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ZIPANG-3 TOKIO 2020 明治の最高傑作 旧済生館本館(山形市)「明治の宮大工たちの魂は、昭和に引き継がれ、そして未来へと・・・」

2019.10.31 10:00

はじめに 記事をお届けするに当たり、このたび関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な大雨で、千葉や福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。

国指定重要文化財『旧済生館本館』

三層楼

旧済生館本館を最も象徴する部分です。1層が8角形で正面に吹き放しの石敷きベランダ、2層が16角形の広間で屋根はドーム型の大屋根、3層は8角形の小部屋で広いベランダが取り付けられています。


外観は3層ですが、ベランダが4つあることからもわかるように、内部は4階建てとなっております。2階と最上階の3階の間にある部屋を、中3階あるいは階段室などと呼称しています。


このような複雑な構造は、小屋組みの一部に西洋の技術が取り入れられているほかは、日本古来の高度な木造建築技術が支えているといわれています。

 

2019 年度日本デザイン学会秋季大会

2019 年度日本デザイン学会秋季企画大会及び2019年度日本デザイン学会第1支部大会が秋の香りあふれる山形においてライトニングトーク、フィールドワークなど自由な研究交流が行える場を用意して下記要項にて開催されます。

2019 年度日本デザイン学会秋季企画大会及び2019年度日本デザイン学会第1支部大会
本会場となる東北芸術工科大学(山形市)

要項

■日程:2019年11 月8 日(金)~ 11 月10 日(日)
■会場:東北芸術工科大学
■テーマ「おいしいデザイン」)


前号に引き続き山形市の見どころをご紹介いたします。


山形市の見どころ

その2

旧済生会本館

『旧済生館本館』は、明治の宮大工たちにより文明開化の象徴として建築され、昭和の時代の職人たちの努力と技術により移築復原されました。


よみがえった三層楼

1967年(昭和42)に始まった移築復原工事は、創建当時の詳しい設計図が無く、現場主任の兼子元吉氏が解体作業を行いながら設計図を作り上げました。


兼子氏が調査を始めたころは現在のような姿ではなく、3階部分は失われて14角形の回廊も3室を残すのみで、原型が大きく損なわれていた状態でした。

済生館復元工事資料から

修復のための調査は文化庁の指導に基づいて行われましたが、不明な箇所が多いために分析解明はかなり難行し、兼子氏と工事に携わった人たちは精神的にも身体的にも大きな負担を強いられました。


調査・解体・復元といった異色な工事ではありましたが、関係者の努力と苦労の積み重ねにより、次々と謎が解明されていったのでした。


この根気の必要な作業の中で、兼子氏は「謎が解明していく喜びは例えようもないものであった」と語っています。 現在、山形市郷土館として展示を行っている旧済生館の第7室には、済生館復元工事資料として関係者の努力や苦労を物語る写真や貴重な資料が展示されています。


沿革

済生館は、1878年(明治11)に山形県立病院として建設されたもので、当時の山形県令三島通庸の「山形の近代化を図る」という構想のもとに竣工しました。


「済生館」の名前は当時の太政大臣・三条実美※の命名による。東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診療の他に医学校が併設され、オーストリア人医師ローレツを金沢医学校から招聘して、経営の問題から1888年(明治21)には民営となり、その後1904年(明治37)4月には山形市立病院済生館となりました。

※三条実美

父は内大臣三条実万。権中納言、議奏、攘夷勅使、国事御用掛などをつとめています。
尊皇攘夷派公家の中心的存在でありましたが、文久3年(1863)尊皇攘夷派の京都追放をねらった8月18日の政変が起こり、七卿落ちの1人として長州に下ることになります。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任されています。

明治4年(1871)太政大臣に就任、18年の太政官制廃止までつとめ、内閣制度創設後は内大臣となり、22年黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任されました。


現況

昭和30年代後半には、創建以来約90年を経て老朽化が進み、病院の近代化が求められるようになり、そのため本館は解体することが決まりましたが、文化庁は兼子元吉氏を主任とする調査事業を行い、現在地の霞城公園内に復原保存されることになったのでした。


1966年(昭和41)12月、東北地方の大規模な洋風化の歴史を示す資料として、国の重要文化財に指定されました。その後、文化史的意義が評価され、現在は「山形市郷土館」として当時の姿を伝える歴史資料館となっています。


旧済生館本館(三層楼)

回廊と中庭。1階の屋根は桟瓦葺き

建物は、当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたと言われています。
中庭を囲んで病室を円形に配置し、正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっています。

旧済生館三層楼を中庭(背面)から仰ぐ

当時の人々は、この建物を親しみをこめて「三層楼」と名づけました。
1階の正面玄関は八角形のポーチ、2階は正十六角形の大広間、さらに螺旋階段で3階の八角形の小部屋に通じ、それぞれの階にベランダを配した構造になっています。

