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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄の旅 Day 74 (14/10/19) Visit Gusukus in Itonan 糸満市グスク巡り (糸満市 ③)

2019.10.15 04:36

Kanegusuku Hamlet 兼城集落

Itoman Hamlet 糸満集落 (10/15に記載)

Teruya Hamlet 照屋集落

Osato Hamlet 大里集落

Taketomi Hamlet 武富集落

Kanegusuku Hamlet 兼城集落

2015年の国勢調査によると人口5,382人、世帯数は2,034世帯で比較的大きな字。伝承によると、兼城集落は、もともと”スク幸地腹”という門中 (一族) が住んでいたが、後に照屋グスクにいた波平門中が、南山グスクが尚巴志によって滅ぼされた時に、この兼城の地に移住してきた。移住してきた波平門中は、兼城内の8割を占める程で、もともと住んでいたスク幸地腹門中とは、近世まで犬猿の仲。

Okuma Gusuku Castle Ruins 奥間グスク (見里森グスク、アマングシク)

兼城グスクの東北に位置するグスクで、標高約45mの石灰岩丘陵に築かれている。築城時期や築城者も不明だが、奥間按司が築いたと推測されている。

集落内には沖縄独特の家屋が今でも残っている。

拝所も点在している。

Kanegusuku Gusuku Castle Ruins 兼城グスク

南山系の兼城按司による築城と言われている。兼城集落の北方、標高約30mの丘陵台地の崖沿いに築かれている。住宅街の外れに広場がありそこに火ノ神の祀られた拝所がある。拝所の後方に石積みが確認された。

伝えによると兼城按司はこの後訪問する照屋グスクとは対立していた。尚巴志による南山討伐の際に攻略され、武富 (この後に訪問) に落ち延びたと言われている。

Shimokawa Bungin 下川ブンギン兼城 (下川権現)

兼城ドンドンガマ、スムガーブンギンとも称されている。ブンギンとは漢字で書くと権現。日本で言う権現とは関係が無さそうで、洞窟の中には数基の拝所と墓がある。神秘的な所で、それで拝所にもなっているのだろう。

Itoman Hamlet 糸満集落 (10/15に記載)

幸地腹・赤比儀腹両門中墓 (10/15に記載)

Teruya Hamlet 照屋集落

2015年の国勢調査によると人口2,202人、世帯数は771世帯。

Teruya Gusuku Castle Ruins 照屋グスク (ウチバルグスク、ティラグスク)

頂上に貯水槽がある丘陵がグスクのあった場所。あそこまで頑張って登る。

照屋集落の北側石灰岩丘陵に位置している。南山国の南山城の支城だったとも言われている。別の説はグスクの北側崖下の報得川の河川内に唐船小堀 (トーシングムイ) があることから、南山の貿易倉庫だったと推測されている。まずはグスク跡の東端にある照屋御嶽に行く。ここは大正から昭和の初めごろに集落内にあった拝所や按司墓を移した所で、広場もあり照屋集落の各種行事が行われるそうだ。

ここから無理矢理に雑木林に入いる。グスク跡は太平洋戦争や跡地の貯水槽建設時に多くは破壊されてしまった。何か残っているかと思い林の中を散策してみた。石垣や墓跡らしきものは残っていた。これがグスクの遺構かどうかは不明。

Mukue Bashi Bridge Ruins 報得橋

報得橋は、大里村字稲嶺から西へ流れ、東風平を横切り、東シナ海に注ぐ報得川に架けられた橋。元々は木製の橋が架けられていたが、大雨で傾いたり流されたので毛鴻基 奥平親方安三と童能秀 安仁屋親雲上長義らによって、1732 (尚敬20) 年に石橋が建立された。工事は8月21日から11月1日まで70日の期間で行われ、石工4687名と人夫11868名で完成。と石碑には記されている。沖縄戦により破壊されたが、戦後になって米軍が鉄橋を架け、1957 (昭和32) 年には鉄筋コンクリート造りの橋に改築された。平成3年に橋の改築工事中に遺構が発見されて移築復元。

