「宇田川源流」 「表現の自由」を守るために「国民統合の象徴を焼く演出」を「芸術」という「芸術への冒涜と陳腐化」と憲法解釈ができない人々
「宇田川源流」 「表現の自由」を守るために「国民統合の象徴を焼く演出」を「芸術」という「芸術への冒涜と陳腐化」と憲法解釈ができない人々
この「表現の不自由展」に関しては語る必要がないと思うほどくだらないことである。まあ、不適切な表現であるが「非国民」という単語が最もよくあてはまる。もちろん戦前的な「非国民」という単語もあるのだが、そもそも天皇という存在についてわかっていない。また同時に芸術ということもわかってない。このような人々が芸術を語ることに、芸術家は怒らないのであろうか。
ただし一つだけ言えることがある。
<「表現の不自由展」という展覧会を行うことができるほど日本は「表現の自由にあふれている」>ということである。
嘘だと思うのであれば、中国に行って、公共機関で「表現の不自由展」と銘打って習近平や毛沢東の肖像画を燃やす展示をすればよいし、また、北朝鮮に行って金日成や金正恩の肖像画も燃やして来ればよい。韓国に行って韓国国旗を燃やしてきても構わない。いずれも「芸術」なのであろうから、それくらいのことをしてから「芸術」を語ればよかろう。
単純に自分たちの主義主張だけで、適当な言葉遊びを行い、そのうえで、「権威」を思う内容を過激に対処するような展示を行い、「芸術」という単語を防波堤にしているような「物陰から人を撃つような」ことをしていること自体、はっきり言って彼らの主張はまったく出来が悪い。単純に彼らの主張の矛盾点と、芸術への冒涜と、そして「二重基準」しか出てこないのである。
そもそも「天皇」は「国民統合の象徴」(憲法第一条)であり、その統合の象徴を燃やすという表現がおかしなものではないか。憲法の人権を守るために統合の象徴を燃やすという憲法を守らない状況を作り出していること自体が、全くのナンセンスであり、法的にも非難され、また私的感覚で二重基準を作り出していることに他ならないのである。
まあ、あまり優秀ではない方の考えることというのはこのようなことなのであろう。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の展示再開決定 さまざまな制限から「鑑賞の不自由展」の声も
8月1日にスタートした、ジャーナリストの津田大介氏が芸術監督をつとめる国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」。企画展「表現の不自由展・その後」について、慰安婦とみられる少女像や昭和天皇の御真影を焼き灰を足で踏みつける映像作品、特攻隊を侮辱するかのようなオブジェといった展示物の内容が問題視され批判が殺到。開催から3日で展示をとりやめる事態となり、大きな問題となっていた。
10月7日、翌8日より展示が再開されることが発表され、津田芸術監督はそれを報じた朝日新聞・名古屋報道センターのツイートを引用し
展示を中止していたあいちトリエンナーレ2019内の一企画「表現の不自由展・その後」が明日8日午後から再開します。これに伴い展示の中断変更を行っていた全作家の作品も明日から通常の状態で鑑賞できます。トリエンナーレの会期は10/14までです。皆様ぜひ足をお運びください。
とツイートを行った。津田監督のツイート及び引用した朝日新聞・名古屋報道センターのツイートには展示再開について多くの返信が寄せられていたが、展示再開については賛否がわかれていたようである。
日付が変わって8日、大村秀章・愛知県知事は
①「あいちトリエンナーレ2019」については、国内・海外15組の参加作家が出展を中止していましたが、明日10月8日(火)から参加作家が全員復帰して全面再開することといたしました。また、8月4日から中止していた「表現の不自由展・その後」も、8日(火)午後から再開します。
②安全・安心な運営を確保するため、電凸攻撃、警備対策の強化、入場者の制限、貴重品を除く手荷物の預かり、金属探知機によるチェック、動画撮影の禁止、SNS拡散の防止など、安全面、セキュリティ対策に万全を期した上で、円満な形で、日本最大級の国際芸術祭の完成を目指して参ります。
と続けてツイートを行った。鑑賞についてさまざまな制限があることから、「鑑賞の不自由展」なるワードも飛び交っているようである。
2019年10月08日 01時25分 ガジェット通信
https://news.nifty.com/article/entame/movie/12259-428950/
さて、このような「憲法第一条違反」の展示を、愛知県知事が保護しているというのだからおかしなものだ。そもそも「日本国憲法の地方自治の条文」に従って、選挙によって得られている地位である愛知県知事が、いつの間にか「自分が国家よりも偉いかのような錯覚」を起こし、国民統合の象徴を破壊する行為を指示するというのもおかしなものだ。まあ、このような人を知事に選んだ愛知県民は、日本国だけではなく、世界各国に、国家という秩序を乱したという罪を問われることになるであろう。
今回もっとも言いたいのは「言論の自由」ということの解釈である。
日本語の「自由」という言葉には「Freedom」と「Liberty」の二つが一つの訳語になっている。フリーは気ままさや傲慢さが含意される場合がある。このように「ある程度制約されたところから制約されていないこと」に対比されたものである。しかし、それは当然に「それでも制約は残されている」ということになり、ある程度の秩序や責任、義務を負う自由とされている。一方でリバティはラテン語「liber」の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から左翼自由主義の「liberalism」はこれによることになる。また「liberate(動:解放する)」という単語から、コミンテルン系が使う「解放」という単語の語源になる。
本来「Liberty」は、「勝手」というように訳すべきであるが、残念ながら日本の左翼主義者は本来の日本人の思考とは全く異なることから、あえて善良なる国民を騙す目的もあって「勝手」ではなく「自由」というような呼称を使うことが多い。
しかし、本来「日本国憲法における自由」とは、これは言論の自由に限らず、すべての人権に当てはまるのであるが、日本国憲法が保障しているのであって、他の誰かが保証してくれるものではない。つまり、憲法のある国家である日本国を守らなければ誰も人権などは保養されないということになる。つまり、日本国憲法にある「人権」は「日本国があることによって守られている」ということであり、当然に、条文などになくても「国家を守る義務と責任」が日本国憲法の基本的人権を主張する人には、付されているというように解釈されるべきである。
人権とは「生まれながらにして持っている」などということを言うが、実際に「中国」や「北朝鮮」には存在せず、結局「生まれながらにして持っている権利であっても守ってくれる権力がなければ意味がない」ということになる。「守られるべき」などといっても何の意味もない。その中においてその自分たちを守る権力構造である国家をなぜ傷つけようと思うのであろうか。
その「国家国民統合の象徴」こそ「憲法第一条に記載された天皇」である。これは天皇崇拝とかそのようなイデオロギー的なことではなく(そのような思想が私が保有していないというものではない)あくまでも憲法的な解釈をしたとしても、国家国民の統合の象徴である天皇を尊重することは憲法を守ることであり、なおかつそのことが国家を守ることにつながるとされているのである。
要するに愛知の「不自由展」の人々と、それを擁護している愛知県知事は、それくらいのこともわからないという「優秀ではない状況」であるということである。
まあ、あまり頭の良くない人々を相手にすると、本当に疲れる。