2008-06-06「ゆっくり、はっきり、話しかけてください」
昨日なんとなくTVを見ていたら、あれっ? と思った。
わぁ、白井貴子だ。懐かしい!ちょっとふくよかになってるけど、元気そう。
ん? これっていったいなんのCM???
いま、私が話しているこのスピード
聴こえにくい人には、これでもちょっと
聴き取りずらいんだそうです。
だから、ゆっくりと、はっきりと、
話しかけてください
白い画面から、白いシャツを着た白井貴子が、
ゆっくりと、はっきりと、話しかけてくる。
うわぁ、リオネット補聴器のCMだった。。。なるほど。
聴力が低下している方には、これまでずいぶんたくさんお目にかかってきた。
たとえ片側だけだって、聴こえにくければずいぶんと不自由が多い。
さらには、両側とも聴こえなければ、それはたいへんなことだ。
聴こえない世界、それはしーんとしているわけじゃなくて、聴きたいことは聴こえず、
耳鳴りやら変な音やらばかりが聞こえるそうだ。
(ときどき、知識も無く「いっそ全部聴こえなければ、しーんとしてていい。うらやましい」
とかテキトーなこと言う人がいるけど、それは大きな誤り、だと思うよ)
だけど、たぶん、聴こえない人、聴こえなくなりつつある人が、切実に訴えることは
もしかしたら、こんなことが多い。
「私が聴こえないことは、周りから見てわからない。
だから、どんどん喋りかけられるのだけれど、
みんなが何を言っているのかちっともわからない」
「話しかけられても、反応できない。そのうちみんなが
話しかけてくれなくなってしまう」(孫が自分を避ける、と嘆く方もあった)
「周りでみんなが楽しそうに笑っているのに、
自分はついていけない。なのにいっしょに愛想笑いしてる」
そんなかんじ。
そこにあるのは、孤独感、疎外感、取り残され感。
もしかしたら、周りの人たちが、もっと「ゆっくりと、はっきりと」 大きな口をあけて、
言葉だけじゃなく、心も、表情も、もっと表現力豊かに話しかければ、
きっともっと通じるはずなのにね。
そんなことを思い出させてくれるCMでありました m(__)m
一掌堂治療院の院長は、大人になってから両耳の聴力を失った人です。
もう7年くらいまえ、採用面接を兼ねた1日勤務に出かけて行った私は、院長がぜんぜん聴こえない人だと知って、びっくりした。だって、スタッフの補助や通訳(筆談と手話風ゼスチャー)はあるものの、なにごともないように、院長はごく普通に、患者さんとコミュニケーションしていたから。(院長は、歌も歌う。英語もばしっと喋る。ただし、こちらの話は聴こえないんだな)
音声情報が使えない院長とのコミュニケーションは、確かに不便なときもあった。微妙なニュアンスが伝わり難い。それは、ある。だけど、日々の仕事は、ふだん無自覚に何気なく喋っている代わりに、要点を簡潔にまとめたメモを作る訓練になった。そして、時は流れていまはメールでのやりとりが普通になったら、院長とはほとんど不自由無く、情報伝達やコミュニケーションできる。便利便利。
「バリアフリー」なんて、大上段に構えて考えたことはいちどもなかった。ときどき不便なこともある。まぁでも特にそれで問題だと思ったことも無い。
きっと院長は原因もわからず、突然聴力を失ったことで、本当に苦しい思いをしてきたのだろうと想像するけれど、でもきっと聴こえなくなった代わりに、きっといろんな能力を獲得したんだろうなぁ、とそばで見ていて思った。
波乱万丈。凄い人です。尊敬している。そういう院長を見ていたりすると、なにもかもがぴかぴかに健康で無傷で「五体満足」ってことだけが、唯一のすばらしい価値ってわけでもないな、と思ったりするのです。むずかしいね。
ぜんぜん聴こえない院長が、聴こえなくなってる人たちの治療に尽力しているいま、
私だけでなく、たぶんみんながいろんなこと感じているんでしょうね、きっと。(2008年6月6日)