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「宇田川源流」 NHK大河ドラマ「いだてん」がついに4%割れという「日本人は大河ドラマに何を求めているのか」

2019.10.22 22:00

「宇田川源流」 NHK大河ドラマ「いだてん」がついに4%割れという「日本人は大河ドラマに何を求めているのか」

 来年に向けて、なんとなく大河ドラマのことが多くなってきている。来年の大河ドラマ「麒麟がくる」という、明智光秀を主人公にした大河ドラマに非常に期待感が高まっている。昨年が「西郷どん」ということで幕末であったし、その前は「直虎」で、戦国時代といってもかなり狭い範囲の話でしかなかった。そのように考えた場合、やはり「スケールの大きい戦国時代」の話に期待している人が少なくなかったのではないか。

日本人、特に歴史好きの人々は「戦国時代」が好きである。「戦国時代」というのは、まずは何よりも実力次第でのし上がることができた時代だ。実際に、織田信長であっても、守護大名ではなく、守護の斯波氏の尾張の守護代、つまり、現在で言えば副知事くらいでしかない。もちろん、副知事といえばかなり偉いのであるが、しかし、その人が他の国を従え、天下に覇を唱えるようなことになるとは全く思っていなかったはずだ。ましてや、当時身分がしっかりとあった時代に、豊臣秀吉のような農民出身の人が天下を統一するなどということは全く考えなかったはずだ。

当時、管領、守護という室町時代の支配階級が、そのまま江戸時代に大名として残ったのは、島津家くらいではないだろうか。例えば、秀吉の時代の「五大老」である徳川も上杉も守護代でしかない。そもそも双方ともに元の苗字とは全く異なる家になってしまっている。また、宇喜多も毛利も前田も、いずれも守護ではない。幕末に活躍する鍋島であっても、少弐氏や菊池氏の支配地域の地侍で戦国時代には竜造寺家の被官である。このように考えれば、鎌倉時代以来の名家などはほとんど残っていないし、実力次第で運命をつかめる状態であった。

二番に人気のある「幕末」も「下級武士が幕府や大名を打ち破る」ということである。日本人は、「実力次第で下の身分の人が上の身分の人を凌駕する」ということをドラマの中に求めている。現実の世界がその通り行かなかったり、あるいは実力でだけではなく運などが足りないということから、少なくともドラマの中に自分を投影する。

そのような中で、やはり、その「求めているもの」とは異なる内容の大河ドラマが今ひとつ振るわないようである。

「いだてん」また大河歴代最低更新3・7% ついに4%割れ ラグビーW杯・日本戦が裏で…

 NHK大河ドラマ「いだてん 東京オリムピック噺(ばなし) 」(日曜後8・00)の第39話が13日に放送され、平均視聴率は3・7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが15日、分かった。日本初の決勝トーナメント進出が懸かった裏番組の日本テレビ「ラグビーW杯 日本×スコットランド」(後7・30?9・54)が平均39・2%と高視聴率を記録したため、第32話(8月25日)の5・0%を1・3ポイント下回り、自らの大河ワースト記録を再び更新した。

 初回(1月6日)=15・5%と好発進しながら、第6話(2月10日)=9・9%と1桁転落。以降、34回連続の1桁と苦戦している。

 この夜も裏番組にラグビーW杯・日本戦がありながら、放送終了15分後の午後9時の時点で「志ん生」がツイッターのトレンド入り、「美川」「圓生」「小松勝」がYahoo!リアルタイム検索の上位に。毎回、複数の関連ワードでインターネット上が賑わい、Yahoo!テレビの星取りも平均3・76点(5点満点)(15日現在)と高評価だが、リアルタイムの世帯視聴率には結び付いていない。

 今月20日に予定していた第40話は休止。当初、BS―1で予定していたラグビーW杯準々決勝「日本×南アフリカ」(後7・10?9・50)を地上波・総合テレビで放送する。第40話は27日に変更。最終章「1964年東京五輪招致編」に突入する。

 歌舞伎俳優の中村勘九郎(37)と俳優の阿部サダヲ(49)がダブル主演を務める大河ドラマ58作目の「いだてん」は、1986年「いのち」以来33年ぶりの“近現代大河”。2013年前期の連続テレビ小説「あまちゃん」で社会現象を巻き起こした脚本家の宮藤官九郎氏が大河脚本に初挑戦し、オリジナル作品を手掛ける。20年の東京五輪を控え、テーマは「“東京”と“オリンピック”」。日本が五輪に初参加した1912年のストックホルム大会から64年の東京五輪まで、日本の激動の半世紀を描く。

