Interview:ミヒャエル&シュペッキ(In Extremo) 2019.10.4@赤羽ReNY alpha
来年、結成25周年を迎えるドイツはベルリン出身の7人組、IN EXTREMO。その出自はとてもユニークだ。何と、中世古楽を演奏する楽団とロック/メタル・ミュージシャンが合体することでバンド結成に到ったのだ。よって、メンバーには古楽器奏者が複数おり、欧州各地の古謡や伝承歌をハード&ヘヴィにアレンジし、バグパイプやハープ、シャルマイ(チャルメラ)などが乱舞するそのサウンドは、中世ロック、古楽メタルなどと呼ばれる。
これまで日本の音楽メディアではあまり大きく取り上げられることがなかった彼等が、先日、奇跡の初来日を果たした! バンドにとっても日本でライヴを行なうことは念願だったという。今回、東京公演当日のリハ後、ショウ本番前のバックステージにてインタビューに応じてくれたのは、バンド創設メンバーのひとりで、絶対的フロントマンであるミヒャエル・ロベルト・ライン(ステージネームはDas Letzte Einhorn)と、'10年加入のドラマー、シュペッキことフローリアン・シュペックアルト(ステージネームはSpecki T.D.)。限られた時間で四半世紀に及ぶバンドの全てに迫るのは流石に不可能…ということで、2人には思い付くままに色々と質問をぶつけてみた!!
インタビュー・文・写真:奥村裕司
通訳:Uncleowen
──まずは、初来日ツアーの初日公演を迎えた今のお気持ちから聞かせてください。
フローリアン“シュペッキ”シュペックアルト:最高だね!
ミヒャエル・ロベルト・ライン:いや…キツくもあるよ。飛行機での移動が長時間だったからな(苦笑)。でも、もう大丈夫だ。東京に着いたその日に、ストリートのリアルな夜を楽しめたから。こういうのって重要だと思う。初めての東京で、「どうなんだろう?」と思っていたけど、すぐに気に入ったよ!
シュペッキ:うんうん。昨日は楽しかったな。(浅草)観光にも連れて行ってもらえたし。ミヒャエルが言うように、新しく訪れた場所では、どの国でも俺達はまず、ストリートや街に出て、人々がどういった生活をしていて、どんな気持ちでいるのか…ってことを知ろうとする。そうしたことを理解するのって重要だよ。そうすれば(※感覚を共有することが出来れば)、俺達が受けた感動を、そのままステージにぶつけることだって出来る。そして、感動的なショウに仕上げられるのさ。
──日本に関しては、どんなイメージを持っていましたか?
ミヒャエル:日本人に関してかい?
──日本人だけでなく、日本という国、日本の文化など、全てに関してです。
シュペッキ:日本については、色々と知っているつもりだよ。ヨーロッパにも日本人は沢山いるし、日本製の商品だって溢れ返っているし、勿論、日本食レストランもそこいら中にある。キミ達が思っている以上に、日本とヨーロッパは近い存在なんだ。
ミヒャエル:ああ、そう思うな。
シュペッキ:日本のオーディエンスについても、他のバンドなどから色々と教えてもらっていたよ。日本でプレイしたことがあるバンドからは、「日本のオーディエンスは本当に最高だ。とても親切で、とても礼儀正しく、手拍子を求めたらやってくれるし、曲間のMCもしっかりと聞いてくれる。ドイツみたいに、カオティックになったりクレイジーになり過ぎたりはしない」と聞いてるし。
ミヒャエル:俺は友人のミレ(・ペトロッツァ:KREATOR)に連絡して、「どんな感じだい?」と訊いたんだ。そしたら、ヤツは何て言ったと思う? 「行けば分かるよ!」…だとさ! それだけだったよ。でも、別にからかわれたワケじゃない。確かに、行けば分かるんだろうな…って思ったね。
──'09年に中国のイヴェントに出演したことがありますよね? その時、日本にも来るという話はなかったのですか?
