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空海の自然思想を読む

2022.11.19 05:30

鳳の雲と翔るや秋夕焼  高資

空海の掌(たなごころ)なる初巳かな  高資

空海の手に微笑むや初弁天  高資

初景色おんそらそばていえいそわか  高資

 弁財天・延命院(五島黄島)、天長六年七月七日、江島弁天法秘に於いて密護摩・一万座奉修行の灰で空海が製作したと刻まれています。ー 場所: 五島観光歴史資料館

護摩の灰による塑像ではないかと思います。この手形がほんとうに空海のものであればすごいですね。天長6年の4月、空海は塩原元湯温泉に留錫したと伝えられていますので、その東国巡錫の折に作られたのかもしれません。

上図のグルジェフのメッセージから連動してイメージしたのが2枚セットのこのレリーフです。護摩の灰で作られたということ、弁財天と重ねあわされていることが潜在意識下にあったと思います。下の図は炎の上部に浮き出ている文字です。これはクラウンチャクラに対応する梵字です。

護摩の灰を生むのはもちろん護摩です。恒久的に起きている火事は眠りから覚めるには護摩の炎が必要だと暗示しているようです。護摩祈祷は仏様の智慧の火をもって煩悩の薪を焼きつくし、心の垢を焼き清める供養といわれます。

龍天に登る御護摩の炎かな  高資


2枚のレリーフはセットですが、細部を見たくて拡大しました。

左側のものでまず目に留まったのが船でした。補陀落渡航、蓬莱を連想しました。

左の指に刻まれた語は理解不可能です。

一日一万回100日間マントラを唱える修行を「虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」そして護摩が読み取れる感じです。


空海を調べてみました。以下です。


http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-16.html

【空海の自然思想を読む】

Ⅰ山岳修行

ある一人の修行者がいて、わたくしに「虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐもんじのほう)」を教えてくれた。その法を説く経によると「もし人が、この法によって真言一百万回唱えたならば、たちまちにあらゆる経典の文句を暗記し、その意味を理解することができる」という。
そこで、ブッダの説かれたその真実の言葉を信じて、木を擦って火を起こすように怠ることなく、阿波の国の大滝嶽(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎(むろとのさき)で修行に励んだ。
すると、(岩壁の上で真言を唱えていると、そのこだまが)谷間に鳴りひびき、(岬の磯の岩の上で荒海に向かって座っていると)夜明けの明星が突然、わたくしの中に飛び込んで来た。(それが、真言一百万回目の成就の証しであった)
こうして、わたくしは世俗の栄華を、ますます厭うようになり、山林にたちこめる靄(もや)の中での生活を朝に夕に慕うようになった。
都での軽やかな衣服と肥えた馬、そのような豊かな暮らしがいつまでもつづくものではなく、すぐさまにも消え去る虚しいものだと思い、障害を背負った人や、つなぎあわせのぼろぼろの衣服をまとった貧困の人を見ると、どういう因果でそうなったのかと哀しみは尽きなかった。そのような訳で、目にするものみなが、わたくしに世間を捨てて出家することをすすめているようであった。誰も吹く風をつなぎ止めることができないように、誰がわたくしのこの思い留まらせることができるだろうか。<『三教指帰(さんごうしいき)』巻の上、序より/空海二十四歳(七九七年)の著作>

 七七四年、空海は讃岐(さぬき)国多度郡(たどのこおり)屏風ヶ浦(びょうぶがうら)の善通寺で誕生した。幼名は真魚(まお)。父は多度郡の郡司、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)善通(よしみち)、母はこの地の氏族、阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)という。

十三歳で地元、讃岐の国学(地方官吏養成所)に入る。

十五歳で都に出て、母方の叔父で、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった阿刀大足(あとのおおたり)から、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。

十八歳で奈良の大学の明経科に入学し、中国春秋時代の政治・外交・自然災害史や、中国最古の詩歌、中国歴代帝王の言行録等を学んでいたが、それらを早々とマスターしてしまった空海は、二十歳前後で生きることとは何かを求め、山岳修行に入ったとされる。

