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「日曜小説」 マンホールの中で 第四章 2

2019.10.19 22:00

「日曜小説」 マンホールの中で

第四章 2

「誰か、誰かいますか」

 少し奥の方から声が聞こえる。

善之助は正直なところ「助かった」と思った。いや、次郎吉と一緒に話しているのは楽しいのであるが、しかし、このままずっと二人でここで話しているわけにもいかない。とりあえずマンホールから落ちて、怪我をしているし、また、このまま下水のマンホールの中でずっと過ごしているわけにもいかない。やはり「自分がいるべき場所」にいなければならないのである。そのように考えれば、助けがくるのはありがたかった。

しかし、すぐに「ここにいます」とは言わなかった。

自分が助けを求めれば、そこで次郎吉との楽しい時間は終わってしまうのではないか。善之助にしてみれば、もっとも面白い時間であった。何しろ、次郎吉との話は「今まで何も考えてこなかったこと」が、実はいかに大事であるのか、そして考えてこなかったことが人生の多くを損しているほど、認識すれば楽しいことであったのだ。

人生において、もっとも面白い、そして楽しいときは「知らなかったことを知った時」なのではないか。

そうではないという人も少なくない。遊んでいるとき、または女性とデートしているとき、社会の中で出世をした時や何かをして認められ表彰された時、それに、何か勝負をして勝った時。様々な時が「楽しいとき」というカテゴリーの時間に入る。もちろんそれらは楽しい。しかし、その事が自分の楽しさの全てではないことを、善之助自身経験上最も良くわかつていた。それらの 楽しい事は、一過性でありまた、すぐになれてしまうのである。そして、いつのまにか楽しい事が あたりまえになってしまい、いつのまにか楽しくない事への不満につながるのである。

善之助が欲しい楽しさとは、そのようなものではない。老い先が短かいとはいえ、先が決まっているわけではない。逆に、先が短かいと自覚しているだけに失敗は許されない。先に不満の元凶となるとわかっている楽しさは、本物の楽しさではないということをよくわかっているのだ。

 それだけに、本当の楽しさとは「知らなかったことを知った時」「自分が気が付かなかったことを気がついた時」ということをよく知っているのである。実際に、遊んでいるときも何か自分の知らなかった一面を知ることができているし、また、善之助にとって女性とデートしているときも自分の知らない女性の一面を知ることができた。そのほかも、何らかの人間の内容を知ることができたのであり、それがわかってしまうと、今度はわかって居ることが繰り返されなければ不満に思ってしまうのである。

 しかし、「自分自身の中に知ることの喜びを得る」ことが、どれほど重要なのであろうか。それは、他の楽しさに比べて、自分自身の中において感じ、また他人に気づかされたということであっても、その他人を次から必要としない楽しさではないのだろうか。その意味で、次郎吉と会話をしたこの数時間は、マンホールの中にいる孤独感や不安感をすべて吹き飛ばしてしまうほどの喜びにあふれた時間であった。人生で最高とまでは言わないにせよ、少なくとも目が見えなくなってから最も楽しい時間ではなかったか。善之助にとって、レスキューが助けに来たといううよりは、その最も楽しい時間を邪魔された、強制的に終わりにさせられてしまったというような感覚しかないのである。

「おーい、こっちに二人いるぞ」

 そんな善之助の言葉とは裏腹に、次郎吉は、無情にもレスキューに声をかけた。

「こっちってどちらですか」

「こっちだ。こんなところでどうやって説明するんだ」

 次郎吉は、半分笑い交じりに皮肉を言った。

 確かにそうである。善之助にとってはわからないが、実際に、暗いマンホールの中で、なおかつ方位磁石もない状態では、方向の指示などはどはできないのである。

「わかりました。何とかします。何か音を立てていてくれませんか」

 レスキュー隊の言うのももっともである。何か音を立てたり、目印がないと見失ってしまう。向こうはライトを持っているのであろうが、それにしてもどこにいるかわからないのである。

「ああ、わかったよ」

 次郎吉はそういうと、何か近くにある棒でマンホールをたたき始めた。

「爺さん悪いがあんたの大事なお道具を使わせてもらうよ」

 なるほど、次郎吉が使ったのは善之助の落とした白ステッキである。白ステッキは、軽量の合金製である。都会ではもっと質の良いものがあるのかもしれないが、田舎の地方都市であれば、少し古いものになる。それも何年も前のものであるから仕方がない。持ち手には輪になった革のベルトがあり、腕に通して落とさないようにできている。そしてもう片方の先端には、ゴムの台座がついていて、他人に当たっても傷がつかないようにできているのである。

