「宇田川源流」 【土曜日のエロ】 牡丹燈籠という「男女の情念の神髄の怪談」が上演されるという「今エロが求められている」風潮
「宇田川源流」 【土曜日のエロ】 牡丹燈籠という「男女の情念の神髄の怪談」が上演されるという「今エロが求められている」風潮
土曜日のエロの日である。まあ、すでに11月になってしまった。なんというか今年も時間が流れるのが早。「光陰矢の如し」というが、本当にそんな感じの内容ばかりではないかという気がしてならない。私など年齢を取るたびになぜかこんなに時間がたつのが早いのかと思う。先日正月になったら急に暑くなり、そして急に寒くなった感じだ。実際に一日の長さは変わらないのであるが、感覚というのは恐ろしいものである。
さて、先週の即位の礼などがあったために今週は何か静かな感じである。ニュースもほとんどが先週の大雨被害のことばかりであり、あまり大きな、というか、私自身の琴線に触れるようなニュースがなかったという気がしてならない。
まあ、しいて言えば「ISの首謀者であるバグダディ氏の暗殺」が行沸得たということであろうか。まあ、アメリカにしてみれば、トランプ大統領を様々言っているが、実際に、オバマ大統領の時代からずっと手をこまねいていたISに対して、一つの「終止符」をつけたということがかなり大きな成果ではないかという気がしてならない。日本のマスコミをはじめ、アメリカのマスコミに追随する形で、トランプ大統領を批判しているが、冷静に考えた場合、北朝鮮との首脳会談といい、米中貿易戦争におけるアメリカの雇用確保といい、経済政策といい、また戦争をせずにイランをうまく黙らせた実績といい、それなりにしっかりと功績を残している。まあ、オバマ大統領の8年間に比べて「口だけオバマ」にたいして、どれだけ「実績」があったか。そのようなことをしっかりと考えないといけないのではないか。
ただそれでもトランプ大統領を嫌いという人がいる。一つは、「中国などトランプ大統領に攻撃されている国々を応援している人」ということになる。日本のマスコミはその例になるのであるが、共産圏の国々は情報の管理から始めるので、そのような結果になるのではないか。
そしてもう一つが「伝統や文化、『○○らしさ』を重視する人々」である。このような人々は、トランプ的なやり方が嫌いなのであろう。まあ、それでもただ反対をしているということがどこまで許されるかはかなり大きな問題ではないのか。
『令和元年版怪談牡丹灯籠』 噛まれたいファンが続出のワケ
既成概念を打ち破る作品に出会った時の衝撃は、おのずと視聴者を興奮へと誘う。ドラマウォッチを続ける作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が分析する。
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おどろおどろしくて怖い。陰翳があまりに美しい。映像のクオリティの高さにうならされるドラマ『令和元年版怪談牡丹燈籠 Beauty & Fear』(NHK BSプレミアム 日曜午後10時)。江戸時代の有名な怪談話と、その背後にある人間関係の愛憎、因果応報を描き出しています。泥沼に咲いた妖花のような、不気味な世界が広がっています。
新進気鋭の若手役者・上白石萌音さんは、源孝志監督から「獣になってくれ」と指示されたという。「相手が好きすぎて焦がれ死ぬ」という娘役・お露をどう演じるのか。
上白石さん演じるお露は、浪人・新三郎(中村七之助)と出会い、許されぬ身分違いの恋に焦がれて死んでしまう。そしてカラン、コロ~ンと下駄の音を響かせ、愛しい男の元へ通ってくるお露の幽霊。
しかし。ある時家の扉に貼られた魔除けの護符に阻まれ、男に拒絶されたことを知り、怒りをむき出しに。愛らしいあの目をひん剥いて、狂いながら宙を舞う怪物に豹変する。「ウォー」と声を荒げたその瞬間、お露には牙が生えている。
見ているこちらも思わず、ぞくっ。
「上白石萌音のイメージが崩壊すると思う」と監督も最高評価で太鼓判を押したそうです。そう、「あの牙に噛まれたい」というオッサンのファンも続出しているとか。
時代は江戸・寛保三年、本格的な時代劇です。電灯がなかった頃の暗闇が随所に潜んでいて、ドラマで重要な要素になっています。ワイヤーアクションや特殊メイクといった現代的仕掛けも闇の世界に上手に挿入され、エッジを効かせています。
しかし、あくまでメインは「人間」の怖さ。カラクリではなく人が抱く欲望のグロテスクさです。その怖さといえば、第1話の冒頭のシーンも凄まじいものがありました。
「人を斬りたい」という欲望にとりつかれ、「斬ってみたい」という欲に駆られて、浪人に刀を振り下ろしてしまう旗本・飯島平太郎(高嶋政宏)。テラテラと光る血液。その粘性。ゆっくり土に染み込んでいく様子。刀のふりの重たさと、鈍く光る金属。空気を斬る音。
「肉体を、刀で斬る」ということがどういうことなのか。手触りや肌合いまでが映像から伝わってくる。だから怖い。そして、役者の迫力もすごい。
何かにとりつかたような平太郎の白目が光っている。うすら笑いをしているようにさえ見える。クビから下に返り血を浴びたまま歩いていくその姿に、人の闇を見ました。
これまでドラマで見た殺陣シーンの中で一、二を争う恐怖を感じたと言っても言いすぎではありません。