その修行体験と心情を、青年期の空海が綴ったものである。

文中に出てくる「求聞持法」のテキストは、インド僧の善無畏(ぜんむい)三蔵が漢訳したものを、入唐し善無畏にも師事した大安寺(だいあんじ)の道慈(どうじ)が七一八年に日本に持ち帰ったものだ。このテキストによって、当時、多くの者が修行に励んだ。

 同じ言葉を繰り返し唱えながら、無心に山野を駆け巡り、湧きだす煩悩や詰め込まれた知識からおのれを解放し、自然とともに生きる無垢なる知のちからをもっている、ありのままの身体に目覚めようとする修行である。

 この仏法の原点に立ち戻る、ブッダも行なった苦行によって、頭脳はリセットするのだ。青年空海はそのことをさとった。そのことによって、情報はいくらでも吸収できるようになる。その実質的な修行体験が、空海を官位栄達の道から、仏道へと向かわせた。

Ⅱ山中座禅

山中に何の楽しみがあって こんなに長く帰ることを忘れてしまったのか 一冊の秘典とつぎはぎの衣が雨に濡れ、雲にしめり、塵にまみれて飛ぶ  谷川の水一杯で、朝はいのちを支え山霞を一飲みして、夕に英気を養う  山での衣服はたれさがったつる草と細長い草で充分いばらの葉に杉の皮を敷いた上がわたくしの寝床 (晴れた日には)恵みの天が青空となってひろがり(雨の日には)まごころある水の精が白いとばりをつらねる  (わたくしの居る場所に)野鳥が時おりやって来て歌をさえずり  山猿は目の前で軽やかにはねて、その見事な芸を披露する(季節になれば)春の花、秋の菊がわたくしにほほえみかけ明け方の月、朝の風がわたくしのこころを清々しく洗う(この山中で)自分の身体と言葉と思考による無垢なる三つの知のはたらきがありのままの自然と一体となって存在している今、一欠けらの香を焚き、立ち昇る煙りを見つめ、真理の言葉を一口唱えるとそれだけのことで、わたくしのこころは充たされるそこに生きていることのさとりがある<『性霊(しょうりょう)集』巻第一、「山中に何の楽(たのしみ)か有る」の詩の一節/空海二十代半ばから後半の作>

 前述の「求聞持法」の修行を"動"とするならば、この詩であらわされているのは"静"である。さとりを求める青年空海の山中での座禅修行が描かれている。紀元前に仏教の開祖、インドのブッダも座禅による呼吸法を説いた。
「入息・出息を整え、こころを呼吸に集中すれば、すべての動植物の息づかいとこの身を一体化できる。そうすれば、すべての生命のもつ微細な知のはたらきに気づくだろう。そこに、こころの本性がある。そうして、こころは清浄である」と。

その呼吸法と同じことを青年空海も行なった。

この山中には、地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)という自然の構成要素<五大(ごだい)>があり、その要素によってつくり出された生命のありのままのすがた<法身(ほっしん)>があり、そのありのままのすがたが発揮している無垢なる知の行為、動作・伝達・意思<三密(さんみつ)>がある。それだけのことで、青年のこころは充たされたのだ。

そこに、大和国(やまとのくに)高市(たけち)郡(こおり)に所在する久米寺(くめでら)で空海が発見し一読した『大日経』の説く、密教のさとりの「理念」と「実修」の、その理念と同じ世界があった。さらにそこには、山岳修行(奈良時代の初期に元興寺に来た唐僧の神叡は、吉野の比曽山寺に篭り、「求聞持法」を修して、仏法の原点となる行を積んだ。これが「自然智宗」と呼ばれ、山林修行の始まりとなる。また、森羅万象には神が宿るとする日本古来の信仰と仏教が習合し、道教、陰陽道などの要素が加味された修験道は、各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り、厳しい修行を行なうことによって自然のもつちからとわが身を一体化させ、そのちからをもって山水に遊び、あるいは衆生の救済にあたった)によって開かれた、神仙思想の仙境の地が広がっていた。密教がすべてを一つに結びつける。そのことを青年空海はすでに理解していた。

