チャップリン監督・主演『殺人狂時代』
あの山高帽にちょび髭の
スタイルをかなぐり捨てて描いたもの
123時限目◎映画
堀間ロクなな
チャールズ・チャップリンは『殺人狂時代』(1947年)について、自伝のなかでこう記している。「(公開初日の客席の様子に)わたしはだんだんがっかりした。もはやこれ以上いたたまれないような気持だった。(新妻の)ウーナにそっと耳打ちした。『ロビーにいるからね。これはもうやりきれない』彼女はわたしの手をぐっと握った。(中略)しかしわたしは、いまでも『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」(中野好夫訳)――。
だが、本人にとってはなはだ不満だったらしい観客の反応も、やむをえなかったのではないか。というのも、長年にわたり広く親しまれてきた山高帽にちょび髭、ステッキ、だぶだぶのズボン、ドタ靴という「チャーリー」のスタイルを初めてかなぐり捨てたのだから。当然ながら興行収益上のリスクをともない、結果的にチャップリン映画では唯一の赤字を記録したといわれている。それでもあえてトレードマークの扮装と訣別した理由は、ズバリ、死を描くためだったろう。この『殺人狂時代』では哲学的な殺人犯の死を、つぎの『ライムライト』(1952年)ではみずからを投影した喜劇人の死をテーマにしている。どちらも従来の主人公では表現できないものだ、社会の底辺をさすらう「チャーリー」はそれゆえに不死身だったのだから。
20世紀初頭のフランスに実在した連続殺人犯をモデルとして、元銀行員ムシュー・ヴェルドゥーがオールド・ミスと結婚しては殺して保険金をせしめるという悪行を重ねた末、ギロチンにかけられるまでのストーリーは、もはや多言を要すまい。まさに「チャーリー」とは正反対の役柄を自分と同じ57歳に設定して、チャップリンは終始、不敵な笑みを浮かべて演じている。そのクライマックスが、処刑を前にヴェルドゥーが獄中で交わした三つの対話であることは、このシーンから全編の撮影が開始された経緯からも明らかだろう。
●第一の対話●
新聞記者が取材に訪れて「君は罪の人生の悲劇的な手本だ」と語りかける。ヴェルドゥーは「こんな罪悪の時代にはだれも手本になれませんよ」と応じる。「君は殺人を重ね、金を奪っている」「ビジネスです」「世間ではあれをビジネスとは言わんよ」「大きなビジネスの歴史をご覧なさい。戦争、闘い、すべてビジネスです。一人殺せば悪党で、百万人だと英雄になる、数が殺人を神聖にするのです」
●第二の対話●
ついで、告解のためにやってきた神父にヴェルドゥーのほうから尋ねる。「何か、私にできることが?」「君の力になりたい。神との平和を祈らせたい」「私と神とのあいだは平和です。人間と戦ったのです」「罪を悔いていないのか」「罪とは何です。堕ちた天使から生まれるのですか。究極の運命をだれが知っています? 罪がなかったら、あなたは何をします?」「いましていることをする。迷える魂の悩みを救おうとする。かれら(死刑執行人)が来た、君のために祈ろう」「どうぞ。だが、かれらは待たされたくないようですよ」「神よ、汝の魂にお恵みを」「当然です、魂は神のものです」
●第三の対話●
看守がタバコを示すと、ヴェルドゥーは「けっこう」と断る。ついで差し出してきたグラスに「それは?」と問い、相手が「ラム酒」と告げると、「いらない」と答えかけてから、「いや、待て。ラム酒は飲んだことがないんだ」と受け取り、ひと口に飲み干してギロチン台へ向かう……。
チャップリンの映画はどれもラストシーンが念入りにつくられているけれど、そのなかでも出色の出来栄えではないだろうか。社会における死、信仰における死、個人における死――、それらの皮肉な実相を暴いてあますところがない。死をめぐる対話として、わたしはプラトンが師ソクラテスの最期を描いた場面にも匹敵するように思う。そして、ここに披瀝された哲学によって、チャップリンは5年後にハリウッドを追われることになる。レッドパージの嵐が吹きすさぶアメリカの野蛮は、紀元前5世紀のアテネと変わるところがなかったのである。