HakoniWa戯言Vol.21 HakoniWa的社会の考察ー後世への最大遺物を考えるー
「生きる目的(意義)」=「生きる」×「目的(意義/意味)」
=「愉しみ(自分なりの楽しみ)」×「方向性/ベクトル」
=「愉しみ」×「志(後世への最大遺物としての社会、その形成に貢献する)」
=「HakoniWa-ガストロノミ」×「ビジョン×意思」
=「HakoniWa-ガストロノミ」×「ビジョン」×「意思(生きる意義の模索として、社会において何らかの役割を果たしたい)
=「HakoniWa-ガストロノミ」×「ビジョン(社会とは後世への遺物たる最大のものである)」×「意思(生きる意義の模索として、社会において何らかの役割を果たしたい)
ビジョン=後世への最大遺物とは社会である
意思=その社会の形成において何らかの役割を担いたい、貢献したい
ここでまず、ビジョンからその考察を深めていく
内村鑑三著の「後世への最大遺物」から、そのキッカケをもらったが
同著には、後世への最大遺物はその高尚なるなる生涯である、という結論であったと
認識している。
そこへ、私なりの考えを加える。
いかに、高尚なるものであっても、それが個別というか、個々に存在するだけでは
それが最大と呼べるだろうか?
ともすると独りよがりなものにならないだろうか。
平々凡々なる一個人(私です)からすると確かに、残し得る最大のものはその生涯であると同意する。
しかし、ヒトは決して一人で生きているわけではない。
ヒトの営み(生涯)の集合と集積が社会であると考える。
ヒトの営み”ある”ところに、そこにはその相互関係と集積がかならず”ある”。
社会とはヒトの営みの集合(相互関係)と集積である。
その「高尚なる」意義を、その社会へと帰結することができれば、つなげることができれば
それこそが、まさに最大遺物と成るのではないかと考える。
では、そこでいう「社会」とは実際、なになのか?
それは、主観的な視座から考える。
この、平々凡々たる私自分自身の社会的立場で最大のものはなにか?
すでに、自分自身が置かれている立場で、最大のものはなにか?
それが国民であるという事実ではないか、と考える。
つまり、平々凡々たる個人(現代に生きる個人)にとって、後世への最大遺物たるものは、その生涯であり、それは社会へ帰結するものであり、その場合の社会とは国・国家である。
それはなにも、お国のために滅私奉公としよう、とかそういうのではない。
私はこう考える。
我々、ヒトは一人では生きられない。
つまり、社会はそこに必ず存在するのであって、ヒトの営みには、「私」的なものと「公」的なものがある。
「私」も「公」もともに、大切なもので、車の両輪みたいなものではないか。
そのバランスと、両方の充実が大事なんではないか、と考えるわけである。
それは、一個人の生涯の中でバランスを取るのか、社会を見てバランスを取るのかは、また考える余地があると思うが…
(私個人的には、今、そのバランスは「私」のほうにばかり重きが置かれているのではないかな、と考えるわけです。「私」ばかりに重点を置くとかえって「私」の充実が阻害されてしまうようなことにならないかと懸念するわけです。)
その社会の要石みないなものが、国・国家ではないかと考えるのです。
個人、を個人足らしめているのは国(政府)であり、その個人(国民)の主権の及ぶ
最大のものが国家であり、世界(国家間、国際的)に発言、対話をするのは国家という単位が最重要視されている。
(もちろん、グローバル資本やその他の非政府間の交流等も存在するが、そこにも国家間により規制されることはあると思うので)
個々があまねく、その主権を有する、というところではやはり、国家という単位が最大であると考える。
この「公」と「私」、も相乗的関係にあると考える。
「私」としての充実やその方向性は各々の全くの自由のあるところだと考える。
「公」なきところの「私」の追求は、北斗の拳の世界である。
「公」と「私」がともにあり、ともに充実してこそ、お互いの豊かさが実現されるのではないかと考える。
「公」と「私」をともに、楽しむ、愉しむことが大切であるな、と思うのです。
同じ楽しむ、愉しむと表現しても「公」と「私」に対するものでは、その考え方、捉え方、方法はそれぞれに全く別ものになるとは思いますが。
今日の戯言はこのあたりで…