 因みに、インド僧の善無畏三蔵が七二五年に中国にもたらし、漢訳をした『大日経』の書き写しが所蔵されていたという久米寺のあった高市郡(住人の九割を渡来人が占めていた)は、青年空海の仏教の師であった勤操(ごんぞう:海外からの渡来僧を含め、九百人近くの僧が居住し学んでいた大安寺の学僧、今でいえば国立の仏教総合大学の先生)の出身地であり、当然ながら、日本に「求聞持法」を伝えた道慈の弟子であった善議(ぜんぎ)、その善議に学んだ先生は、三論と密教を兼学されていたから、先生のアドバイスによって、空海は不二の法門の秘典『大日経』に、当時の日本の国際交流都市、高市の地で出合うことになったと思うが、この時期の空海が山での修練だけではなく、里での大安寺を中心とした仏道修学と、大陸伝来の各種技術、それに語学(唐語・サンスクリット等)を多くの渡来人との親交によって、身をもって学んでいたと察せられる。

Ⅲ日光開山記

七八二年三月中旬、(わたくし勝道は)今回は(日光男体山に)登頂するまで絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜、登頂の成功を祈願した。(そうして、頂上を目指すときが来た)雪の白くつづくところを越え、きらめく緑のハエマツの茂る崖をよじ登った。崖の上から頂上まではもうあと少しの距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して体力を回復し、とうとう頂上に立った。

 (中略)

この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背中のようであり、その眺望は果てしなく、南北は虎がうずくまったようであり、住んでみたくなる風情がある。北方(今日の川俣湖の方向)を眺めると湖があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい:中国の地積単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。西方をふり返ると、やはり一つの小さな湖(湯の湖)があり、二十余頃はありそうだ。西南方に目を向ければ、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。その湖面は、まわりをとりまく高い峰々の影を逆さに映し、そこに映し出された山肌は、種々の植物と岩石が織りなす奥深い色合いを帯びている。この季節、白銀の残雪を敷きつめるところに春の花が咲き、その花びらが陽光に照らされて枝の先で金色に輝く。それらのいろんな色の陰影・濃淡を、鏡のような湖水がありのままにとらえている。

その山と水が無心に互いを映しているすがたに、思わず、わたくしは涙ぐむ。眺め、たたずみ、まだ見ていたいのに、突然の雪まじりの風がそれらの景色をかき消し、人を追いたてる。わたくし勝道は小さな庵(いおり)を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂成功を自然の神々に感謝し、祈りを捧げるために、そこに二十一日間滞在して勤めを行ない、その後、下山した。七八四年三月下旬、(仲間を連れて)再び日光男体山に登り、五日を経て中禅寺湖のほとりに着いた。四月上旬に、そこで一艘の小舟を造りあげた。長さ二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくし勝道と二、三人が一緒に乗り、湖に棹をさし、遊覧した。湖上より周囲の絶壁を見まわすと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて自然とこころもはずむ。まだまだあちらこちらを遊覧していたかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さは四方三十丈余り。多くの中洲のうちでも、勝れて美しい場所であった。(次の日は湖を基点として西方向の)西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里ばかり離れている。また、(別の日には北方向の)北湖(湯の湖)を見に行った。中禅寺湖からは三十里ばかり離れている。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。その中禅寺湖の緑色の水は鏡のように澄み、水深は測り知れない。湖面の水際には樹齢千年の松などの常緑樹がおおいかぶさり、岩の上には巨大な檜や杉が突っ立ち、紺色の楼閣のようである。たった一株から、五色の花がまざりあって咲く山あじさいは茂り、朝・昼・夕・晩・深夜、明け方には、同じさえずりで、それぞれに異なる鳥が鳴く。白い鶴はなぎさに舞い、青い水鳥が湖面にたわむれている。それらの鳥の羽ばたきは風に振れる鈴のよう、その鳴き声は玉のひびきのよう。松の葉は琴線となって風の音色を奏で、岸は鼓となって寄せる波の調べを打つ。それらの自然の奏でる音階がたがいにひびき合って天の調べとなり、湖水は甘く・冷く・軟らかく・軽く・清く・臭みなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、ゆったりとしてありのままに貯えられている。湧きだす霧や雲は、水の精が辺りをおおういつもの仕わざであり、星のきらめきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらを掴もうとしているからである。
今、湖面に映る満月を見ては、ありのままに生きるということを知り、空中に輝く太陽を仰いでは、すべてのいのちが日の光りの恵みによって生かされていると知る。そのいのちもつ無垢なる知に、すべてが映し出されているのだ。わたくし勝道にも、その知が具わっている。<『性霊集』巻第二、「沙門勝道(しゃもんしょうどう)山水を歴(へ)て玄珠(げんしゅ)をみがくの碑」の序より/空海四十一歳(八一四年)の著作>