屋 根

1階の屋根は桟瓦葺きです。桟瓦とは、古来からの本瓦が平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて葺かれていたのに対して、軽量化を図るため平瓦と丸瓦を一体化したものです。済生館本館で用いられる桟瓦は、赤い釉が施されています。

2階以上の屋根は亜鉛板葺きです。文字通り亜鉛板で葺かれた屋根で、緑色を呈しています。1階屋根の赤瓦と美しい対象をなしています。

旧済生会本館14角形の回廊

三層楼の背面には中庭を囲む十四角形の回廊があり、回廊に沿った八室の病室があります。
屋根には瓦が葺かれています。

木造の擬洋風建築※として明治初期の代表的な建物であり、ドアの蝶番や屋根の亜鉛板などはドイツから輸入され、建設は原口祐之を棟梁とし、山形の宮大工と300人の職人たちの手によって僅か7ヶ月の工期で完成をみたのです。

リノリウム

回廊及び各階の部屋の床には、リノリウムが用いられています。
リノリウムとは、亜麻仁油を空気で酸化したものにコルクの粉末などを混ぜて麻布などに塗り、固めた素材です。耐摩耗性、弾性に優れた素材で、よく用いられました。 

旧済生会本館回廊を外側から見る。

鎧戸

鎧戸も植民地時代のインドや東アジアで生まれました。通風・採光・雨よけのため、一定の傾斜を持たせた幅の狭い板を横に何枚も取り付けた構造を有しています。通常、風通しを 確保するため、板と板の間に隙間が設けられています。

本館では、鎧戸を持つ扉の内側に上下にスライドする上げ下げガラス戸が附属しています。


下見板

ヨーロッパの一地方に端を発する建築様式です。外壁の構造の一種で、板を横方向に重ね、目を下向きにして雨水が内部に入らないように仕上げております。下見板に用いる部材を調達するには、水力や蒸気の動力のこぎりで板を製材する必要がありました。近代の技術があってこそできる建築様式です。

日本では、昭和30年代後半から40年代はじめにかけて合板の2次加工品として、下見板が作られ潮風や風雨にさらされる気象条件の厳しい沿岸の住宅に使用されていましたが、何時しか不燃材にとって変わられてしまいました。但し、地方の和風や民芸風住宅などでは現在も焼杉の外壁材を見かけることがあります。


1878年(明治11年)7月、山形を訪れたイギリス人のイザベラ・バード※は、完成間近のこの建物を見て「大きな二階建の病院は、丸屋根があって、150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常に立派な設備で換気もよい」と評しています。


※イザベラバード女史の功績

1831年10月31日、英国ヨークシャーのバラブリッジに生まれる。 父エドワード、母ドーラ。23歳(1854年)の時に、医師の薦めで、アメリカ、カナダを訪れる。これを契機に、72歳(1904年)まで、通算30年に亙る世界各地への旅行を行う。女史が旅行した地は、ロッキー山脈、サンドウィッチ島、日本、マレー諸島、カミュールとチベット、ペルシャ、韓国、中国等。


明治11年の6月から9月にかけて、47歳(1878年)の時に、東北、北海道を旅行し、この時の記録を1880年10月に「日本奥地紀行」(原題「日本の未踏の土地」)(2巻)として出版。世界各地の辺地旅行記の出版などの功績が認められ、62歳(1893年)の時に、英国地理学会(Royal Geogrphical Society)の特別会員に選ばれています。

イザベラバード女史は東北旅行の折、米沢平野に立ち寄り「東洋のアルカディア(=桃源郷)」と称賛しました。


※擬洋風建築とは

幕末から明治10年代にかけて、欧米の建築を日本の大工職人が真似て建てた建造物です。
洋風建築に由来する形を持っておりますが、細部を見ると洋風、和風、時には中国風 の要素が混在しております。


明治 20 年代以降、西洋建築に対する認識が深まり正確に西洋様式の建築物が建設できるようになると、あまり作られなくなりました。 山形県内では、明治9年(1876)から明治 15 年(1882)まで山形県令を務めた三 島通庸によって大量の擬洋風の建築物が作られました。


彼は、はじめ鶴岡県令(1874~1876 年・当初は酒田県令、1875 年に県庁を鶴岡に移し鶴岡県と改める)でしたが、当地での任務の一つに旧庄内藩士勢力による一揆鎮圧がありました。その方法として武力による鎮圧のほか、近代化を目に見える形で示すために擬洋風の建築物を次々と建設し、街並みを一新することで、自らの権力及び明治政府の権威を誇示し、新しい時代がやってきたことを周囲に知らしめました。