 勘九郎は「日本のマラソンの父」と称され、ストックホルム大会に日本人として五輪に初参加した金栗四三(かなくり・しそう)、阿部は水泳の前畑秀子らを見いだした名伯楽で64年の東京大会招致の立役者となった新聞記者・田畑政治(まさじ)を演じる。「昭和の大名人」と呼ばれる落語家・古今亭志ん生(1890?1973)が物語をナビゲート。志ん生役にビートたけし(72)、若き日の志ん生・美濃部孝蔵役に俳優の森山未來(35)を起用した。 

 第39話は「懐かしの満州」。五りん(神木隆之介)が志ん生に弟子入りするきっかけになった父・小松勝(仲野太賀)の形見の絵ハガキに「志ん生の『富久』は絶品」と書かれていた理由が明かされるなど、初回からの“壮大な伏線”が回収された。

 脳出血を起こして倒れた志ん生(ビートたけし)は一命を取り留め、弟子の五りん(神木)に、戦争中に満州へ兵士たちの慰問興行に行った時のことを語りだす。三遊亭圓生(中村七之助)と共に満州を巡っていた孝蔵(森山)は、小松勝(仲野)と出会っていた。やがて終戦。孝蔵の妻・おりん(夏帆)は帰国しない夫の無事を占ってもらおうと、日本橋のバー「ローズ」を訪ねるが、そこに田畑(阿部)が現れる…という展開だった。

スポニチアネックス2019年10月15日09時18分

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20191015-0110

 もう一つ、大河ドラマには大きな役割がある。今回の「いだてん」でも最も話題になったのは、役所広司氏の演じる加納治五郎の死ぬ場面である。「真田丸」のころから「○○ロス」という単語が出てきているが、実際にこの時も「加納治五郎ロス」というような報道が出てきた。

ここでわかるように、大河ドラマというのは「死」をどのように描くのか、そして「死」をどのように迎えるのか、また、残された人が大事な人の「死」をどのように受け入れるのかということが最も大きなテーマではないのか。「大河ドラマ」とは、やはり「人の一生をすべてドラマとして表現する」ということであり、その中では最終回での本人の死は当然のこととして、それまでに身近な人、または自分の師、自分の大事な人、好敵手、それらの人の死をどのように受け入れ、どのように乗り越えるのかということが非常に大事になっている。

「人の死」というのは、やはり大きなテーマであり、また現在の学校やニュースなどでは、例えば遺体をモザイクをかけたり、あるいは、死をテーマに話をすること、「死ぬかもしれない」「誰かが犠牲になる」というようなことを全くテーマとしてあげないのである。ある意味で現在の教育の最も良くないことであるみんな仲良くして、けんかをしない、競争をしない世の中はそれで構わないが、それが世界全体ではないし、その中での犠牲は当然にある。どのようなことでそれを受け入れ、どのようなことでそれを乗り越えてゆくのか、今の教育では誰も教えてくれない。要するに「苦境」「喪失感」などを味わったときに、人間はその時に何をし、どうやって自分を取り戻すのかということが全く教育されていない人々が、その中にいる。

その最たるものが戦争であり、戦争によって犠牲になり、理不尽に死んでゆく命に対して、そのようなことをなくさなければならないということは良いとして、実際に、それ出も巻き込まれてしまった人やその身近な人々に対して、どのようにそれを乗り越えるのか、問うことが全く見えてこないのである。

実際に、戦争は日本では非現実的であるかもしれないが、災害などにおいても理不尽な死を迎えたり、身近な人がそのような感じで失われる人が少なくない。そのような時のことを学校で教育されない状態で、「ドラマで学ぶ」「歴史で学ぶ」ということしかないのであはないか。そのようなことを「学ぶ」場所こそ、「大河ドラマ」なのではないか。

朝ドラなどとは全く異なるということは、まさに、そのようなところであり、その中の「死」をどのように描くか、そして「死を迎える人がどのような生き様をしてきたか」ということから、人間の誇りや尊厳が生まれてくる。だから、日本人は死者に対しても、そこに存在していない人に対しても、そして過去のことである歴史に対しても「尊厳」を求めているのではないか。まさにそのような「日本人の心」をしっかり描けるかということが大きな問題であり、それが期待できない「いだてん」は不調なのではないかという気がするのである。

さて明智光秀に関して言えば、多くの人がなくなってゆく。冒頭、まず父を失う。そして、師と仰ぐ斎藤道三も失う。そして、後半には妻も病で失ってしまい、そして自らの手で自分を見出してくれた信長を屠るのである。「命」を大事にするからこそ、「死」を描くことが必要なのではないか。やはり来年の大河ドラマに期待してしまうのである。