【『見る』とは何か】
人ってみんな 流れ星みたい
若かりし頃の雅がよく使っていた
お気に入りの言葉。
名刺の裏にも入れてました。
何年経っても、色褪せない。
この一言だけで、生きていける気もする。
人付き合いが苦手で
あんまりどっぷり仲良くするとか好まなくて
ちょうどいい距離で、ちょうどいい関係であればいい。
ほったらかしで
再会した時に
「おぉ、またあったね」
くらいの感じがいい。
なぜかというと、
死ぬ時悲しいから。
年上の人と、仲良くなることが多いから、
結局、みんな先にいなくなるじゃん。
わかんないけど。
憧れの人や、すごいな〜と思う人も
わたしより多分早く死んでいく。
あ〜、なんなんだろうな〜って
思う。
深く傷つきたくない。
流れ星みたいに
キラッと光って
シュッと消える
そのくらいがいい
流れ星は
消えても悲しくないもん
「あっ!」と見つけて嬉しくなって
一瞬で終わる。
そのくらいがいい。
たまたま今日、
「見る」ことについて考えることがあって
思えば昔から
わたしは世界をじーっと
静かに眺めてきたなぁ。
ある時から目力の強さを言われるようになり
写真と出会い
文字通り世界を「見る」こととともに生きてきた。
で、今更思うのです。
「見る」ってなんだ?と
何をもって、どんな風に、何を見てきたのかな、わたしは。
それってほんとに、「見て」いたというのかな。
目の前の存在を
ただその形としてみてきたのか
それとも
心でみてきたのか
たぶん
無意識のうちに、ごちゃ混ぜになって
いろんなものをいろんな風に見てきたんだと思う。
で、何が言いたいかというと
もっと、心で、心というより肚の方で
世界を見ていきたいんだろうな
ということに気づいたんですよ、今日。
なんとなく、溢れる情報に押し流されるのもほどほどに
自分の中の部分で
世界と触れ合っていきたい。
そういうマニアックなところに
わたしは萌えるんだと思う・・・。
海って、こんなにたくさんの顔を持ってるんだ。
並べて初めて気付く。
穏やかな海しか、撮ったことがないから。
もっともっと、無限の顔があるんだろうな。
写真は、さらさらと流れていく水を
手のひらですくうようなもの
そうやって
いろんなものを自分の手のひらで
愛でる作業が好きなんだと思う