~ショパンの肖像、~ポーランドの英雄ソヴィンスキ~
ヨーゼフ・ソヴィンスキ(1777–1831)
ポーランドの大砲将軍、1830年11月のポーランド蜂起の英雄
ユゼフ・ソヴィンスキは、1777年3月15日にワルシャワに生まれました。
ワルシャワの士官学校を卒業後、コジオスコ蜂起(1794)に士官候補生のポーランド軍の中尉としてワルシャワ隊で参加しました。
ソヴィンスキの連隊は、抑圧と隣国によるポーランドの解体の後、プロイセン軍に徴兵されました。
1807年に彼はアイラウの戦いで戦い、プロイセンの最高の軍事的装飾であるプール・ル・メリテを受け取った。
しかし、ワルシャワ公国がナポレオン・ボナパルトによって宣言された後、1811年にソウィスキはポーランド軍に戻りました。
彼はナポレオン戦争のさまざまな戦いで戦った。ロシアのナポレオンの侵攻(1812年)、モジャイスクの戦いで彼はで足を失った。彼はウォジェニーヴィルトゥティミリタリ勲章(軍事的美徳のための1792年にポーランド王スタニスワフ2世によって8月に作成された、現在も使用されている世界最古の勲章)とレジオン・ドヌール勲章を受賞しました。ウィーン会議の後、彼はポーランドに戻り、ポーランド軍のワルシャワ兵器庫の司令官を務めました。1820年に彼は役員のための応用学校の指揮官になりました。
1830年のロシアに対する11月の蜂起の発生後、彼は当初は、学生の急速な転落とロシアからの弾圧を恐れて、学生の参加を阻止しようとしましたが、蜂起が進展すると、ワルシャワ駐軍の指揮官の地位に就きました。ソウィスキは砲兵指揮官になり、政府戦争委員会(事実上の戦争省)の長になりました。1831年9月6日のロシアのワルシャワ攻撃中、ソウィスキはポーランドの首都の西側アプローチの英雄的な防衛を指揮しました。現在のウォラ地区(彼は11個大隊約1万1千人のロシア軍に対してポーランド軍1,300人を擁しました)。
彼は謎の死を遂げましたが、最近の歴史家によると、降伏交渉の直後、彼はロシア人によって銃殺されて死んだと公表されました。
***ショパンエピソード***
ソヴィンスキ将軍の死はポーランドの詩人たちによって書かれた11月蜂起の詩により不滅となったと言われています。
その中の詩人には、ソヴィエンスキ・ウォ・コパチ・ウォリ、そして、ショパンの婚約者と噂されたことがあったマリア・ウォジスカの本命の恋人でスイスにマリアと一緒に旅行した(1834年)ポーランド詩人のジュリウス・スウォヴァツキが含まれています。
ショパンにとって、ソヴィンスキ将軍は大切な存在でした。ショパンはソヴィンスキ将軍の妻であったカタルジナ・ソヴィンスカのサロンを度々訪れていました。
カタルジナ・ソヴィンスカ夫人は11月蜂起後もポーランド夫人の愛国慈善同盟を結成し、11月蜂起参加者の家族を助ける活動をしたため、ソヴィンスキ夫人は、ロシア軍によって、1835年から1837年投獄されました。
ソヴィンスキ夫人はショパンの家族と親交がありました。
ショパンは≪スイスの少年の主題による変奏曲≫をソヴィンスキ夫人に献呈しました。
ショパンは手稿譜に「フレデリック・ショパンよりシュレーダー家出身のソヴィンスキ夫人へ」と献辞を書いて捧げたと言われています。しかし、その手稿譜は、その後、オスカル・コルベルク(ポーランドの民族学者)によるメモ書きがあるとされるようになりました。
コルベルクによると「1852年ソヴィンスキ夫人から受け取ったこの曲は芸術アカデミーに寄贈する。1874年コルベルク」また、「ヘンリエッテ・ゾンタークの演奏会(1030年)でこの歌を聴いたソヴィンスキ夫人がショパンに所望してショパンが直筆で書いた」とコルベルクが書いたが、ショパンはそれ以前の1829年以前に作曲しているとフォンタナへの書簡で証明されています。また、このコルベルクが提供した手稿譜は誰の手によるものか不明とされています。しかしながら、ショパンは自分の手稿が盗まれることをいつも懸念していたため、自分でも幾つもの手稿を書いたり、弟子に幾つも写しを書かせていました。そして、ワルシャワの妹や姉に自筆譜を送ったこともありました。
オリジナルのショパンの自筆譜の裏には当初、ソヴィンスキ夫人の手書きで「ありがたく頂戴します。」と残されていた記録があるそうです。
ショパンがウィーンへ行った当初は、出版商人のハスリンガーがショパンを見下し、この曲を出版できませんでした。1841年9月になって、ハスリンガーが出版したいとショパンに申し出ましたがショパンはそれに応じませんでした。
結局はショパンの死後1851年に出版され、出版に際してソヴィンスキ夫人への献呈は印刷されませんでした。
ショパンはソヴィンスキ将軍が捕虜となったことをウィーン滞在中に知って嘆きました。