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物部氏は中東から来た星見の氏族?

2023.12.25 01:51

ヘイアウに北斗を祀る春の潮  高資

 ユネスコ世界遺産委員会(岩石芸術部門)日本代表・吉田信啓先生によって古代ハワイの「ヘイアウ型」神殿であることが確認された五島・久賀島の古代遺跡ー 場所: 重要文化的景観の島 久賀島

ここには北天の竜座を象った盃状穴なども残っており、紀元前2500年代に海上に逃れたシュメール人と関係しているとのことです。九州西岸に多い曽畑式土器を造った海洋民族とも深い関わりがあり、実際に福江島の江湖遺跡からは曽畑式土器が出土しています。

高麗島の話は、柳田国男も「島の人生」で取り上げていますね。ここに海上の道があったことは間違いないでしょう。

五島列島は、海流の影響で大陸や東南アジア系やポリネシア系などの海洋民族が最初に到達する日本の島嶼の一つと考えられます。

私が発見した勘次ヶ城遺跡にもやはりヘイアウ型の神殿と思われる遺構が残っています。開発が及んでいない離島僻地だからこそ奇跡的に保存されていたのかもしれません。

柳田國男監修『五島民俗図誌』には「皮膚が白くて、身長もやや高く、骨格も優秀で、眉が濃く迫り、眼光が鋭く鼻梁が高く毛髪が濃い云ふ部類、〜中略〜 或は眉、目、鼻を中心として欧羅巴人種の感じに甚だ近き人々等をまま見受けることが出来る。潮流の関係上、五島には昔日から多くの異種人が漂着してゐるから、それとの関連も此処では考慮される事が必要であらう」と記されています。ご参考までに。

このヘイアウのある久賀島のすぐ近くにある椛島が猿田彦の本拠地と推測していますが、その容貌も日本人離れした感じですね。

最近になって私も五島の不思議さに気がつきました。いろいろなご縁もあって現在、遺跡の研究も行っています。来年には、長崎の教会群とキリスト教関連遺産として五島の教会も世界遺産になる可能性があります。長崎へお越しの際はぜひお立ち寄り下さい。

科学技術も目覚ましい発展を遂げている一方で、これから古代文明の解明も進むものと思われます。俳句の祖である和歌も大陸の彝族にのこる五七調の歌垣に由来するとも言われます。日本文化の源流もそのあたりに関係しているのかもしれません。今後の展開が楽しみです。

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11901491042.html     

【「北斗信仰」〜天皇は道教の神〜】

北斗信仰の源流は

紀元前数千年前、元々は現在のイラクやイランに栄えた古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角 を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わりました。

中国においても、北辰信仰は、紀元前二千数百年前の堯・舜の時代に記録されている という。

北極星の信仰が古代中国に伝わり、道教などの星信仰と習合していきます。

北極星は、道教においては、天帝太一神の居所であり、北辰を北極大帝、北極紫微大帝、玄武大帝もしくは 北極玄天上帝などと称し、最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどり、天界、人界、冥界 の三界を総宰する神格とされるようになりました。

【北斗七星】より

…特に,人間の命運は生年の干支で決まる北斗の中の本命星の支配下にあり,北斗神が降臨して行為の善悪を司察し寿命台帳に記入する庚申・甲子の日に醮祭(しようさい)(星まつり)することで,長寿を得,災阨(さいやく)を免かれると考えられた。北斗信仰は早く日本にも流入し,平安時代以来,宮中での四方拝に天皇みずからが本命星を拝しその神名を称えた。また,北斗信仰は密教でも重視され,北極,北斗の本地とされる妙見菩薩をまつる妙見堂が各地に建てられている。

【北極星】より

…《史記》天官書などの記述によると,北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた。これをうけた道教では,北辰の神号を北極大帝,北極紫微大帝もしくは北極玄天上帝などと称し,最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどる神として尊崇した。

【天皇大帝】

天皇大帝(てんおうだいてい・てんのうだいてい)は神格化された北辰(天の北極)のこと。後述するように、日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられている。北斗七星と混同されることもある。

(世界大百科事典)

▶古代、東夷族の領主にして中国五帝の1人に数えられている少昊は、母系の伝承により、天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えていた。その象形は、北辰を中心点としてその周囲を24時間かけて回る星々を一輪の円で描き、一日というサイクルを表して「日」の原型と成った。 そして、母系社会において智慧や秩序の基盤となった「日」は、道教において神格化されるが、父系社会への転換により、陽を象徴する文字として使われるようになると、北辰と「日」は対極をなす関係になった。

そしてそれは、日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説がある。

中国の唐の高宗は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による 「天皇」 の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。

