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進化を求めて・競争から共生へ・恕・

2019.12.16 06:17

美しい日本の仏像@j_butsuzo

【奈良・金峰山寺/蔵王権現(江戸)】役行者開山の寺院。日本最大秘仏とされ、中尊の像高728cm両脇の像も6m前後という迫力ある秘仏。以前は33年に1度とされて来たが大震災の祈念を込め、1年に1度開帳されるようになった。山岳信仰


コメントのやり取り

五島高資  ご導師と一緒に礼拝する体感的経験はとても貴重でした。忿怒の相に「恕」が込められているということに感銘しました。


ラピスラズリは瑠璃光、薬師如来を連想させますね。恕は癒しそのものということでしょうか?


五島高資 はい。恕は思いやりかと。孔子も重要視しましたね。


facebook・比嘉 眞紗子さん投稿記事·

生徒から【神】と呼ばれ、生徒から人気の先生のクラスが崩壊。引き継いだ先生は崩壊したクラスを立て直せず休職。自由をはき違え、叱る、諭すことの無い世界の縮図。


https://www.kinpusen.or.jp/niomon/index.html   【金剛蔵王権現】

金峯山寺にお祀りされる御本尊は、金剛蔵王大権現であります。今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳に役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われるという意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)=中尊、千手観音(現在世)=右尊、弥勒菩薩(未来世)=左尊が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました。また金剛蔵王とは、金剛界と胎蔵界を統べるという意味も表しています。

煩悩とは何でしょう、まみれないためにはどうすればよいのでしょう?

もしかして煩悩とはエゴのことではないでしょうか?

エゴは競争原理に則り、エコは共生原理に則った世界 そんな世界を生むために私たちは 命を選んだのではないでしょうか?

上の図って正カバラと対応してるんでしょうか?


多分関係ないと思います。カバラはユダヤ教と関係していますよね。創世記の創造物語は人間をトップに記し、すべてを管理するように勧めていますが 階層は違っていますしね。


3段目が月詠(ミダス王)天照 素戔嗚の様に感じたので。すみません勘違いでしたね。むしろヒンドゥー教のカースト制度の方でしたね。 左は天照が月詠を見て素戔嗚と背反するけど。右だと素戔嗚と天照が向かい合ってる、面白い 


良く学んでおられますね。私にはよくわかりません。豚が月詠(ミダス王)で 犬が天照、 牛が素戔嗚~~~ということでしょうか 


ミダス王の亡霊(拝金主義)が取り憑いてしまったと言うべきかも知れないです。青い一角の馬(月詠)が豚に。白いオオカミ(天照 )牛頭天王(素戔嗚尊)すみません直感だけで言ってます。鵜呑みにはなさらないでください。


エゴと呼ばれるもの、亡霊というか、価値観というかそんなエネルギーが世界を支配しているからかもしれませんね。 


確かにそうですね。願わくば右図に向かっていって欲しいですね。 


同感です。 


すごい感性ですね。


ありがとうございます。この絵も相当考え尽くされて描かれてると思います。分からないものもありますが対立と統合の構図。 


そうでしたか。私はただGとCの違いで 描かれた世界が面白くてシェアしました。


音、ソとドの違いとも言えますね。252hzと204hzカバラで6と9の違い。


成程。基音が上がれば上昇志向になるということでしょうか? 

競争原理 。低音になるほど共鳴しやすくなりますしね。 


成る程!もっと深く考察してみたいですね。面白い。正に遊びをせんとやあわれけむ。 


旅を楽しみたいですね♪

慈愛マスター@TOMMYEL77

この地球で最も進化している存在は 他の生物を妨げることなく成長し ただただ無条件の愛を 私たちや地球に与え続けてくれている 植物達かもしれませんね with LOVE


中学生の時に作った不動明王(石板)です。皇紀2641年と記されているので昭和56年(1981年)の製作です。

コメントのやり取り

皇紀ってのが秀逸ですね。何度も日本人をやっているようですね。(^^)v

五島高資 ありがとうございます。何かそのようです。まさに摩訶不思議ですが(大笑心)

他には薬師如来、十二神将、金剛薬叉明王などもありますが、今となっては自分でも何で作ったのか不可思議です。

それは凄い、また見せて下さいね♪\(^o^)/

五島高資 すべて故郷の五島にありますが、いまどうなっているか不明です。帰省した時に確認してみます。

今気づきましたが、1月28日は初不動と三宝荒神の縁日ですね!! それから『泣不動縁起絵巻』には安倍晴明と式神が描かれていますね!! しかも絵巻は浄土宗大本山清浄華院が所有しているようです!!

日蓮宗では三宝荒神は普賢菩薩なんですが、8の日は縁日が多いですね。鬼子母神か8日、観音さんが18日、末広がりかなと思うておりますが_(._.)_

本地垂迹 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹 - キャッシュ

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。 ... また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。 本地という思想は、仏教が ... この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。 これに対し、垂迹という思想 ...

