Tokaido 東海道 01 (30/10/19) Shinagawa Shuku 品川宿
(0) Nihonbashi 日本橋
- 京橋碑 (石の擬宝珠)
- 煉瓦銀座之碑とガス灯
- 江戸歌舞伎発祥之地碑
- 銀座発祥之地碑
- 銀座柳の碑/新橋親柱
- 金杉橋
- 江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地
- 芝雑魚場跡/御穂鹿嶋神社
- 泉岳寺
(1) Shinagawa Shuku 品川宿
- 時宗音響山善福寺
- 土蔵相模跡
- 品川宿本陣跡
- 品川橋
- 天妙国寺
- 品川寺
- 幕府御用宿「釜屋」跡
- 海雲寺
- 浜川橋 (涙橋)
- 鈴ヶ森刑場跡
- 磐井神社
- 梅屋敷
- 六郷の渡し跡
東京滞在は9日間と少し長くなってしまった。肝臓の経過観察の定期検査も問題無く終わった。滞在中には毎日誰かと会食や飲み会で少々疲れた。今日も滞在を1日延ばしてゆっくりしようかとも思ったが、だれてしまうかも知れないので、予定通り出発する事にした。
東海道は4年前に京都から東京まで走ったのだが、その頃は旅日記をつけていなかったし、走る方が主体で、史跡は宿場だけしか見ていなかった。今回は東京出発で街道沿いの史跡を見ながら走ろうと思う。どれぐらいの期間になるのだろうか。
(0) Nihonbashi 日本橋
日本橋は数えくれないくらい来ている。以前走った日光街道や中山道の起点なのでいつも自転車旅のスタート地点だ。
東京には橋が多い。江戸時代に川を通し、橋を架けて大江戸が完成した。当時でも世界的大都会だった。日本橋の上に高架道路がある。これは昔の景観を台無しにしている。前の東京五輪に合わせて運河の上に道路を作った為だ。多分、短期間で完成させるには用地買収に問題があり、所有者のいない運河をルートにしたのだろう。当時は史跡保護よりも戦後の復興で世界に日本の産業立国を印象付けるためにも必要だったのだ。これも歴史の一部分だ。
ずうっと地方を旅して来たので、東京の写真を撮るとあらためて大都会を感じる。建物の多さ、高さ、色々なデザイン、それに歩いている人のファッションも地方に比べて洗練されている。だからどうなのかとも思うが、もう東京は自分がすんなり溶け込める場所ではない様な気がする。少し浮いている自分を感じる。
狛犬と欧米スタイルの竜のデザインで橋の欄干が飾られている。当時の時代を感じる。明治以降、西洋化を目指した。とは言ってもどこか日本的なものがミックスされている。
京橋碑 (石の擬宝珠)/煉瓦銀座之碑とガス灯
日本橋から京橋に進む。史跡は完全な形で残っているものは少ない。高度成長で撤去されたもの、空襲で消滅や破壊されたもの。部分的にでも残っていれば、少しは当時を想像する材料にはなる。京橋も、昭和34年 (1959) に京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では明治8年 (1875) と大正11年 (1922) 当時の三本の親柱が残っているのみ。銀座は明治5年 (1872) に大火で全焼。不燃化計画として耐火構造の銀座煉瓦街が建設され、ガス灯も明治7年 (1874年) に設置された。しかし関東大震災で煉瓦街は壊滅的な被害を受け消滅。その後、昭和31年に、当時のままの「フランス積み」という方式で再現された物がここに残っている。
江戸歌舞伎発祥之地碑
すぐ近くに江戸歌舞伎発祥之地碑なる物があった。歌舞伎の歴史には疎い。戦国時代に女歌舞妓の阿国から若衆歌舞伎、それが風俗の乱れ (遊女や男娼) で禁止され、野郎歌舞伎となり発展した理解していたのだが。説明板では寛永元年 (1624)に猿若中村勘三郎が中橋 (現在の日本橋と京橋の中間) に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まり。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋であった。市川団十郎や尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったとある。歌舞伎は今では少し敷居が高くなったが、現代的な歌舞伎も考案されており、大衆化に努力しているようには見える。この碑の隣に京橋大根河岸青物市場跡がある。江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋 (中ノ橋) から京橋にかけて、青物市場があり、通称「大根河岸」と呼ばれた。寛文元年 (1661)、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりと言われている。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ、市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で水運の便がいい京橋川に市は移転し、江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれるようになった。
昭和初期の大根河岸の様子
銀座発祥之地碑
京橋から銀座へ。江戸時代の慶長17年 (1612) に 銀貨鋳造所を駿府城下からこの地に移した。当時は新両替町と呼んでいたが、通称で銀座と呼ばれていた。銀座は明治2年に造幣局の設立に伴い廃止されるまで続いた。廃止された年に町名が銀座になった。今では高級ブランドショップが立ち並ぶ、自分にはほとんど縁がない街となっている。平日というのに人が多い。こんなに多くの人が仕事もしないで銀座に集まって来る。アップルの店の前には長蛇の列。何か新製品でも発表したのか? いづれも縁がない所だ。
