鳴門・高松旅行1 大塚国際美術館①「システィーナ・ホール」と「スクロヴェーニ礼拝堂」
8月17日に「ひだまり歴史講座」で行った「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂天井画」の講演以来、是非ここの「システィーナ・ホール」で、じっくり考えてみたいと思っていた。ミケランジェロがなぜもっとも重要な場所に「ヨナ」「ハマンの懲罰」「青銅の蛇」を描いたのか、それらは後に描いた壁画『最後の審判』とどのような位置関係にあるのか、ミケランジェロの「最後の審判」はそれ以前に描かれた「最後の審判」と異なってどこが独創的なのか、など。1時間かけて思う存分、様々な距離から、様々な角度から鑑賞できた。これまで、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂は3度足を運んだが、1,2回目は十分な知識がないままだったし、かなり知識を持って臨んだ3回目はすさまじいばかりの人混みでとても落ち着いて鑑賞できる状態ではなかった。確かに、宗教画はその絵が描かれた場所で見るに限る。そのことを今回、カラヴァッジョの「聖パウロの回心」(パウロが、まだサウロと呼ばれていたユダヤ教徒の時代に、キリスト教弾圧のためにダマスクスへ向かう道中に、突然天からの光に照らされキリストの声「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」を聞く劇的な一瞬を捉えたもの)を見て痛感した。実物があるのはローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂。落馬したパウロは両手を広げているがその先にはイエスがいるはず。天才的な試みの見事さは、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に晴れた日の昼間に行って初めて実感できる。しかし、「システィーナ・ホール」で、十分に大塚国際美術館の存在意義は感じた。本物の予習や復習として大きな意味があると思った。同じことを強く感じたのは、「スクロヴェーニ礼拝堂」。聖母マリアの生涯(聖書の記述は受胎告知からで、それ以前のマリアの生涯は聖書に記述はない)から、受胎告知、キリスト生誕、キリスト受難、キリスト復活、聖霊降臨へと物語が展開していく。聖書の重要な場面をわかりやすく描いている。実物のような魂を揺さぶられるような感動は生まれないが、写真では理解できない、字を読めない民衆がどのようにキリスト教を学んだかが体験できる空間である。「システィーナ・ホール」、「スクロヴェーニ礼拝堂」と比べると、レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の展示には疑問を感じた。実物は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の敷地内の修道院の食堂の壁に描かれた。食事をする修道士たちが、あたかもイエスと十二使徒たちの最後の晩餐を共にしているような感覚になるように、壁の上部に描かれた。後に、ナポレオン軍が壁面に通路を作ったために、その跡がテーブル中央の下部に無残な姿をとどめているが、大塚美術館ではそれが床すれすれの部分になってしまっているので、なぜそんな無残な姿が残っているのかに思いが至ることは困難になってしまっている。
それにしてもルーヴル美術館、プラド美術館、ロンドン・ナショナルギャラリー、メトロポリタン美術館、エルミタージュ美術館、オルセー美術館などの誇る名作がずらりと並べられ、午前中3時間半で集中力は限界。もともと予定していたが、大塚美術館から20分ほど歩いたところにある「うずしお観潮船」乗り場に向かう。この日の14時が渦潮の最適時間だったからだ。大潮ではなかったがそこそこ楽しめた。なにより「名画」の鑑賞で疲れ切った頭を休息させるのにはよかった。再び美術館に戻って1時間半鑑賞。7点が並べられたゴッホの「ひまわり」も、比較しながら鑑賞するのにはよかったが、やはりゴッホのような魂の画家の作品は、数は少なくても実物を彼がどのような思いを込めてその絵を描いたか、彼の人生を思い浮かべながらじっくり鑑賞しないとその魅力は到底感じられないように思った。どのように「ひまわり」がゴッホらしさを増していったかを見るにはいいのかもしれないが。いずれにせよ、一枚でも実物を見たうえでここでレプリカを見るのが鑑賞法としてはおすすめだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
大塚国際美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
ミケランジェロ「最後の審判」システィーナ礼拝堂
大塚美術館 システィーナ・ホール
「スクロヴェーニ礼拝堂」パドヴァ イタリア
カラヴァッジョ「聖パウロの回心」サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 ローマ
大塚国際美術館 ゴッホ「ひまわり」