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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄の旅 Day 76 (16/10/19) Visit Gusukus in Itoman 糸満市グスク巡り (糸満市 ⑤)

2019.10.17 04:36

Maezato Hamlet 真栄里集落

Kuniyoshi Hamlet 国吉集落

今日は午後から雨予報。行くべきか、アパートで過ごすか、うじうじとしている間に昼になってしまった。雨が降った時は引き返せばと思い出発。昨日訪れた集落でグスク跡を見ていなかったので再度訪問。

Maezato Hamlet 真栄里集落

2015年の国勢調査によると人口2,586人、世帯数は1,019世帯。今は字真栄里は海岸地域から丘陵地帯に広がっているが、昔は丘陵地帯に集落の中心があった。海岸の方は田畑であったと思われる。丘陵を降りて農作業をし、終えると丘陵の我が家に帰るという生活であっただろう。

Maezato Gusuku Castle Ruins 真栄里グスク (マエザトグスク、メージャトグスク、サチナカグスク)

グスクの場所は特定できたのだが、グスク内への道が見つからない。グスクのある丘陵の周囲を一周したのだが、入り口らしき所は途中で道がなくなり鬱蒼とした木々に覆われてそれ以上は中には入れない状態。

丘陵は東西に細長く出っ張っており西の端 (写真右上) が主郭で東に二の郭、三の郭が伸びる連郭式のグスクであった。

主郭への木製の階段は立ち入り禁止となって主郭へは行けない。

二の郭、三の郭はロンドン杜公園になっている。おかしな名前だ。英国のロンドン?

ここからは東シナ海への海岸線が見える。家屋は点在。那覇とは風景が全く異なる。

丘陵の斜面にはいくつか亀甲墓があった。城跡への道に通じているかと進むが、朽ち果てた墓跡にしか行き着かなかった。そのひとつは入り口の石積みが崩れ、墓の中が見える。入り口が古そうな石灰岩なので、かなり古い墓と思われる。現在では取り外ししやすいように化粧ブロックが使われている。墓を守る人も耐えてしまったのだろう。崩れた入り口から中を覗いて見た。驚いたことに骨壷が割れて人骨が散乱している。頭蓋骨が二つ。このような形で人骨を見たのは初めてだったので、何か昔の人のプライバシーに踏み込んでいるようで、見てはいけないものを見てしまったようにも思えた。頭蓋骨は小さい、女性かもしれない。もうひとつはもっと小さいので子供だろう。何があったのだろうか? 甕がひとつ。親子が一緒に埋葬されたのかもしれない。骨は風化している部分も多い。このような形で放置されている事に考えさせられる。ここに人骨が放置されていることは多くの人が知っている筈だ。沖縄の墓は中門の墓でその一族の墓で個人所有の物が多い。日本の様に寺が墓所を管理しているわけでもない。沖縄の集合墓地は市町村が管理している所があるが、ここの場合は個人所有で今は所有者不明なのだろう。誰が何かをすればいいのか、多分複雑な課題があるのだろう。人骨がまだ墓の中にあるのだから、せめて、イタズラされない様に行政が入り口を塞ぐぐらいはしていいのではとも思った。

このグスクの歴史が残っている。中北山系の伊波按司の子供が伊波グスクから分家した時、最初は台グスクを築き居城としたが、 その二代目の時に中城グスクを築き移る。(中城は護佐丸が築城したと言われているので、伊波の分家が築城したのはもっと規模が小さかったのだろう。それを護佐丸が本格的なグスクとして築城したと推測) 三代目までは中城グスクを居城としていたが四代目の按司の時に読谷山間切りの護佐丸が中城グスクに入り、四代目の按司はこの真栄里に国替えになり、ここにグスクを築き移ったとされている。護佐丸は伊波按司の流れを汲んでおり、父親は伊波按司の次男で読谷山按司に養子になっていた。それで護佐丸は読谷山按司になり、1416年に尚巴志の北山征伐の軍に合流し、大いに活躍をした。その結果、座喜味城を築城し北の要となる。尚巴志の妃は護佐丸の叔母の伊波按司の娘で婚姻で関係を強めていた。勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大すると、尚巴志は1430年、中城の地領を護佐丸に与え、築城を命じた。息子の尚布里を江洲、尚泰久を越来に置き、勝連を牽制。1440年、尚忠が第3代国王となると、護佐丸は王命で中城城に居城を移した。この時に伊波按司の分家がこの真栄里に国替えになったと思われる。

London Gama ロンドンガマ

ロンドン杜公園にガマ (洞窟) 跡がある。ロンドンガマと言う。このガマに関しての伝承では、昔、このガマに漂着者が住み着いており、漁に関する技術が巧みで地域の人からは「海やからー」と呼ばれていた。この男に村一番の美女が恋をし、このロンドンガマで逢瀬を重ねた。嫉妬した村の青年たちがこの男を殺そうとするが幾度となく失敗し、嫌がらせに歌にして恋路の邪魔をしたという。その歌が、エイサーでも踊られる「海ヤカラ」という曲で今でも歌われているそうだ。このガマの事を調べていて、ロンドンの謎が解けた。このガマはかつてはドンドンガマと呼ばれたが、時を経てロンドンに変わったのだと言う。英国のロンドンとは関係は無かった。


Chin Gusuku Castle Ruins チングスク

真栄里グスクから真栄里集落を通り反対側の村の丘陵の端にこのグスクはある。城塞としてのグスクではない様だ。相当な数の拝所があった。見つけただけでも14ヶ所にあった。全ての道をまわった訳ではないので、実際にはもっと多いと思われる。村の拝所としてのグスクであろう。各拝所への道は整備されている。コンクリートで道を固めているところもあれば、昔に造ったのだろうが、石垣で道端を固めている所もある。現在でもこれ程までに綺麗に整備されていることから、現在でも集落の拝所として大切にされているのだろう。