 白ステッキというのは、基本的には地面や様々なものを叩いて使うものだ。それは単に叩いて善之助自身が何か障害物があるかどうかということを認識するだけではなく、叩くことによってわざと音を出し、目が不自由な人がここにいますということを報せる役目も持っているのである。つまり、片方で障害物を探知しながら片方で自分の存在を周辺に認識させるというのがステッキの役目だ。そのためには叩くだけで簡単に音が出なければならない。

 今回、マンホールの中で、マンホールのコンクリートの壁をたたいて、音を出し場所を報せるには、最も適した道具なのである。

「いや、ステッキが役に立つとは思わなかった。しかし、もう次郎吉さんと話ができないのは寂しいなあ」

「何言ってんだ。助けが来たんだ。俺はこのままここにいてもかまわない、っていうか、だいたいこのマンホールの中は俺の住処だから、別に構わんが、爺さんみたいな普通の人が長くいて、鼠の国に染まらせるわけにはいかないからな」

「鼠の国」

「ああ、本物のドブネズミと鼠小僧、いや鼠親父の次郎吉の国だよ」

 次郎吉は、自嘲気味に笑いながら言った。本当はそのようなことを言っていて寂しいのかもしれない。善之助は、ある意味で身勝手な自分の一人よがりの考えを思った。いや、次郎吉もそうであってほしいし、またそうであるに違いない、顔などは見ていなくても、次郎吉はそのような人のはずだ。

 人間の思い込みというものは、ものの見事にそのような身勝手な希望的観測を「思い込み」という言葉で例え、心の中でそれが真実であるかのように自分で錯覚してしまうのである。

 カン……カン……カン・・・・・・・

 先ほどは、水が一定の感覚で水が滴る音が、いつまでこのまま暗い中にいることが続くのか不安になっていたはずだ。しかし、今度は次郎吉の叩くステッキの音が、この暗い中にいた楽しい時間が終わってしまう足音のように聞こえ、寂しい気持ちになってしまっている。

 人間とは身勝手なもので、全く同じシチュエーションの中にいながら、その時の気持ちや次に見える展開によって、全く正反対のことを思ってしまう。電車に乗るときに、乗る前は「もう少し待ってくれ」と思いながら、乗ってしまった瞬間に「早く発車してくれ」と思うのと同じだ。

「私も鼠の国が良いように感じてきたよ」

「爺さん、何言ってんだ。」

 一瞬、次郎吉はコンクリートをたたく手を止めた。

「マンホールの中ってのは、他人様の捨てたもの、水に流したい汚いものだけが溜まっているところだ。そんなところに、爺さんみたいな人が来ちゃダメだろ」

 ガタガタ・ドシャーン

 次郎吉が言い終わらないうちに、向こう側で大きな音が聞こえた。

「引け、ダメだ」

 レスキュー隊は、善之助が落ちたマンホールではなく、他のマンホールから降りてきたのだ。善之助の落ちたマンホールの上では、まだ重篤患者のトリアージや応急措置が行われ、とても動かせる状態ではなかったのである。そこで、レスキュー隊はほかのマンホールを空け、そのマンホールから救出を試みたのであった。

 しかし、地上の爆発や火災による熱、そしてその後の急激な水の流れによってマンホールのコンクリートや、その中に埋め込まれている鉄筋がかなりもろくなっていた。ちょうどその時に、そのうえでビルの壁が崩落し、その勢いでマンホールの穴が崩れたのである。

「大丈夫か」

 次郎吉が大きな声を上げた。マンホールの中は筒状であるから、あまり大きな声でなくても十分に向こう側に声は届く。

「すみません。穴がふさがって」

「こっちは緊急の怪我人はいないから、もう少しゆっくりでも大丈夫だぞ」

「わかりました。それでもこっちみたいにいつ崩落するかわからないので、なるべく早く来ます」

 どうもレスキュー隊の人も怪我をしたらしい。レスキューはそのまま戻っていった。

「爺さん、もう少し二人でいるみたいだな」

 善之助は、次郎吉のその声に何となく喜びを感じていた。もう少し、この空間で次郎吉と話ができる。決して大げさではなく、これからの生きる希望が生まれてきたような感じであった。

「次郎吉さん。もう少し鼠の国について話をしようではないか」

「そうしよう。爺さん」