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傍若無人

杉野兵曹長

2019.10.27 13:28

杉野兵曹長をご存知ですか?

唱歌「広瀬中佐」の歌詞にございます「杉野はいずこ、杉野は居ずや…」の杉野さんです。

万世橋駅の像は有名ですよね!戦後無くなってしまいましたが、あの像は一体いずこへ…?


杉野という人

杉野孫七兵曹長と聞けば分かる人と、

杉野修一大佐と聞けば分かる人がいらっしゃるのではないでしょうか?^^

戦艦「長門」の最後の艦長杉野修一大佐は、杉野孫七兵曹長の長男さんでございます。


杉野孫七兵曹長は1867年生まれの、三重県出身の方です。

あだ名が「オコゼ」だったり、「スパイク杉野」だったりと…なかなか面白いお方です(笑)

横須賀で同居していた後藤鎌吉さんという方が、「あれ程元気な人とは会ったことがない。」と仰るほど元気な方だったそうです!

この後藤鎌吉さんも海軍軍人だったとのことで、調べてみたのですが、生年月日も最終階級も見当たりませんでした…。


また、杉野さんは勉強熱心な方で、消灯時間(夜10時)まで机に向かい、朝(3時)早くからも勉学に励んでいたそうで…。努力家です。

水雷学校に入学せず、運用術教官になりました。これもこれで、なかなかにすごいのでは!?


また、彼は回航委員にも選ばれています。

1891年「松島」回航委員付

1899年「朝日」回航委員付

二度も選ばれているんです!

これって、海軍軍人にとっては最高の名誉なんですって!


「朝日」の回航委員長上村彦之丞は、ロシアの駐在武官の広瀬武夫に会いに行っています。

まさか!?と思い文献を漁りましたが、杉野孫七はイギリスに残っていたそうです(笑)

ここで広瀬と杉野が出会っていれば、何か変わっていたのかもしれませんね…!

この時上村さんは広瀬さんに「この国のことは任せた」と言ってほっぺにキスしたらしいんですけど、これって本当なんですか?(笑)


旅順港閉塞作戦

ロシアとの関係が悪化した日本は、戦争を始めます。

日露戦争です。

ここで、旅順港閉塞作戦が始まります。

旅順港閉塞作戦とは、旅順港の奥深くに引きこもっているロシア艦隊を、狭い旅順港口を塞いで出られないようにするといった作戦です。

旅順港口を塞ぐには、結構な量の船が要ります。


第一回旅順港閉塞作戦では選ばれなかった杉野孫七は、第二回旅順港閉塞作戦に「福井丸」の指揮官附として参加することになります。

ちなみに他の船の指揮官附は皆中尉だったのですが、「福井丸」の指揮官広瀬武夫は、信頼を寄せていた杉野孫七に指揮官附を任せたようですね。


無防備な「福井丸」はロシアのサーチライトに当てられ、容赦なく大砲を撃ち込まれます。

杉野は、爆弾点火係でした。

広瀬はカッターボートに乗り移る部下に点呼をさせ、杉野が居ないことに気付きました。

広瀬は探し回ります。3度船の中を駆け回りますが、見つかりません。

諦めてカッターボートに乗り移り、本艦へ帰ろうとしていた矢先、

ロシアの大砲の弾が、広瀬に直撃。一片の肉塊を遺して、広瀬の身体は暗い海の中へ…。


杉野はその後、行方不明→戦死という扱いで、兵曹長に昇進。

杉野夫人の杉野りうさんは、山本権兵衛海軍大臣から700円を貰いました。そのお金で夫の墓を建てました。


遺された子どもたち

杉野孫七兵曹長の長男と二男の、杉野修一と杉野健次は、海軍兵学校に入学。

杉野修一は、「武蔵」の最後の艦長猪口敏平と同期で、

杉野健次は、「利根」艦長を務めた黛治夫と同期だそうです。


ほんとなのかな(曖昧)



修一は、なんやかんやで同期たちと旅順へ行くことになります。

そこで皆、「広瀬中佐」を歌いました。

修一は正直乗り気ではなかったのですが、しぶしぶ歌うことに。

彼は、旅順の海を眺めながら、死んだ父親のことをふと思い出しました。

深夜の船の中、ロシアのサーチライトの眩しさで周りがよく見えない中…、父親は旅順の冷たい海へ。

身体すら帰ってきませんでした。

修一は我慢ができなくなって、声を放って泣いてしまいました。

心の優しい子なのですね…。


戦後、生存説浮上

杉野孫七生存説が浮上したのは、1946年からです。

証言者もいたらしく、なんでも…、満州で甘粕正彦の元で特務機関に所属していたとのお話。

甘粕正彦は、「みなん元気で、左様なら」の遺書を遺したことで有名な方です。甘粕事件の方が有名ですかね?

「みなん」、とは「みなさん」のことであり、遺書を書いたのち毒を飲んで亡くなったことから、このときはかなり動揺していたと言われています。


さて、杉野孫七生存説を聞いて驚いたのは、なにより杉野修一さんだったのではないでしょうか。

戦後静かに暮らしていた修一さんの家へ、記者がやってきたそうです。

「杉野孫七さんが生きていたとの噂が…。」と。

それを真っ先に「そんなはずは」と否定したのは、杉野修一夫人でした。

夫人は、杉野孫七さんの死後遺児の為に懸命に働いて、教師(家庭科みたいな教科)の資格を得た杉野りうさんの教え子で、杉野りうさんが亡くなる少し前に修一さんと結婚しました。

杉野孫七さんが亡くなった寂しさを誰よりも感じていた杉野りうさんのことをよく知っている夫人だからこそ、修一さんよりも先に反論したのではないでしょうか。


その後、生存説に続く話は無く、ただの噂だったのではないかというお話です。

ただ証言者が一人ではなく数人いるのは、少し不思議ですね…。


だいぶ長くなりましたね…。すみません(汗)

杉野さんが大好きなので、がんばって調べました。まだ知識は浅いので、これからもたくさん調べます!

ですが…そもそもの話、杉野孫七さんの資料が少ない!(泣)