七三五年、勝道(しょうどう)上人は下野芳賀(しもつけはが:現在の栃木県真岡市)に生まれた。幼名は藤糸丸。幼少の頃より、蟻のいのちですら殺生しなかったという。青年になってからは、自然とともに生き、その自然に祈る道と場を求めた。その青年が、後に二荒(日光)開山の祖となった。上人は、八一七年に八十三歳で亡くなられるが、その三年前に人を介して、名勝の地、日光山と中禅寺湖周辺の「山水遊記」の執筆を空海に依頼した。
仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることにした。空海四十一歳のときである。その空海執筆による、上人を主人公とした、我が国最初の「登山記」ともなる文章の一節である。

 上人が日光男体山に初登頂(七八二年、春)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ八歳の少年であった。その少年が成長し、あらゆる学問に通じながらも、二十歳の頃には大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行をした。そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解している人であった。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その文章に目を通し、上人は大いに満足したものと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海が同行していた。

Ⅳ雨と農業

 (天皇は)飢饉のために自らも食事を減らし、朝な夕なに人びとの暮らしを心配された   また、寺々の僧を促して雨乞いの修法をさせ山々に使者を走らせ、すべての行者たちに祈らせたそのように、老いも若きも一緒となって祈りを捧げた結果、それらの祈りが天に届き、 うっすらと雲が湧き起こり祈りに合わせて、雨足がはげしくなった(降りそそぐ大量の雨によって)甘露のような、乳のような、バター油のような雨水がもうもうとしぶきを上げ、まんまんとして山谷を流れ(京都洛西に位置する弓月の王の子孫の住む里の)桂の山の嶺から落ちる滝の水は(月神神話の月のなかにいる)うさぎをも溺らしてしまうほど 稲田の水路も牛を水没さすに充分 草木は青々として、その葉の一枚ずつに雨の滴が真珠のように光り  広々とした池に湛えられた水は青い宝石のよう 農民たちよ、もう心配することはない早く見に行こうよ、早稲(わせ)も晩稲(おくて)も苗(なえ)は無事であった 南の田んぼでは苗が生長し、緑豊かに茂っている 東の畑では(豊作を祝い)どんどんと打ち鳴らす太鼓に合わせて、農民が集い歌っている

 (中略)

自然に雨さえ降れば、食物と衣服は天から授かることができる 民は日の出とともにはたらき 日が沈めば、休息する 井戸を掘って水を飲み 田を耕して自ら食う(そうなれば)天子のちからなど必要なくなるだろう<『性霊集』巻第一、「雨を喜ぶ歌」の詩の一節/空海五十一歳(八二四年)の作>

嵯峨天皇の在位中(八〇九~八二三)とその前後を含め、日本は幾度も大干ばつに見舞われた。その度に日照りによって山火事が起こり、稲田と粟畑を焼き尽くし、山と河も焦げ、鳥も魚も死んだ。歴代の天皇は民を救済するため、その知恵をもってあらゆる努力をされた。そうして、自らも質素な生活に入られ、人びととともに雨が降るように祈られた。
天皇と人びとの祈りによって、やがて、雨が降り始める。その喜びを、空海が詠った一節である。

 八二四年の二月に淳和天皇の勅により、空海は神泉苑で祈雨の修法を行なっている。また、八一八年の四月にも、藤原冬嗣の要請により最澄が叡山の僧すべてを率いて祈雨の修法を行なったという。両者ともその修法によって雨を降らせているが、この時期、頻繁に大干ばつが起きていたことになる。