Shiraume Memorial Monument / Machidou nu Tira 白梅之塔 / マチドームティラ (10/15訪問)

沖縄県立第二高等女学校の4年生 (現在の高校1年生) 56名からなる学徒隊の一部16名の最後の場所である。6月4日に八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、数名ごとの班に分かれ八重瀬岳を去った。ある班は地上戦に巻き込まれてなくなり、他の16人の学徒がたどり着いたのが、上の壕、下の壕と呼ばれたここ真栄里の自然壕。上の壕は食糧弾薬倉庫、下の壕は傷病兵の看護場所で、学徒らは負傷兵の手当てを手伝った。6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受け、ここに移動してきた学徒16名の内10名が犠牲となった。56名のうち22名が犠牲となったので、この真栄里之10名の犠牲者は多い方である。この白梅之塔には学校関係者149人が合祀されている。


ここにある下の壕 (傷病兵の看護場所) で自決。

上の壕 (食糧弾薬倉庫) ここで看護隊の女性たちが仮眠していた。

6/17にはここで戦闘を行っていた第32軍歩兵第22連隊は全滅しており、6/21-22にはこの地は完全に米軍の占領下にあった。もう逃げる場所もほとんど残されていない状況。絶望感でいっぱいだっただろう。

敷地内には国吉住民が建立した「萬魂之塔」がある。

白梅学徒隊が配属されていた八重瀬岳の24師団第1野戦病院には9/16に訪れた。レポートは八重瀬城についてのみ書いていたが、八重瀬岳の24師団第1野戦病院には触れていなかったのでここで書いておこう。昭和19年 (1944年) 10月10日の沖縄大空襲 (十・十空襲) により沖縄県立第二高等女学校の校舎は完全に焼失し、以後、生徒たちは仮校舎で勉学に励み、昭和20年2月から国の命令で四年生の看護教育が始まる。3月6日、56名の四年生が従軍補助看護婦として、東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊し、教育が始まるも、3月24日、米軍の攻撃が激化し、看護教育は打ち切られ、八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院 (山3486部隊) に配属。(25日に3名、27日に9名が除隊となり、46名の生徒が入隊)。校章の梅から白梅学徒隊と呼ばれた。6月4日、米軍の猛攻により第24師団第一野戦病院は南部へ後退することに決まり、白梅学徒隊は解散となり、46名の生徒たちは数名ずつに分かれて南部へと逃げる。この逃避行中に多くの犠牲者を出し、国吉に後退した第24師団第一野戦病院壕に迎えられて勤務を続けていた生徒たちも6月21日から22日にかけての米軍の猛攻によって犠牲となる。46名の生徒のうち22名が戦死。

白梅の塔の近く数十メートルの所には別の慰霊碑がある。

沖縄や海外諸地域にて戦没した山形県出身者四万余柱の諸霊が祀られた山形の塔

眞山之塔 (みやまのとう) 第24師団雨宮中将率いる各部隊100余名を祀る慰霊塔

歩兵第32連隊終焉の地

Tower of Eiri 栄理之塔 (10/15訪問)

先に訪れた白梅の塔からそれほどの距離では無いところにこの慰霊碑がある。ここは激戦地となった場所。ここに陣を張った第32軍の左翼第1部隊の歩兵第22連隊は昭和20年6月17日に全滅した。米軍の第10軍司令官バックナー中将もこの地で戦死した。終戦後、真栄里地区の住民がこの地に散乱していた遺骨を集め、この塔を昭和27年3月に建立した。

この近くには上の石碑文にある米軍のバーグナー中将の慰霊碑もある。見落としてしまった。ここが両軍の激戦地だった。

Maezato Stone Lion 真栄里 石獅子 (10/15訪問)

Kuniyoshi Hamlet 国吉集落

2015年の国勢調査によると人口545人、世帯数は183世帯。国吉は真栄里から丘陵を更に内陸部に入り、別の丘陵にある。

Kuniyoshi Gusuku Castle Ruins 国吉グスク (クニヨシグスク、クニシグスク)

南山城跡の南西方向に約700mの琉球石灰岩丘陵上に築かれたグスク。南山王他魯毎 (たるみぃ) の家臣である国吉大屋子 (うふやく) が築城。国吉大屋子は南山滅亡の一因となった「嘉手志ガーと金屛風の交換」の時にこれに反対し、時の南山王 「他櫓毎」に忠告したために閉門を言い渡されたと言われている。個人的にはこれは作り話ではないかと思われる。嘉手志ガーは南山城の目の前にある。どれほど愚鈍か横暴な国主であっても、自分の居城の前の貴重な水場を敵に渡すとは思えない。この他にも国吉大屋子には逸話が残っている。先程出てきた中城グスク の城主護佐丸の子「盛親」をかくまい養育したと伝えられている。グスクの遺構の保存状態も良く、石垣も多く残っており、城の構造がわかる。

拝所と井戸跡

石積みや石垣が多く残る

Kuniyoshi Stone Lion 国吉守護獅子

この獅子は補修復元がされていて、形がはっきりとしている。おそらく、昔の形を出来るだけ再現していると思う。愛嬌のある顔立ちだ。この石獅子も火返し (ヒケシー) のために火山の八重瀬岳を睨んでいる。

今日は2度、雨に降られたが幸いにも大雨にもならず、雨宿りの場所も確保出来たので、ほとんど濡れずに走れた。午後からの出発だったので2つだけの集落訪問で今日は終了。