銀座柳の碑/新橋親柱
銀座を過ぎ、高級感が薄まった新橋に来た。明治20年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌った歌謡曲が全国に風靡。その記念碑が昭和29年に建てられた。かつてここに流れていた汐留川 (徳川家康が江戸城を築く際、日比谷入り江を埋め立てた時に造られた人工の川) に架かっていたのが新橋。その遺構が建っている。
金杉橋 (かねすぎばし)
江戸時代に東海道の公儀橋 (幕府の費用で架けられた橋の事) として架橋された。近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから金杉橋と名づけられた。
江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地
改装中で今はどこかに保管されている。写真が工事現場にかかっていた。ここはもう江戸城に近い。ここまで新政府軍は迫っていたのか。江戸に人々には脅威だっただろう。
芝雑魚場跡 (しばざこば) / 御穂鹿嶋神社 (みほかしまじんじゃ)
ここはかつて日比谷入江と呼ばれ、江戸時代以降に埋め立てが進んだ地域。芝金杉は漁業で栄えており、“芝”海老は芝金杉浦の特産であった。東海道が整備されるにつれ、東海道そばにあった芝金杉地区には雑魚場と呼ばれる魚市場が形成され、残った魚は雑魚場で売られていた。将軍家に納める高級魚以外の魚、つまりは雑魚を売る市場だったから雑魚場といったそうだ。芝金杉雑魚場は江戸末期から次第に衰退し、昭和43年(1968年) に漁業権を放棄、昭和45年 (1970年)には完全に埋め立てられて、現在の本芝公園となっている。ここには御穂神社と鹿嶋神社が合祀された御穂鹿嶋神社がある。御穂神社は文明11年 (1479)、鹿嶋神社は寛永年間 (1624~44) の創祀と伝えられている。昼休みで多くのサラリーマンがここにたむろしてスマホをいじっている。皆んなポケモンゴーをやっている。仕事のストレス解消か? 見ていて少し気の毒に感じた。
泉岳寺
ここは赤穂浪士が吉良上野介を討ち果たし、東海道を下り主君の浅野内匠頭の菩提寺であるここ泉岳寺にみしるしと共に報告に来たところ。赤穂浪士の墓が浅野内匠頭の墓の隣にある。
赤穂浪士の墓 今年も年末に討ち入りドラマが放映されるのだろうか。赤穂浪士はいつまでも大人気だ。
浅野内匠頭と奥方の墓
(1) 品川宿 Shinagawa Shuku
品川宿は東海道1番の宿場で日本橋から2里 (7.9km) の距離。本陣2軒 (うち1軒は江戸中期に廃業)、脇本陣2軒、戸数1,561戸、人口6,890人。
東海道の第一宿で目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿 (かちしんしゅく) と三つの区域から成ち、岡場所 (色町、遊廓、飯盛旅籠) では大勢の飯盛り女で大繁盛していた。(幕府の許可は500人であったが、全盛期には2000人程いた) 吉原の“北夷”に対して“南蛮”と云われたほど。遊廓としての賑わいは、第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかった為、昭和33年 (1958年) の売春防止法施行まで続く。
時宗音響山善福寺
創建は鎌倉時代の永仁二年 (1294年) と相当古いお寺。本堂の壁面には漆喰彫刻が施されている。
土蔵相模跡
旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年 (1860) には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催した。
品川宿本陣跡
品川宿の本陣跡。かつては北品川、南品川に1軒ずつあったが、江戸時代中期頃に南品川の本陣が廃止になり、北品川の本陣だけが残された。明治元年 (1868年)、明治天皇の行幸の際には行在所となり、跡地は聖蹟公園として整備されている。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門、玄関、書院などがあり、大名行列の駕籠や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を帰した関札を建て、紋の入った幕を掲げたという。品川宿の本陣はまた、明治維新の大政奉還に際し、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎の行在所 (あんざいしょ) にもなった。明治5年 (1872)、宿駅制度が廃止された後警視庁品川病院となり、昭和13年 (1938) 聖蹟公園となった。
品川橋
旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には境橋と呼ばれていた。最初は木の橋であったが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと代替わりをして来た。
天妙国寺