 その祈雨を詩のテーマとしながらも、空海は自然とともに生きる人間や社会のありようを詠う。そうして、為政者の心がまえ、農民と生産、生活の原理、それに道家の理想とする政治の"無為"を説いている。

 そこには、日本列島という風土のなかでともに暮らす民衆の幸福を願う、空海の大きな祈りがある。

Ⅴ治水と利水

古より、夜空に輝く五穀(稲・麦・粟・ヒエ・豆)の豊饒をもたらす星座のちからと天上の広大なる銀河の流れの恵みによって、地上に雨が降りそそぎ(その雨によってできた)湖水と海水からあらゆる生物が誕生し、いのちは水によって潤い、生きることができる。その潤いのおかげで、植物という植物がよく茂りあらゆる動物は、その植物を衣食住として生きられる。星の気のちからと四季ごとに八方から吹く風が、生物を豊かに育て(物質といのちをつくりあげている)自然の元素の中で、水の元素こそがいのちの源である。水の元素のもたらす限りない恩恵は、何と遠大なるかな、偉大なるかな。

 (中略)

カモの群れのように水路を行き交う青色の舟は次々と土を運び、数千頭の馬が毎日駆りだされ、その馬のように速く走る赤色の舟は人を乗せ、百人単位の人夫は夜を徹して、来る日も来る日も休みなくはたらいた。荷馬車はゴウゴウと稲妻のごとくに走り、男女の人夫がドンドンと雷の落ちるように現場に集まる。土はコンコンと降る雪のように積み上げられ、堰堤(えんてい:長さ南北約二百メート、高さ八メートル、堤の幅約三十メートル)はたちまちにして、雲のように盛り上がった。その築造しているすがたは、まるで霊なる神が巨大な手で土をこねているようだし、そのこねた土を大きな炉で焼き上げているかのようであった。そうして、またたく間に日数をかけずに工事は完成したのだ。この人工の池をつくったのは人間であるが、それを可能にしたのは天のちからである。

 (中略)

 (広大な貯水池の背後の)松の緑が茂る嶺の上を白い雲はゆるやかにうごき檜隈川(ひのくまがわ:今日の高取川)の水は激しく流れる。 (その水を湛えた貯水池の水面には)春になれば紫や黄色の草花が刺繍のように映りここを訪れた者に帰ることを忘れさせ秋になれば広がる紅葉の錦の林が遊ぶ人びとをあきさせない。

オシドリとカモは水に戯れて鳴き黒と白のサギの仲間は渚に遊んで、羽をひろげて舞い競う。亀はのそのそと首を伸ばしフナと鯉が尾ひれで水面をたたく。カワウソはたくさんの魚を捕らえて並べ成長した鳥のひなが餌を口にくわえ母鳥に恩返しをする。

 満々と湛えられた湖面は大空を呑み込み重なる山々はその影を逆さに映しその深さは海のようだしその広さは中国の大河にも負けない。長安の人工池である昆明池をも小さいと笑いインドの高地にある雪解け水を湛える広大なる湖をものともしない。虎が強がって湖面をたたけばさわぐ波は夜空の銀河にそそぐというが 水神である龍が唸って大雨を降らし、堤を決壊させようとしてもこの貯水池の水量は(大きな木製の配水管によって)調整されている。(中国の荘子のいう)水の精の河童ですら、この堤防を溢れさすことはできず干ばつを起こすという女神も、この水底を涸らすことはできない。
大和の国の六つの郡はおかげで潤い貯水池からの水は、それらの郡の小川に引き込まれ、豊かに流れ、田畑にそそぐ。<『性集』巻第二、「大和(やまと)の洲(くに)益田(ますだ)の池の碑銘」の序より/空海五十二歳(八二五年)の作>

この文は空海と親交のあった大伴国道(おおとものくにみち)らのチームによって、大和(奈良)の国の益田の溜池が築造(八二五年九月竣工)されたときに、工事のアドバイザーを務めていた空海が、求められて記したものである。

あらゆる生物のいのちの根源である水、その水の水脈と水質、治水と利水、水上運送と港湾づくりは、空海の自然思想の実践を象徴する事柄である。彼の生涯にわたる社会活動において、水との関わりは切り離せない。その実践のなかに、満濃池(まんのういけ)の修築がある。

