲惨な火災現場の免疫は、団長の世代よりも若者の方が多いのかもしれない。
「よし、よくやった」
「ところで、今救急車で運ばれた被害者の証言なのですが」
「どうした」
「どうも、個々のマンホール、拓いていたようなのです」
若い消防団員は、何気なく言った。
「マンホールが開いていた」
「はい。」
「それはどんな人が言っていた」
これだけの火災である。何か見間違ったりあるいは、何かの拍子で頭を打って記憶が倒錯している場合もある。
「軽傷の女性です。それも頭とかではなく、自動車の事故に巻き込まれて足を少し傷ついたような」
「要するに、記憶などは確かということだな」
素直にそういえばいいのに。団長はなんとなく忌々しく若者を見た。
「はい。その女性の記憶によると、マンホールの近くに、白ステッキをついた老人がいたということです」
「白ステッキ、目の不自由な人だな。目の不自由な人や白ステッキを持った被害者は確認できたか」
団長は、自分のいやな予感が徐々に現実になっていることを感じていた。
「いえ、さすがにこの状態ではそこまでは確認していません。また、女性もいつの間にか白ステッキの御老人は見えなくなったと」
落ちたのに違いない。若い団員もそのことがわかっているから、わざわざ報告に来ているのだ。それならばそうと早目に言えばよい。しかし今の若者は、そのようなことを直接言うのではなく、なぜか、半疑問形で会話をし、結論が遅くなる。その結論の遅さが、一刻を争う人の命がかかっているときには邪魔なのだ。
「それならばすぐにマンホールの下を捜索しろ」
「しかし、今はそのマンホールが閉じられていて、上には……」
被害者のトリアージをやっているブルーシートが敷かれている。それも重症患者ばかりだ。
「なぜ開いていたマンホールの上に」
「団長、交通事故の車は、そのままその辺をなぎ倒し、そして数百メートル離れたところで炎上しています。そして、誰かが気をきかせてマンホールを閉じたのではないかと思われます。」
一番初めの事故現場が、もっとも安全な場所に変化している。団長は何か皮肉を感じた。
「何とかしろ」
「どうします」
「あちら側のマンホールを開けて捜索するか、あるいは重症患者を一部どかせてマンホールを降りるか、どちらかだ」
「どちらに」
「トリアージやっている医者に聞いてくれ」
団長は、若い団員に指示をした。