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鍼灸・手技セラピーたまゆら

2009-01-31傷の在処(其の弐)

2009.01.31 14:22

ふと気づくと、もうすぐ鍼灸師免許とって満9年です。

うわー。はやっ。

ここでひとりで仕事を始めてからは、今年の5月で丸5年。 果てしなく長かったような、あっという間のような気がします。

開業間もないころからおいでになられているような方は、現状でものすごく困っている症状があるわけではなくても、「健康管理」という目的の方が多いです。 かなりのご高齢の方、重要なポストで重責ある方、慢性症状の経過観察の方、などなど。

一昨年&昨年あたりからは、本家サイト上ではっきりと明記するようになったせいか、おいでになられる方のカラーや傾向がかなりはっきりしてきました。新しくおいでになられて、そのまま継続してお越しになる方の傾向は、かなりの確率で、

「これまでに複雑な事情や厳しい体験がある+身体の症状で困っている」

というケースに当てはまるようです。

ちなみに。

鍼灸院の定番である急性の痛みや怪我などの新患さんはほとんど皆無だし、慢性でもいわゆる「リラクゼーション」だけを求める方はおいでにならないです。

まぁ、それは当然です。

例えばスポーツ障害なら、私なぞよりもっと腕のいい方が世の中にはたくさんいらっしゃるし、癒しの雰囲気を求めるなら、こんな口の悪い私なんかより、もっと柔和で穏やかな施術者さんや、充実した施設を探して頂くのが、お互いに幸せ、だと思います。

どれだけお役に立てているのか、甚だ心もとなくもあるのですが、当面この方向性でいくつもりです。はい。

さてさて。

えーと、継続中のテーマは治療者自身の「傷」についてでした。

前回書いたものはこちらです。

ひとことで乱暴に要約するならば、

「治療者の資質として、自らに傷となる体験はあった方が良いのか?」

という素朴な疑問について、ひとりでぐるぐると考えていたんでしたっけね。

さて、これってどうなんでしょうね?

ごくごく個人的な考えですが、自らに傷の体験がある方が治療者としての素質がある、とは必ずしも言えないんじゃないかと考えています。古代の呪術的医療の時代ではあるまいし、大きな挫折体験がなければなれない職業、ってのはちょっと現代・現実的ではない。

ただし、治療者という立場では、自らに傷の体験があることはストレートなマイナスにはならないし、むしろそれを役立てやすいことは事実でしょうね。 (自分の傷を客観化して見られること、という条件付だとは思いますが)

傷が傷を呼ぶ、そんな現象はたぶんあるのだろうと思います。

自らに傷の体験があれば、傷の痛みを想像できる、というメリットがあります。痛い思いしたこと無い人に、痛さの説明をするのはかなり大変な作業です。辛くて来てる人に、それを求めるのは不親切ですものね。

「この人はわかってくれそう。受け止めてくれそうな気がする」

そんな何かが働くと、人は誰かのところに行くのだろうし、目には見えにくいそうしたメカニズムの上に、こうした仕事は成り立っている部分があると思うのです。

===

でもまぁ、、、「治療者の人間性なんてどうでもいいから、とにかく治してくれればいいんだよ!」という身も蓋も無い赤裸々な需要が、少なからずこの世には存在することも、重々承知しています。 だけど、申し訳ないけど、私はいまここでそこまでフォローできません。 勘弁してください。そのことについてはまた、いつか機会があったときにしましょう。

===

例えば、これはCIDPだったときの私自身の体験ですが、自ら難病を克服したという奇跡(!)の治療者に診てもらいました。とてもいい人だったけれど、とにかく

「大丈夫!がんばれば治る!信じて!」

ってなことを繰り返し言われて、それはもうなにより激しく苦痛でした。(もちろん、それで励まされて、元気が出る人も居ると思いますよ。でも、私はダメだった、ってことです)

勇気を出して、誤解を恐れずに、自分の考えを申し述べますと、

「私は辛い目にあったけど、治った。だからあなたも大丈夫。治るよ。」

って、よく知らない相手にいきなり言っちゃうのって、ちょっと乱暴なんじゃないかと思うのですよ、私は。

だって、自分の痛みは、他者の痛みと同じではないよね。

そう思うんですけどね。

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自分の痛みを絶対的な尺度基準にしてしまったら、それより深くて厳しい痛みは理解できないし、自分の痛みと違った形、違った種類の痛みを理解するのが難しくなるのではないでしょうか。

世の中には、自分なぞが想像できないくらいの痛みがたくさんあるでしょう。自分が体験してきた痛みは自分自身に固有の貴重な体験であると同時にまた、この世界に数ある無数の痛みの幾つかでしかない、と思っています。

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傷となる体験、これは一概には言えないですが、私がお目にかかる範囲では、病、死、別離、欠乏、暴力、といったあたりでしょう。

私は、特に身体や症状に関すること以外をこちらから積極的に尋ねることはしません。ただ、いろいろな要素が絡み合っているような方からは、なんとなく、だんだんその方それぞれの背景についてのお話が語られることが多いように思います。そして私は、正直なところ、そうしたお話を伺っていて、「ホントにそんなことがあるんだ!」と 驚くしかなくて、こちらもただただ打ちのめされるしかないときが、あります。

そんなときに、私にはとても「わかるわかる」とか「すぐ治るよ」なんて、とても言えない。私にせめて伝えられることは、 これだけ。

「大変なところを生き抜いてきたんですね。だから身体もこんなに疲れたんだろうし、本当に頑張ってきたんですね。ここですこしゆっくりしてください」

そこまでが、治療者としての私が、まず最初に可能な理解の範囲、です。

だけど、そこだけにとどまるのではなくて、その苦しみをより深く理解しようとする努力や、苦しみを和らげるためにできるだけの助力を惜しまないこと、それが自分の職業的倫理、のようなものであり、誠実であろうとする試み、なんじゃないかな、なんて、改めて思ったりもするのであります。

って、あぁー。 なんだか何も恐れずに、一気呵成に書きましたですよ。

ここんとこ、なにかに「書かされてる」感がものすごくあります。

これって、どこまでいくんでしょうね???(2009年1月31日)