空海のふるさと四国讃岐は、昔から雨が少なく、田畑を潤す溜池を多く必要とした。その一つに満濃池があった。この溜池は、七〇一~七〇三年に国司の道守朝臣(みちもりのあそん)によって築かれたが、幾度も洪水によって決壊していた。

 八一八年、讃岐の国は大洪水に見舞われ、溜池は大きく決壊し、修復工事は難航を極め、三年を掛けても完成しなかった。このとき、溜池のある多度郡の農民たちが、当時の国際都市、唐(中国)の長安に留学して仏教の教えとともに、工芸と建築土木と天文暦学・医学・語学と文芸・論理学等の最先端の学問と技術を学んで帰国していた地元出身の空海に、ぜひともこの困難な工事の監督をしてほしいと、国司をつうじて朝廷に願い出た。朝廷の命により、八二一年の六月、空海(四十八歳)はかねてから親交のあった、当時大和国(やまとのくに)高市(たけち)周辺に多く居住していた渡来系集団のもつ先進技術情報とともに、彼らと縁のある地元の秦氏の人びとの協力を得て、さっそく現地入りする。まず、堰堤の形状をそれまでの日本では見たこともないアーチ型にすることを指示し、水圧に耐えうる強固なものとした。つぎに、貯水量を調整できる排水路を天然の岩盤部分をくりぬいて設け、洪水を防ぐように工夫した。また、土手の水際の波浪による侵食や、水面の上下による表面土砂の流出を防ぐために最新の護岸工事を施した。こうして、三年間も手のつけようもなかった決壊要因を解決し、二ヶ月間の集中工事で秋の台風シーズン前には工事を完成させたという。(この日本で初めてのアーチ式ダムは、その後も時代ごとの土木技術の英知を結集し、改良を加えながら一千年以上を経た今日も、満々と水を湛え、広大なる丸亀平野の田地を潤している)この工事から四年後に大和国高市の地にある益田の池の竣工にあたって、空海は頼まれて池のほとりに建てる碑文とその序を記した。

Ⅵ自然の誕生

「生物の住みかとなる自然世界の全体詩」

自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか  気体(ガス)が初めに空間に充満し

 (そのガスが凝縮して) 水と金属がつぎつぎと出て(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり) 地表は金属を溶かした火のスープでおおわれた (やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)深く広大な海となり (冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)地表は持ち上がり、山々は天空にそびえ立った (そうして、出来上がった空と海と)四つの大陸と多くの島にあらゆる生物が棲息するようになった<『十住心論』巻第一、「自然世界」の章より/空海五十七歳(八三〇年)の著作>

 八三〇年、空海五十七歳のとき、淳和天皇は各宗にそれぞれの宗義要旨を提出するように勅を下した。それに答えて空海が提出したのが『十住心論』十巻の大著である。

 この著作において、インド伝来密教第八祖としての空海は、インド・中国のそれまでの人間思想を体系的に第一から第十までの十段階にまとめ、その頂点に密教思想を位置づけた。

 さて、その第一段階において、こころ、すなわち意識が存在するのは、地球上に自然があり、自然によって生命が生かされており、その生命が意識をもち、意識が生存欲となり、やがて知性へと発達することから、思想を生む大もとは自然の存在にあるとした。その自然の誕生を全十巻に及ぶ膨大なる人間思想体系の最初に空海は記したのだ。

Ⅶ実在する自然

なんと大空は広々として静かなのか 万象を天地自然に一気に含み 大海は深く澄みとおり、水という一つの元素にさまざまな生命が宿る。このように一は無数の存在の母胎であると知ることができる。(同じように)空(くう)はあらゆる現象の根本である。

 (以上が相対を超えた絶対世界のすがたである。その中で)それぞれの現象は不変に存在しているものではないから空であるというがそれでも一切のものがそのままに存在している。

