身につまされるから見たくないという心境
上映会をなんとか成功に導きたいと連日宣伝活動を行っている。昨日は高校の同窓会にもチラシを持ち込んで説明した。老人会定例会があるときには5分でいいので説明の機会をとお願いしている。ご近所さんにもチラシを携えて久しぶりに訪問したりする。
そんな活動を通して様々な反応がみられる。その1つは認知症は自分には関係ないことだという反応。ラジオ体操したり、ウォーキングしたりして平素健康に気を配っている。老人会や趣味の会でも交流したり、頭脳を使ったりしているので認知症は無縁だと思っている人が多い。さらに自分は長生きせずPPKでいくので、認知症は関係ないと。
でも、それって願望。寿命はどうにもならないし、健康寿命をいかに延ばすことができても、最後の寿命と一致するわけではない。その間に認知症になって家族のお世話になることもある。
願望と現実が違うということが判っている人でも、どうせこの種の映画(「ケアニン」のような)は身につまされて重い気持ちになるという人がいる。認知症を素材にした、いろいろなドキュメンタリーやドラマでは悲しい結末になるケースが多く、それらを観ても気持ちが暗くなるだけだというのである。
それは分からないではない。でも、暗いだけで終わる映画は良い映画ではない。なんらかの希望を指し示すはずだと思う。現実とかけ離れた幻想では困るが、きちんと現実の問題に向き合ったストーリーはなんらかの指針(少なくともヒント)は含んでいるのだと思う。ケアニン原作制作過程までの綿密な取材はそうした方向性を提示していると期待したい。
見たくないで眼をそらしても、問題を家族に押し付けるだけだ。将来の施設やスタッフ不足に懸念があれば、それを当事者共同で訴えていくことも必要だし、地域でサポートする体制を作る必要もある。どこに問題があるのか、誰もが罹患する可能性があるだけに、観て考えたい。 (WB)