加持身とは?   出典 三省堂大辞林 第三版 

①密教で修行者が三密の修行をして仏と一体化した時、修行者のなかに現れてくる仏身。

② 新義真言宗で、大日如来が、利他のためにとる形態。 ⇔ 本地身

http://www8.plala.or.jp/konjouin/oshie.html  

真言宗の宗祖・弘法大師が伝えてきたものは、ご存じのとおり「密教」の教えです。この「密教」の教えとは何でしょうか。弘法大師は、その特徴を密教以外の仏教すなわち「顕教」と対比することにより明確にしています。その中で、最も分かりやすい特色が、悟りに至る考え方です。つまり「顕教」では悟りに到達するまでに、何代にも渡って生まれ変わり、気の遠くなるような時間を要するとしているのに対して、「密教」では今ある肉身のままで直ちに悟りに至ることができるとしています。 ここでは、こうした弘法大師・空海が説かれた「真言密教」の教えについてご紹介します。

 

■この身このままで仏になる--------即身成仏

 

私たちは死者に対して「迷わず成仏してください」と祈ります。この「成仏」とは文字どおり「仏に成る」ことです。では、「仏に成る」とはどういうことかといえば、迷いのない心で真理を知ること、つまり悟りの境地に達することであり、その境地に達した仏がいるという安楽の世界、即ち極楽浄土に往くことをいいます。当然のことながら、成仏することは難しく、顕教の場合は何代にも渡って生まれ変わり死に変わりながら、 無限ともいえるような歳月を費やして修行することが必要としている程です。 しかし、弘法大師は、全ての人間がもともと仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、 修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏することができると説いています。これが真言密教の根幹ともいえる「即身成仏」説です。

 

■真理をそのまま人格化した法身・大日如来の教え--------法身説法

 

「顕教」も「密教」も元は同じ仏教ですから、例えば「成仏」という考え方に代表されるように、教えそのものに相違があるわけではありません。ただ、対象とする仏教の教説が同一でも、これをどのように受け止めるかによって大きく異なり、一説では教説を表面的に捉えたのが「顕教」であり、さらに一歩踏み込んで教説の本質を捉えたのが「密教」であるとしています。

「即身成仏」の「即身」は、 まさに一歩踏み込んだ姿勢を表すものといえますが、この大胆ともいえる教えを、弘法大師はどうして説くことができたのでしょうか。それは「顕教」が、応化身(おうげしん)すなわち歴史的人物である釈尊の説いた教えであるのに対して、「密教」は、法身(ほっしん)すなわち普遍的な真理である法を、そのまま人格化した大日如来の直接の説法であるとしたところにあります。つまり、弘法大師は釈尊の教えを超え、釈尊の悟りを成り立たせる真理そのものを仏(法身)として、教えの主体にしたわけです。

 

■身体・言葉・心を仏と一体化する--------三密加持

 

真言密教の修行を「三密」の行といい、修行が目指すものを「加持」といいます。 この「三密」についてですが、仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼んでいます。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。

また、「加持」については『即身成仏義』の中で、次のように記されています。「加持とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」つまり、「加持」とは、人々の苦を憐れみ救おうとする大日如来の慈悲と、人々の信心とを表しており、あたかも太陽の光のような仏の力が、人々の心の水に映じ現れるのを「加」といい、 修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「持」といっています。

このことから「三密加持」とは、自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくことをいいます。 弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いています

 

■あるがままに自らの心を知る--------如実知自心

 

弘法大師は、悟りとは何かという点についても説き明かしています。経典である「大日経」の中には「云何(いかん)が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」と記されており、「悟りとは何であるかというならば、あるがままに自分の心を知ることである(語訳)」と説いています。 私たちは、悟りといえば、 ごく限られた者だけが到達することのできる遠い彼方を想像しがちですが、弘法大師は、自らの心をあるがままに知ることであると教えているのです。

人は、ともすると弱者を思いやることを忘れ、自らを戒めることもなく、耐え忍ぶことを知らず、怠惰に過ごし、その結果として悩み、迷っています。弘法大師は、自らの心に目を向け、汚れた心を知り、省みることが大切であるといっているのです。 これが、真言密教の「如実知自心」という教えです。因みに「如」という字は大日如来の「如」と同じ意味であり、「如来」とは、「あるがままに、あるが如く、 世の中を見る仏の世界から来る」仏様という意味です。

 

☆ ☆ ☆

 

弘法大師は、「六大」すなわち「地大」「水大」「火大」「風大」「空大」「識大」という、六つの根源的なものが宇宙の万物を構成しており、仏も人間も本質的な差はないと説いています。 また私たちが眼にしている現実の世界は、法身である大日如来の現れであるから、現実はそのまま絶対であるとも説いています。つまり、仏も人間も根源的なものは同じであり分かちがたいものであるから、大日如来の慈悲を固く信じ、悟りを求める心をもって仏と一体化できるよう努力をすれば、迷いから脱して真理を知ることができると教えています。

梵字より生るる不動や銀杏散る  五島高資

ゆく道に曼珠沙華咲く不動かな  高資

 浄土宗大本山・清浄華院