 この絶対世界の存在においては、空は実在であり現象は不変の存在としてとどまることがないから、実在するけれども空である。

 (このように)存在するものは空と異ならないから、もろもろの現象が起きても、それらはそのままに空であり

 (また)空は存在するものと異ならないから、存在の諸相は否定されても、否定された諸相をもつものがそのままに存在する。

 だから、存在すなわち空であり、空すなわち存在である。

 すべての存在現象はそのような真理をもつ。

 そうでないものは何ものもない。

 それは、波は水があるから起きるが、波が起きないからといって水は存在しないといったことにはならないのと似ている。そう、水じたいがそこに実在しているから、波といった現象が生起するのだ。<『十住心論』巻第七、「大意」の章より/空海五十七歳(八三〇年)の著作>

 紀元三、四世紀頃のインドの仏教論者、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論(ちゅうろん)』によると、まず、「存在条件」の有無から考察し、「去来(動き)」「認識作用」「物質と現象」「存在と非存在」「寿命(発生・持続・消滅)」へと論証は進み、究極の論理となる「作用と作用主体による相対性」によっても個々の存在は証明することができないことになってしまった。そうして、つぎのように結論づけた。

 (すべての存在現象は)

 生じないし、消滅しない。

 断絶しないし、連続しない。

 同一ではないし、別でもない。

 去ることはないし、来ることもない。

 しかし、この結論によると、すべての存在は否定されてしまうから、実在している自然とは、明らかに矛盾する。

 そこで空海は、実在している自然世界をイメージ・シンボル・単位・作用によって示し、論理による空(くう)を超えた。つまり、実在する空間としての空と、論理によってはとらえることのできない存在の諸相の空を一つにし、極めて物理学的な"絶対世界"の存在を説いた。この世界を誰も否定できない。この実在している自然の中でわたくしたちは生きている。

Ⅷ自然への祈り

 つつしんで聞く。人はこの世に生を受け、意識をもち、万物を識別し、それを言葉にし、世界観をもった。しかし、そのことによって世界は、知識と論理をもって学ばなければ、何も分からないのだという、知識の闇が生み出された。それが生きていることの迷いとなった。でも、よくよく考えてみれば、世界は識別しなくても、もともとそこに存在している。

 識別とは、人の意識を因として生じた果であって、果のすべては人が勝手につくりだしたものにすぎない。

 そのすぎないものによって、知らないことがあるのだというこころの余計な闇が生まれた。その闇が、こころの中に本来は存在しない暗黒をつくり出した。

 しかし、すべての意識の根源である知覚に戻れば、太陽が昇るとその光りが天の暗闇を照らし、銀河にかかる月の光りが虚空を明るく照らしているのを人は身体を通して、感得することができる。

 そのように、生きとし生けるものの意識の源であるいのちの無垢なる知のちからによれば、こころの闇にかかわりなく、実在する世界を観察・感得することができるのだ。このいのちの放つ無垢なる知の光りによって、こころの迷いや、行為の過ちをつくりだしている識別の苦をことごとく取り除くことができるのだ。そうすれば、その光りの中で、人は自分も他人も自由に生きられる。

 その無垢なる知の光りを仰ぎ見られますように。

 さて、ここにわたくし空海は、密教を修行する多くの弟子たちと、高野の山の自然道場"金剛峯寺"において、ささやかながら法会を設け、イメージ・シンボル・単位・作用の表現によって示された、物質・生命・意識からなる世界のすがた図とその世界をうごかしている原理図を掲げ、この世界のすべてに万の灯明と、万の美しい花を捧げます。

 願うところは、毎年一回この法会を設け、すべてのいのちの無垢なる知のちからの相互扶助によって成る世界に報いたいのです。

 この願いは、宇宙が尽きるまで、生きとし生けるものが尽きるまで、いのちの無垢なる知のちからが尽きるまで、終わることはないでしょう。宇宙がなくなり、生きとしいけるものがいなくなり、いのちの無垢なる知のちからがなくなれば、わたくしの願いも終わるでしょう。

 (中略)

