歌は世につれ。いなべの街角に音楽を!
小学5年生の頃、アリスにハマりまして、何か行事があったら、ほうきをギター代わりにして、友達と歌っていました。そう言えば、その前は、沢田研二にハマり、アカペラでよく教室で歌ってました。声はこどもの頃から良いほうでした。
そんなわけで中学に入学すると、ギター小僧になってしまいます。
松山千春にはすごく影響を受けましたね。生き方や人に対する優しさ。千春のMCは実に哲学的で、思春期にはいろいろ考ええさせられました。あの頃のフォーク歌手、つまり、オールナイトニッポンを担当されていたアーティストは、みなさん凄かった。あんな方たちの人生観や歌を聴けば、ドハマリしてしまうのは致し方ないです。
中学3年の時に同級生とつくった3ピースバンドでライブを企画。高校1年の時に、友人らに手伝ってもらいワンマンライブやりました。何と、同級生や後輩など約200人が来てくれた。あの当時は「絶対にプロになる!」と思っていましたし、本当に歌うこと自体が好きでした
中学校時代からオリジナルもかなり作りました。
音楽の世界は自由になれます。音の世界は言語もいらない。波のなかを漂う感じです。嫌なこともどこかに飛んで行ってしまいます。
だから、基本、私は、誰も聴いていなくても全く気にならないのです。
さて、大学から演劇を始めたのは、歌より何か、もっとすごい世界がないかな・・・という好奇心から。高校時代からハードロックが流行り、アコースティックの弾き語りは、何か暗い人という感じになってしまい、なかなか、発表の機会もなくなって行きました。
大学時代は、演劇にどっぷりでしたが、4年生の時に、1年間だけライブハウスで歌いました。大学を卒業し、四日市にひっこし、歌える箱を探して、少しだけ歌ってもいました。
あれから、かなり経ち。45歳を超えた頃、仕事やら人生やらで悩みを抱え、たまたま出張に来ていた兄に相談しました。
兄が言いました。「おまえ、何か今、ほしいものはないか?」
ほしいもの・・・・。暫く考えて、出来たのがギターでした。
「俺、マーチンほしいな・・・D28。いつかは欲しいと思っていたから」
「じゃ買ってみたら。それを契機に何か始まるかもしれない」
早速、楽器店に勤める知人に、良い個体を探していただきました。私もそんなに裕福ではないので、妻に相談し、ローンでの購入。
家に持ち帰り、弾きました。キラキラの音。ストロークで弾いても単音がわかる。これが良い楽器なのか・・・と驚きました。それから、久しぶりにギターを弾きようになりました。
いなべ市で開催されている「竹あかり」。ライオンズクラブの先輩が企画していることもあり、先輩が歌うバックをメインに弾いていましたが、私が歌う出番はなく。まあ、主催者のものですから出しゃばることもできず、自分で歌う場所を探しました。
そこで出会ったのが、あいばさんが主宰されている「四日市フォークジャンボリー」。いわゆるオープンマイクというやつです。恥ずかしながら、私、オープンマイクを知りませんでした。短時間ですが自分の持ち時間で歌える。また、多くのミュージシャンとも知り合いになれる。音楽をやっている者同士は、ほかに何もいりません。すぐに友人になれます。皆さん、大人なので、すごいギターを持ってたりしますし、情報も多彩。フォークジャンボリーで出会えて幸せでした。
何度か出演させて頂いているうちに、「いなべでもこういうのをしたい!」と思うようになりました。いなべの知人の何人かが音楽が好きで、弾き語りならできることを知っていたのもあり、「いなべの人が音楽が出来る場をつくりたい」と考え、桐林館でカフェをやっている帖佐君に相談したのです。それで、ライブ喫茶は始まりました。
まずは、続けること。いろいろなご意見を頂きます。全てご意見は参考になるものばかりですが、私は私ができる範囲でぼちぼちしたいのです。
まだまだ、いなべ市内の方には知られていない。いなべからの出演者は少ないです。でも、市外からの出演者に意味がないとは私は思いません。いなべの素敵な場所、桐林館のことを知っもらえますし、カフェでお食事もしていただけます。多分、いなべ市内で開催されるイベントのチラシなども見て頂いています。
「いなべ市のファンをつくる」。これも、桐林館のコンセプトであります。
いなべ市内だとか、市外だとか・・・・そんな狭い了見で、音楽を語りたくもありませんし、懐メロは、聞いていただくだけでも、ある世代にとっては楽しい空間であるはず。また、できれば、若い方にも演奏をしてほしい。
今は、そんな感じです。
「いなべの街角に音楽を」。コンセプトはそれだけです。
追伸:大切な音楽を私は売名でなんか使いません。そんなダサイこと考えたこともありません。
前に、そんなことを言われたので、最後にはっきり記しておきます。