Osato Hamlet 大里集落

2015年の国勢調査によると人口1,872人、世帯数は608世帯。

Ufugusukumui Gusuku Castle Ruins 大城森グスク (ウフグスクムイグスク、二又グスク、ウンチュウグスク)

南山の支城 (照屋グスク・八重瀬グスク・国吉グスク・真壁グスク等) の一つとされる。大里集落の北方に位置する石灰岩丘陵に築かれている。二つの石灰岩丘陵からなり、東側の丘陵がオトー山 (父山)、西側の丘陵がオカー山 (母山) と呼ばれ、別名二股グスクとも呼ばれる。

まずはオカー山 (イリ[西]グスク) の方に入る。いくつか拝所がある。

頂上からの風景

次はオトー山 (アガリ[東]グスク) に。こちらはオカー山よりも多くの拝所や墓があった。

Kadeshi Ga 嘉手志川

今まで見てきた樋川では一番大きく、そして湧き水で常に流れており、水は透き通り綺麗だ。今でも集落の人々の集いの場となっている。訪れた時は近侍の子供達が水浴びをしていた。この川は三山時代から存在していて、逸話では南山最後の王となった高嶺大里城主 他魯毎 (タルモイ) は、尚巴志から金の屏風と嘉手志川の交換を持ちかけられ、それに応じたとされている。これは後に尚氏が自分達の正統性を増すために他魯毎を愚鈍な王として作った話だろうが、昔はそれ程に大切にされていたと言う事だろう。

金屏風との交換の逸話には続きがあり、それはこの二日後の10/16に国吉グスクを訪れた際に記載している。

ここには更に源為朝伝説がある。この辺りは和解森 (わどきなむい) と言われていた。昔は深い木々に覆われていまそうだが、今は畑になっている。この場所は源為朝が今帰仁村の運天港に流れ着き、南下して住み着いた所。やがて、大里按司の妹と人目を避けて逢引し夫婦の契りを結んだといわれている。その逢引の場所がここ和解森。後に二人の間に生まれたのが琉球初代の王である舜天王と伝わっている。

Ubi Ga うびー川

嘉手志川の目と鼻の先にもガーがあった。

Taketomi Hamlet 武富集落

2015年の国勢調査によると人口2,047人、世帯数は710世帯。

Taketomi Gusuku Castle Ruins 武富グスク

グスクは、武富集落の北側標高約85mの石灰岩丘陵に位置している。地形は北東部は崖状をなし、 北西部は岩の割れ目で断ち切られ、南側はなだらかな斜面で集落に続いている。地元では武富ヌ殿、だきどぅんグスクと呼ばれており、聖域としてのグスクであったろうと推測されている。

入り口を登るとすぐに広場があり、国御火ヌ神 (クニミヒヌカン) の拝所など数基建っている。そこから小道があり殿 (ドゥン) と大殿 (ウフドゥン) がある広場へ通じる。

殿 (ドゥン) がある広場から林の中に入る。中は石灰岩の岩がゴロゴロしており、所々に拝所や墓が見つかった。

Amitabori アミタボーリー

武富集落内の公民館に行くと、やはり馬場跡であったろう広場に出る。ここにも拝所がある。アミタボーリーと書かれていたが、何を意味するのだろう。ここは丘陵地の端にあたり眼下には砂糖きび畑と住宅街が広がる。武富は糸満でも人気の高い住宅地だそうだ。

Muiguwa ムイグワー / Naka nu Ka 中ヌカー / Kaniman Utaki 金満御嶽

集落にはガー (井泉) 跡や御嶽がある。中ヌカー (七色ヌワク神) 金萬グサイ [左上]、金萬御嶽・子方ヌ御嶽 (カニマンウタキ・ニヌフアウタキ) [右上]、ムイグワー御天竺 (ウテンジク) [右下] 

今日はこれで打ち止めにし、那覇に戻る。