弘安8年 (1285年)、日蓮の弟子・天目が創建。当時は妙国寺。15世紀には、品川湊の豪商・鈴木道胤の寄進により五重塔を含む七堂伽藍が建立。天正18年 (1590年)、徳川家康が江戸入府の前日に天妙国寺を宿所としたことから、徳川将軍家との所縁が生まれ、寺域や門前町が拝領地となり、10石の寺領を寄進された。初代徳川家康1回、二代徳川秀忠2回、三代徳川家光44回の来遊が伝られている。五重塔 (礎石跡 写真右下) は元禄15年 (1702年) の江戸大火により焼失。
品川寺(ほんせんじ)
寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806 – 810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。
ここにある梵鐘は明暦3年 (1657年) に鋳造され、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。この鐘は幕末にパリ万博 (1867年)、ウィーン万博 (1873年) に展示されたのだ、その後所在不明となっていた。スイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることがわかり返還交渉により昭和5年 (1930年)、同市の好意により品川寺に返還された物。
幕府御用宿「釜屋」
南品川 (現在青物市場) にあった釜屋は立場茶屋 (宿場間で旅人がお茶や食事をして休息する場所) であったが、本来の休息所から旅籠に発達し、幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となっていた。 土方歳三ら新撰組が定宿としていた。
海雲寺
この寺は、1251年 (建長3年) 不山が近くの海晏寺内に建てた塔頭庵瑞林に始まると伝えられる。当初臨済宗に属したが、1596年(慶長元年)五世分外祖耕により海晏寺から独立して曹洞宗に改められ、1661年 (寛文元年) 海雲寺に改名した。
ここには平蔵地蔵 (右下) と呼ばれる地蔵があり逸話が伝えられている。平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てた。
浜川橋 (涙橋)
この後に行く鈴ヶ森の刑場に向かうには、立会川にかかる泪橋を渡る。泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。
鈴ヶ森刑場跡
ここには何度も来た。江戸時代 1651年 (慶安4年) に開設された処刑場跡。泪橋から数分の第一京浜道路との合流点のところにある。八百屋お七の火あぶり台や慶安の変の丸橋忠弥や天一坊の磔台がある。1871年 (明治4年) 閉鎖されるまでの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われている。ここにはこの処刑場が開設されときに建立された大経寺がありここで処刑された無縁受刑者供養を行なっていた。
磐井神社
創建年代等については不詳だが、敏達天皇の代の創建と伝えられている。貞観元年 (859年) に武蔵国の八幡宮の総社 (総社八幡宮) に定めたといわれている。江戸時代には、将軍家の帰依を得て、鈴ヶ森八幡宮とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる鈴石と呼ばれる鈴のような音色のする石 (写真下の丸い石) によるものとされる。ここには珍しい狛犬がおり、子犬をそれぞれ3匹づつ連れている。
東海道七福神の一つで弁財天が祀られている。
第一京浜道路の歩道に磐井の井戸がある。江戸時代には東海道の旅人が利用していた。
磐井神社を過ぎてしばらく行くと第一京浜から旧東海道が数百メートル残っている。商店街があるが品川ほどでなくすぐに住宅街になっている。
梅屋敷
第一京浜道路沿いに大森駅の次の駅に梅屋敷と言うのがある。名の如く、ここには梅屋敷があった。今は公園になっているが、江戸時代に薬屋を営んでいた山本久三郎が、文政年間に梅を始めとする多くの木を植え、茶屋を開いたことが起源。文政のころは、蒲田の梅屋敷と亀戸の臥龍梅で人気を二分していた。園内には明治天皇御座所と茶屋本屋があったが1945年4月15日の空襲により焼失。
六郷の渡し跡
多摩川を川崎市側に渡った袂に六郷の渡し跡がある。多摩川の河川敷は先の台風で泥だらけになっている。復旧には時間を要するらしい。最近は毎年、何らかの自然災害が発生している。異常気象なのだろうか。ここには
関が原の戦いがあった慶長5年 (1600) に徳川家康が六郷大橋を架け、関ヶ原へはこの橋を渡り進軍した。多摩川における最初の架橋であった。それ以来、修復やかけ直しが行われ、元禄元年の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなっていた。当初渡船は、江戸の町人が請け負っていたが、宝永6年に川崎宿が請け負うことになり、それによる渡船収入が宿の財政を大きく支えたという。明治7年 (1874) に鈴木左内による六郷橋 (左内橋) が架けられた。しかし何度も洪水で流されそのたびに渡しが復活。そして、大正14年 (1925) に堤防間を結ぶ六郷橋が完成。
左内橋 (左下)、六郷橋 (右下)、明治の渡し舟 (右上)
もう5時近くなって日も暮れかけている。今日は川崎宿までもう少しの所だがここで打ち切り、宿を探す。東京程の安宿は見つからなかったが、それでも安いカプセルホテル形式の宿を川崎大師の近くで見つけ、5時半にチェックイン。日も短くなって来ており、出来れば時間制のインターネットカフェより長く入れるゲストハウスやカプセルホテルの方が良いだろう。