▶道教では 「北極紫微大帝(北極大帝・紫微大帝)」 とも成り、また北斗七星が神格化された 「北斗真君(北斗星君)」 と習合した。「北極紫微大帝」 と 「北斗真君」 とは本来は別の神であったが、現在でも分ける場合と同一視する場合とがある。 中国の皇帝や日本の天皇家の北斗信仰にもこの同一視が見られる。中国の皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女がデザインされている。宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服 は背中の中央上部にも北斗七星が置かれている。ただし、織女はない。

▶北斗七星(おおぐま座)は水を汲む 「斗」 の形をしており、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。『史記』 『星経』 には北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証するとある

▶天皇大帝はその聖性の象徴として神器(道教の用語)を持っている。神器は 「鏡」 と 「剣」 であり、呪具(magic tool)と威儀具とを兼ねている。

(ウィキペディア)

▶奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、キトラ古墳や石川県の寺山古墳群の横山古墳にも北斗七星の図が描かれている

▶また正倉院御物にもスッポンをかたどった容器「青班石鼈合子(せいはんせきのごうず)」があり、その背に金泥・銀泥で北斗七星が描かれている。

☞北斗は、人々の生死禍福を支配する

▶4世紀の道教教典『抱朴子』には、「北斗と日月の字を朱書した護符を身につけるだけで、白刃を恐れず、先頭を切って突撃しても負傷しなかった」と書かれてある。

七星を刀に刻んだ剣は

右矢印大阪四天王寺の七星剣

右矢印法隆寺金堂の持国天指物の七星文銅太刀

右矢印正倉院宝物の呉竹鞘護杖刀

また武士集団の頭目だった源満仲が北斗などの星々を神格化した鎮宅霊符神を祀った。

▶四方拝

中国における道教の宗教儀式

道教の経典である『北斗本命延生真経』『北斗二十八章経』『七星移度経』などにその具体的な記述がみえる。

平安時代の宮廷のおける四方拝の儀式では、「北斗の呪」を唱え終え、天皇は「天地を拝する座」において北向され天を拝し、次いで西北向されて地を再拝する。とある

四方拝とは、天皇が北斗七星などを拝んで息災長寿の呪文を唱える道教の儀式。

『日本書紀』(642年)四方拝を皇極天皇が即位の年の八月に、今の明日香村で行ったことが記されてある。

☞北斗は、人々の生死禍福を支配する

北斗信仰は、人々の生死を司る神であり、その神に祈れば百邪を除き、災厄を免れて福がきて、長生きが出来るという信仰である。

▶4世紀の道教教典『抱朴子』には、「北斗と日月の字を朱書した護符を身につけるだけで、白刃を恐れず、先頭を切って突撃しても負傷しなかった」と書かれてある。

猿田彦(さだひこ)の赫き眼(まなこ)や椿の実  高資

https://www.sarutahikojinja.or.jp/about/

【猿田彦神社の歴史・由緒】

天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。

そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。

同時に邸内では御先祖である猿田彦大神をお祀りし、門前には全国から訪れる参拝希望者やお供えが絶えることはありませんでした。

当社は猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める神社です。

http://www.tsubaki.or.jp/yuisyo/

【椿大神社:由緒】

▌御祭神

主神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

相殿 瓊々杵尊(ににぎのみこと)

栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと)

配祀 天之鈿女命(あめのうずめのみこと)

木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

前座 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)

▌創始の由来

 当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。

 このように社殿創始は垂仁天皇の御宇でありますが、それ以前、悠久の太古、原始人類に信仰の芽生えを見た時、既に大神の尊崇と本社創建の淵源は存したと言わねばなりません。 即ち神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。

 天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に「道別の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別)大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。 由来の画像

▌猿田彦大神の御神徳

 猿田彦大神は、往古より天照大神の幽契による御旨を地上に実施される地祇の根本の神、ち地球国土の神として、地球上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く「みちびきの祖神」とあがめ奉り、御神徳として、 特に地まつり(地鎮祭)・方災解除・厄祓・土地家屋敷国土の御守護が霊験あらたかとされ、当社では神山高山短山の「清めの御砂」をもって地鎮祭・家屋敷の祓い清めを行い獅子舞神事による天下泰安の方除厄除祈祷は1300年の伝統を誇り今日におよんでおります。

 大神は亦の御名を「興玉の神」と称え奉り、神々のミタマを奮い起こす導きの神として、先達・延命長寿・縁結び・安産等の御神徳あらたかです。又、大神は「道祖の神」として人類はもとより地上に生命あるものかくあるべしと教え諭し、 家内安全・無病息災・交通安全・警備・商工業の隆昌発展・進学・就職等人間生活の開運を御導きになり、又「船玉の神」として、大漁満足・航海・航空・旅行安全の守り神としても篤き崇敬を受けております。