そのやり方を山形県令に就任して、県都と定めた山形市においても踏襲し、済生館をはじめ、県庁、郡役所、師範学校など多くの擬洋風の建物を建築し、街並みの近代化を推進しました。


その後山形市街地は何度か大火にあっているため、三島県令が建設した建造物はほとん ど残っておりませんが、唯一、この済生館本館のみが現存しております。

旧済生会本館入口正面の柱

西洋の古典主義建築では、柱は一定の約束事にのっとった形で作られます。日本で明治時代に西洋建築を導入する際、建築技術とともに建築の美観に関わる様式もマスターした結果、装飾された柱を建築に取り込むようになりました。

ただし、擬洋風建築では設計者や大工が自らの思いのままに取り込んだため、統一性を欠 いている側面もあります。

済生館本館では、1階のベランダの独立柱は、ドリス式という柱頭(柱の上部)に比較的簡素な装飾をもつ柱が用いられています。対して中3階(階段室)のベランダの扉を支える柱は、コリント式という複雑な彫刻を柱頭に施しております。

このように、本館でも異なる様式の柱が各所で用いられており、全体の統一は図られていません。


漆喰壁

三層楼の1 階の外壁のみ、下見板ではなく漆喰が用いられています。漆喰とは石灰に砂、わらなどを加えて水で練ったもので、それを塗った壁を漆喰壁といいます。下地には木材の板を並べたものが使われています。1階ベランダは、天井も漆喰が用いられています。


軒蛇腹・テンテイル

軒の部分に軒天井という板を張って段々の構造にしたものを軒蛇腹、軒の部分に四角い歯型の飾りがちょうどすきっ歯のように一定の間隔で配される構造を、デンテイルとよびます。

和風と洋風の軒を比べると寺社建築を除けば、洋風のほうがこのようにさまざまな装飾を施していることが多いようです。 

旧済生会本館正面玄関ロビー前

ガラスが建具に使用されるのは明治になってからです。国産の板ガラスの製造が軌道に乗るのはさらに遅く明治末期になってからで、それまでは輸入ガラスに頼らざるを得ませんでした。そのため大きなガラスを手に入れることは困難で、小さなガラスを組み合わせて作るステンドガラスが盛んに用いられました。

旧済生会本館螺旋階段

2階から中3階(階段室)へ登るための階段です。ケヤキが用いられ、側面には唐草の彫刻が施されています。2 階の出入り口には、同じくケヤキの格子戸が附属しています。 唐草彫刻は、2 階ベランダを支える持送りにも施されています。擬洋風建築には、このように日本の伝統的な装飾がしばしば取り入れられています。 

済生館本館ベランダ

1階は切石敷きで独立柱を持つ吹き放しのベランダ、2階及び3階は両開き鎧戸付きのガラス扉をもつベランダ、中3階(階段室)は左右2組のガラス扉をもつベランダとなっております。

ベランダの始まりはイギリス植民地時代のインドにあると考えられています。ヨーロッパ的な石造りの密閉的な建築は熱帯気候のインドには合わず、日差しを避け通風を確保するために、現地の建築様式を取り入れ、内と外の間に開放的な空間を作ったのが始まりです。

擬洋風建築物でも積極的に取り入れられましたが、冬季に気温が下がる日本の気候にあわず、建具をはめ込んで内室化する改造が進められました。しかし、済生館のベラン ダは最後まで内室化されませんでした。
 

国指定重要文化財

旧済生会本館データ

主屋 木造、建築面積110.9m2、三重四階、初重桟瓦葺他亜鉛板葺
回廊 建築面積429.3m2、一重、桟瓦葺

重文指定年月日 : 1966年12月5日(昭和41年12月5日)

所有者 : 山形市

所在地 : 山形県山形市霞城町3番地

明治11年(1878)竣工の木造三重四階建の病院建築。屋根は桟瓦葺。背面に円形回廊を廻す。外装は下見板張。窓は上げ下げ式硝子戸で、外部には両開き鎧戸を付けてあります。回廊内側の柱間は開放させる。主屋の平面は、1階変形八角形、2階正十六角形、3階正八角形。擬洋風木造建築では規模が大きく意匠が特異。昭和44年移築。設計は筒井明俊氏。施工は原口祐之氏。


旧済生館本館(三層楼)ご案内

990-0826 山形市霞城町1番1号問合せ先:023-644-0253


ご参考

山形県及び東北地方の見どころについての関連情報は
下記リンク【寄稿文】からご覧ください

ZIPANG-2 TOKIO 2020「山の向こうのもう一つの日本【寄稿文】日原もとこ」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4539875



鎹八咫烏記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



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日原もとこ(色紐子)
東北芸術工科大学名誉教授 風土色彩文化研究所 主宰 まんだら塾塾長
日本デザイン学会名誉会員 日本インテリア学会名誉会員 アジア文化造形学会会長



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