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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~ショパンの肖像、アイルランドの作曲家バルフェ~

2019.10.09 15:38

マイケル・ウィリアム・バルフェ

(1808年5月15日 イギリス、アイルランド、ダブリン- 1870年10月20日 イングランド、ハートフォードシャー)

アイルランドの作曲家。代表作オペラ「ボヘミアの少女」

バルフェはダブリンで生まれました。彼は幼い頃から音楽の才能が明らかでした。。彼の父親は、ダンスの達人でバイオリニストでした。彼は父親と、作曲家のウィリアム・ルークから指導を受けました。彼は子供の頃、彼は家族でウェックスフォードに引っ越ししました。1814年から1815年にかけて、バルフェは父親のダンスクラスのためにバイオリンを演奏し、7歳のときにポロネーズを作曲しました。

1817年、バルフェはバイオリニストとしてデビューをしました、彼は最初に「ヤング・ファニー」と呼ばれるバラードを作曲しました。

後に、ベストリス婦人によってポール・プライ(3幕の茶番劇)で歌われた際に「恋人達の過ち 」と呼ばれるようになりました。

バルフェ、1823年に父親が亡くなると、ロンドンに移り住みました。彼はそこで、ドルリー・レーンにある王立劇場の管弦楽団でヴァイオリニストの職に付きました。

その後、バルフェは、その管弦楽団の指揮者に就任しました。

その一方で、ロンドンに住んでいたバルフェは、チャールズ・エドワード・ホーンにヴァイオリンを、1824年からはウィンザー城内のセント・ジョージ教会でオルガニストを務めたチャールズ・フレデリック・ホーンに作曲を師事をしました。

バルフェは、ヴァイオリニストとして活動しながらオペラ歌手としてのキャリアも積みました。

バルフェはノリッジにおいてウェーバーの「魔弾の射手」でデビューを果たしました。しかし、これは良い結果を得られませんでした。

1825年、彼は、マッザーラ伯爵の計らいで、ローマでケルビーニに面会する機会を与えられました。

バルフェはイタリアに滞在中に、最初の劇作品であるバレエ「ラ・ペルーズ」を作曲しました。そして、彼はロッシーニに弟子入りし、1827年の終わりにはパリのイタリア・オペラに「セビリアの理髪師」のフィガロ役に抜擢されました。

バルフェはイタリアに戻り、8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲に専念しました。

彼はこの期間にパリのオペラ座で歌いました。

そこで、バルフェはメゾソプラノ歌手のマリア・マリブランと出会いました。

バルフェは、1829年のボローニャでは、ソプラノ歌手のジュリア・グリジのためにカンタータを作曲しました。彼女は、この曲をテノールのフランチェスコ・ペドラッツィと共演し歌いました。

バルフェはパレルモでの1829年から1830年のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「I rivali di se stessi」を上演しました。

1831年頃、オーストリアの血筋でハンガリー生まれの歌手のリーナ・ローゼル( 1806年-1888年)と結婚しました。2人の間に2男2女が生まれましたが息子エドワードは、生後まもなく死亡し、長男のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、1915年に早世しました。

娘はルイーザ(1832年-1869年)とヴィクトワール(1837年-1871年)でした。

バルフェはパヴィーアでオペラ「Un avvertimento ai gelosi」を、ミラノでは「Enrico Quarto」を作曲しました。彼は、ミラノで1834年にマリブランと共演し、スカラ座でロッシーニの「オテロ(英語版)」を歌う契約となっていました。しかし、彼はマイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」を編曲を試みたため、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場での契約を放棄する結果を招きました。

バルフェは、1835年5月、妻と娘を連れてロンドンに戻りました。1835年10月29日のドルリー・レーンでの「The Siege of Rochelle」の初演は彼に成功をもたらしました。

彼は1836年に「The Maid of Artois」を発表し、さらに英語のオペラを次々に発表をしました。

1838年7月、バルフェは、S.マンフレード・マッジオーネの台本で、ハー・マジェスティーズ・シアター用にシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ 」を作曲しました。

初演に際しては友人のルイジ・ラブラーシュ(バス)が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ(テノール)、そしてアントニオ・タンブリーニ(バリトン)が出演しました。

この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラでベッリーニの「清教徒」の初演を行った時と同じ出演者でした。

1841年になると、バルフェはロンドンのライシーアム劇場にナショナル・オペラを設立したましが、この事業は失敗に終わりました。

同年に、彼はオペラ「Keolanthe」の初演、その後、彼はパリへと移って1843年の初頭に「Le puits d'amour」を上演、1844年にはオペラ=コミック座のための「エーモンの4人の息子」に基づく自作オペラ、1845年にはオペラ座のための「L'étoile de Seville」を上演しました。これらの作品の台本を書いたのは、ウジェーヌ・スクリーブでした。

1843年にバルフはロンドンに戻り、1843年11月27日にドルリー・レーンの王立劇場で、彼の一番の成功作となった「ボヘミアの少女」を初演しました。

この作品の公演は100夜以上を数え、まもなくニューヨーク、ダブリン、フィラデルフィア、ウィーン、シドニーなど、ヨーロッパ中やその他の各地域で上演されました。

1854年には、「La Zingara」と題されたイタリア語版がトリエステで上演されて大成功となり、これもイタリアやドイツの両国で国境を越えて披露されました。

さらに1862年には4幕形式のフランス語版「La Bohemienne」がフランスで上演されました。

1846年から1852年にかけて、バルフェはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めました。ここで、彼はヴェルディのオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演しました。

バルフェはジェニー・リンド(メンデルスゾーンの愛人)がオペラデビューを果たした際の指揮者を務め、その後も彼女と度々共演しました。

1851年、バルフは革新的なカンタータ「Inno Delle Nazioni」を作曲しました。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。「When other hearts」、「I Dreamt I Dwelt in Marble Halls」(「ボヘミアの少女」より)、「Come into the Garden, Maud」、「Excelsior」(ロングフェロー詩)など。

バルフは合計38のオペラを作曲しました。また、数曲のカンタータ(1862年の「マゼッパ Mazeppa」など)、1曲の交響曲を作曲しました。

彼の最後のオペラは、「The Knight of the Leopard」でした。イタリア語版は「Il Talismano」として大きな成功を収めました。

1864年にオペラ界から引退した後、ハートフォードシャーで田舎の屋敷を借りました。

1870年、バルフェは62歳で亡くなり、ケンザル・グリーンに埋葬されました。


*ショパンにまつわるお話*

ショパンは、パルフのオペラをパリのグランド・オペラ座で鑑賞しました。ショパンの姉ルドヴィカがパリ滞在中にはショパンは姉夫妻と共にオペラ・コミック座で、パルフのオペラ「ハイモンと4人の子供たち」を一緒に鑑賞しました。