時は流れ、平太郎は家督を継ぎ飯島平左衛門に。すると侍女・お国(尾野真千子)が、平左衛門の妻の座を乗っ取り、次第に権力を掌握していく。
その過程も不気味です。色っぽくて性格の悪い女をやらせたら、尾野さんの右に出る人はいない。間男・源次郎を演じる柄本佑さんも、悪人ゆえの姑息さが出ていて、いい。若頭役・黒川孝助(若葉竜也)の身についた時代劇の小走りぶりも、いい。
緊張の漲った静謐な画面がいくつも重層的にあわさっているドラマです。色調は敢えて彩度を落とし、モノクロによる時代性とカラーによるリアリテイの中間を狙い、そこに江戸時代を浮かび上がらせている。そして琵琶の弦の「ぼろろん」という音が響き亘ると、切なさも迫ってくる。語りの神田松之丞の声もいい。
拙速でなくゆったり、まったりと、恐怖をかき立てていく物語。入り組んだ人間の綾、その一つ一つに、ヒリヒリとした緊張があります。こうなったら源監督にはぜひ、時代劇「三大怪談」の全ドラマ化を期待したいもの。令和版『四谷怪談』と『番町皿屋敷』も、素晴らしい配役で見てみたい。画面の前で再び闇の気配に震え身を縮めてみたいと、心底感じさせてくれました。
ポストセブン 20191026
https://www.news-postseven.com/archives/20191026_1474442.html
さて、「伝統」といえば、日本の話芸である。
「牡丹燈籠」という話を知っているであろうか。江戸時代末期の1861~1864年頃、浅井了意による怪奇物語集『御伽婢子』、深川の米問屋に伝わる怪談、牛込の旗本家で聞いた実話などに着想を得て創作された[1]。速記本が1884年(明治17年)に刊行されている。このうち『御伽婢子』(寛文6年、西暦1666年刊)は、中国明代の怪奇小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』を翻案したもので、若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。明治の三遊亭圓朝25歳の時この話をもとに新作の落語「怪談牡丹燈籠」を作り上げ、それが話題になったものだ。圓朝没後は、四代目橘家圓喬・五代目三遊亭圓生・六代目三遊亭圓生・五代目古今亭志ん生・初代林家彦六など歴代の大真打が得意とした。明治25年(1892年)7月には、三代目河竹新七により『怪異談牡丹灯籠』として歌舞伎化され、五代目尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演されて大盛況だった。
浪人の萩原新三郎は、ふとしたことから旗本飯島平左衛門の娘、お露と知り合う。お互いに一目惚れしたふたりは理無い仲となり、お露は夜ごと牡丹灯籠を下げて新三郎の元を訪れ、逢瀬を重ねる。しかし、お露の正体は怨霊/亡霊だった。 日ごとやつれてゆく新三郎に旅の修験者/寺の和尚が真言(マントラ)とお札を授け、家中の戸にこれを貼って期限の日まで籠もり、夜が明けるまで決して出てはならない、と告げる。 言われたとおりに新三郎が閉じ籠もっていると、毎晩お露は家の周りを回りながら、中に入れず恨めしげに/悲しげに呼びかけてくる。 最終日、新三郎は、朝になったと騙されて/命よりお露への想いを優先して、自らお札を剥がして外へ出る。とこのようなストーリーである。
さて、この話、「エロ」と「怪談」の融合であるし、また江戸時代の幽霊像の中で「足がない」という概念を覆し「足音(カラン・コロンという下駄の音)」が聞こえるという形がなかなか興味深い、同時に、「幽霊と逢瀬を重ねる。」つまり「この世のものと思えない美女とエロいことをする」ということが、話の肝になっており、その「逢瀬」を忘れられない主人公が、最後に幽霊に取り殺されるというストーリーである。つまり「命と逢瀬どちらを取るか」というような話になるのではないか。
それを、今現在の旬の女優がやるという。もちろん、ヌードなどが出るわけではないが、しかし、その逢瀬の場面がどのようになるのかがかなり気になるところである。
「上白石萌音のイメージが崩壊すると思う」と監督も最高評価で太鼓判を押したそうです。そう、「あの牙に噛まれたい」というオッサンのファンも続出しているとか。<上記より抜粋>
ある意味で、若い女優がそのような役を行うというのは、なかなか興味深い。「エロとそこから発する情念」ということはかなりの「妖艶さが必要」であり、それを演じ切ることができるのかはかなり疑問だが、うまくゆけばなかなか「よいエロ」が見ることができるのではないか。
「エロと怪談」という取り合わせは、かなり様々ある。何かにとりつかれた時に、恥も外聞もなくなるというのは、ある意味で、人間生きている段階で芽生えるが、一つの情念に取り憑かれた幽霊であればなおさらである。その時に「最も自分の魅力を出す」ということが非常に重要になるはずであるし、また、そのような現代人がいないということが残念なことなのではないか。抜粋のところに「噛まれたいというおっさんが多い」とあるが、実際に、そのような若い女性が少ないということもあるのではないか。怪談としてではなく、そのような意味でも人気が出てきているのかもしれない。
しかし、このような演劇でしか「一心不乱なエロ」を体験できない現代は、ある意味つまらないのかもしれない。