 こころよりお願いします。この実在するいのちの無垢なる知のちからの光りによって、万人のこころを苦しみから救わせたまえ。こころの闇に迷いさまよう人びとを、たちまちのうちに、その本来のいのちの知のちからの光りのもとに帰らせたまえ。意識によって生じた闇を、その本来のいのちの知のちからの光りによって、取り去らせたまえ。尽きることのないありのままのいのちが、その無垢なる知のちからの行ないの光りを放って、月の輝きのように、すべてのいのちあるものを照らしたまえ。永遠に変わることなき、その無垢なる知の輝きによって、生きとし生けるものを救いたまえ。

 物質を成す五つの要素<固体・液体・エネルギー・気体・空間>と、それらに<意識>をラスした生きとし生けるものがあまねく住むところ

その生きとし生けるものがいのちの無垢なる知のちから<生命知・生活知・創造知・学習知・身体知>を発揮しているところ

 (その五つの知のちからのはたらきによって)

 鳥は大空に羽ばたき

 虫は地にもぐり

 魚は水に泳ぎ

 けものは林に遊んでいる。

 すべてのいのちは、親があることによって生を受け継ぎ、住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはたらきにしたがういのちの知の原理によって生かされている。そのおかげに深く感謝します。

 ともに、清らかな共生世界に入らせたまえ。<『性霊集』巻第八、「高野山万燈会(まんどうえ)の願文」より/空海五十九歳(八三二年)の著作>

 八三二年八月二十二日、空海五十九歳のとき、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと満天の星の下、万の灯明と万の美しい花を捧げ、すべての生きものが自然とともに生きていることを感謝して祈った。その祈りの理念である。

 人は自らのもつ、いのちの無垢なる知のちからによって、なぜ生きるのかと、どう生きるかのさとりを得る。また、生きている世界の真実のすがたとはたらきをマンダラによって会得する。それらはみな、自然の道理によって生みだされたものなのだ。

 その自然とともに永遠に生きようとする空海の願いの法会は、ここに始まり、一千年後の今日までも続く。

 これほどの遠大なる自然思想が、すでに平安時代に、空海という稀なる個性によってかたちになり、今日に伝えられたことは、この日本列島に住む人びとは大変な知的財産を古来から手にしていたことになる。だが、その知の内容に関しては、美しい法会のオブラートに包まれてきた。その包みを思いきって飲み込んでしまえば、そのなかに普遍の万能薬が含まれていることを人びとは直感的に気づいていたのだろう。でなければ、毎年行なわれる高野の山の奥の院の参道に灯される十万本のろうそくの光りの川に、人びとが感動することはなかったであろう。

あとがき

 空海の思想を語るとき、その難解な密教の教義に目をとられ、何か神秘的で複雑な理解をしなければならないのだという、勝手な思い込みをさせられるのだが、空海の著作のなかの言葉に目をやれば、そこに、爽やかな自然観をもつ、もう一人の空海がいることに気づく。

 自然とともにある空海という人は、シンプルで清々しいのだ。その方が本来の人物像でないかと思わせるほどである。特に、山林修行をしていた若き頃の言葉を読むと、そこにあるのは自然を観察し、自然に親しむ青年のひたむきなすがたである。その体験によって執筆されたのが、勝道上人の日光開山記であろう。空海によって記された中禅寺湖の景観は、澄みきった空気までを伝える。

 その後、インド伝来密教第八祖となった空海は、宗教的社会人としての人格をもつことになるが、干ばつに対する祈雨、豊作の喜び、治水と利水への工学的関わりなど、そこにあるのは自然への一貫した真摯(しんし)な態度である。

 また、晩年に朝廷の命により提出した人間思想史『十住心論』の第一住心「倫理以前の世界」に記した自然世界、すなわち地球の誕生によって自然環境が生まれ、あらゆる生物と人間も生まれたから、そこに意識もあり、その意識から思想も生まれたとする考察は、当時においては、はるか後の近代思想を先取りするものであり、第七住心「一切は空である」に記した、「すべての現象は相対性によって考察しても、その存在を証明することはできないから、論理によってはとらえることのできない空なるものが存在している。だから、あらゆる存在にとらわれることはない」とのインド大乗仏教思想を乗り越えて、実在する自然をとらえる、空海の"絶対世界"の哲学は極めて今日的である。

 それらの遠大なる自然思想の上に、空海の祈りがあり、密教もある。