 大神はその広大無辺の御神徳に因んで亦の御名を「大行事権現」「衢の神」「土公神」「佐田彦大神」「千勝大神」「精大明神」「塞神」「岐神」「大地主神」「白髭大明神」「供進の神」「山の神、庚神様」「道別大明神」「椿大明神」と称え奉られております。

 大神の神孫「行満大明神」は修験神道の元祖として、本宮本殿内前座に祀られ、役行者を導かれた事蹟など、 古来「行の神」として、神人帰一の修行・学業・事業・目的達成守導のあらたかな神として古くより尊信されております。          

▌別宮椿岸神社御祭神

主神 天之鈿女命(あめのうずめのみこと)

相殿 太玉命(ふとたまのみこと)

天之児屋根命(あめのこやねのみこと)

▌天之鈿女命の御神徳

 別宮・鈿女本宮(延喜式内椿岸神社)の祭神である天之鈿女命(天之宇受売命)は、 天孫降臨の際に、瓊々杵尊に従って天降られ、天孫一行を天の八衢に出迎えた猿田彦大神とともに日向の高千穂の峰に導き、 わが国肇国の任務を無事終えられた後、猿田彦大神と天之鈿女命は夫婦の契を結ばれ相共に伊勢国鈴鹿の里にお帰りになり、 鎮祭されたのです。

 天之鈿女命は、「鎮魂の神」「芸能の祖神」として、俳優(わざおぎ)芸事をはじめ、あらゆる芸道の向上、また、 縁結び・夫婦円満の守護に霊験あらたかとして、古来より信仰されています。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=278148   【物部氏】

【セレンディピティ】より『物部氏リンク)』を転載します。

物部氏を調査してゆくと西アジアの情勢を把握する必要がありそうです。ユダヤやイスラエルなどの人々との関係もあるようで、西アジアの文化を何がしかの方法で日本に伝えられたと思われます。

--------------------------1より

ここで、以前調べた【白鳥族】のことを補足します。

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古代、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。

【白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたが、これはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。

彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。そして、この鳥の【フ】は、3世紀、馬韓の長い王号の中に、濆(フ)、不(フ)、報(ホウ)としてありました。また高句麗では王妃部の絶奴部が、細群(さいぐん)と麁群(そぐん)に分かれていましたが、細群が【白鳥トーテム族】、麁群が【大角鹿トーテム族(スキタイ人)】でした。

いうなれば、白鳥トーテム族が匈奴に、高句麗に、馬韓に、いたのです。

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国史で猿田彦といわれるユダヤ・ガド族は、BC10世紀以降のウラルトゥ(ウガヤ王朝)時代からの歴史を【高天原の由来】として、ホツマ文字(神代文字)で書かれた【秀真伝】など、五七調の叙事詩として語り伝えながらシルクロードを東遷して中国→朝鮮→対馬へと至りました。

そこで【記紀】では降臨したのがニニギノミコトでコノハナサクヤヒメと一緒になってという話が出てきますが、その天孫降臨、実際にはユダヤ系のガド族、日本名では猿田彦が最初にやってきました。彼らが天降って王宮を作った場所は吉武高木遺跡です。

他にも、イエス・キリストを生んだゼブルン族、日本で言えば宗像神社の三人の姫=宗像神社の御三神に相当する人々、さらには女王卑弥呼と大物主命などの系統であるイッサカル族、これらが三位一体となり連合して竺紫の地に渡来しました。ここには糸島半島がありますが、ガド族らは、ここに上陸しています。この吉竹高木でつくった国を伊勢国といいます。

この伊勢国がやがて近畿地方に移るため、区別してこの地を【旧伊勢国】としていますが、この時、最初の【伊勢国】を建てたのです。伊勢の君・猿田彦は鉄鐸・銅鐸文化の祭祀者であり、秦末の【焚書坑儒】事件で多くの王族や儒者たちを殺されたガド族がイスラエル北朝からユダヤ南朝系に変身して急遽、鉄鐸・銅鐸文化を携えて日本列島へ亡命したのです。

こうして九州博多の地に新しい青銅器文化の先進国が建設されました。

次に、その初代猿田彦命に続いて、二代目の猿田彦は、イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、 八咫鏡・神鏡・鉄剣・勾玉など【三種神器】を奉納しました。それが九州社会を発展させるきっかけになりました。

この頃、九州の地には以前から縄文人や稲をもってきた苗族、あるいはシュメール人のグループといった先住民が居住していました。猿田彦二世は、その人々を支配化においてユダヤ人たちのヘレニズム文化(ギリシアとペルシャの混合文化)によって鉄鐸・銅鐸を生産する青銅器文化を九州全体に繰り広げていきました。

【鶴族】は物部氏のこと、【亀族】とは九州豊国(金官加羅)の中臣氏のことです。

潮騒や白椿咲く天主堂  高資

 頭ヶ島天主堂(世界遺産候補・国指定重要文化