ミヒャエル:なかったな。でも、5年ぐらい前だったか──それとはまた別の時に、日本からオファーを受けたことがあったよ。ただ、レコーディング中だったんで、どうもタイミングが悪かった。
シュペッキ:『KUNSTRAUB』('13)の作業をやっていたんだ。だから、アルバムを仕上げることが優先事項でさ。え〜と…何だっけ? 東京で開催される大きなフェスティヴァルなんだけど…。
──もしかして“LOUD PARK”ですか?
シュペッキ:そうそう、“LOUD PARK”だ! でも、ダメだった。またチャンスがあったら出たいね。
ミヒャエル:ああ。是非とも!
──残念ながら、ここ数年“LOUD PARK”は行なわれていなくて…。
シュペッキ:そうなんだ!
ミヒャエル:そしたら、他のフェスでもイイよ。誰かこのインタビューを見ていたら、連絡してきてくれ!(笑)
──中国での公演も、フェス出演だったのですか?
シュペッキ:音楽交流イヴェント…かな。音楽見本市というか。とにかく、中国とドイツの文化交流を目的とする催しだったんだ。
ミヒャエル:何だか奇妙な感じだったな。特に、東ドイツ生まれの俺にとっては…ね。それまで中国のシステムとは全く無縁だったから、凄く不思議な感覚があったよ。
シュペッキ:俺達みんな、ただの観光客になってたね(笑)。
ミヒャエル:でも、ひとつ印象的なことがあって…。お客さんは、1万人ぐらいいたのかな? すると、俺達の出番の前に警官隊が20〜25人ぐらいやって来て、(別バンドの演奏中に)盛り上がっている観客の中へ飛び込んでいったんだ。よく見ると、観客を棒で殴っているじゃないか! みんな怖がって、「一体、何が起こったんだ?」って感じだったよ。しかも、その警察の詰め所が俺達の楽屋のすぐ隣でさ…。みんなで楽器の準備をやっていたら、ジロジロ見られちゃって。きっとヘンな連中だと思ったんだろうな。確かに、バグパイプを“プゥ〜っ! パァ〜〜っ!”なんて鳴らしてると、気になっちゃうんだろう(笑)。
そしたら、ひとりの警官が近寄ってきて、「この楽器は何だ?」と訊いてきた。その時、俺は「よし!」と思ったよ。それで、その警官にCDとかグッズをあげて、「一緒に写真を撮ろう」と言ったんだ。みんな喜んでたよ。そして俺は、彼等にこうも言った。「これから俺達のステージだから、観客が盛り上がるのを邪魔しないでくれ」「他の警官達にも、そう伝えておいてくれないか?」…とね。その警官は「OK、分かった」と言って、その後のショウ本番で、俺達は何事もなく演奏することが出来たんだ。あれはラッキーだったな。まぁ、“賄賂”が効いたんだけどさ(笑)。
──ここでちょっと基本的な質問を。IN EXTREMOは古楽を演奏するミュージシャンとロック・バンドが合体して生まれたそうですが、そもそもの結成のキッカケを教えてもらえますか?
ミヒャエル:25年前のことだ。俺はトリオのアコースティック・バンドをやっていた。中世マーケットなどで演奏していたよ。ステージなんてない。路上でパフォームしていたのさ。言わばストリート・ミュージシャンだな。ただ、俺はそれ以前にロック・バンドにもいたことがある。当時、東ドイツで幾つかのバンドをやっていてね。パンク、ブルース…何でもやった。“ピッグ・ロック”なんて呼ばれていたよ。
でも、いつかロックと中世古楽をミックスさせたバンドがやりたいとずっと思っていたんだ。そんなある日、そのアコースティック・バンドのバグパイプ奏者が、「やろう! やるべきだ!」と言ってくれてね。それで、友人のカイ(・ルッター:IN EXTREMOでのステージネームはDie Lutter)とギタリストに連絡してみたところ、「イイね!」となってさ。みんなでバーに集まって、その時、IN EXTREMOが誕生したんだ。
──IN EXTREMOというバンド名はラテン語から採ったそうですね?
ミヒャエル:え〜と…英語だと何て言うんだっけ?
シュペッキ:う〜ん…。
ミヒャエル:(たまたま通りかかったFIDDLER'S GREENのメンバー達に訊いて) あ〜そうか、“Finally(遂に/最終的に/結局のところ)”だったか!
シュペッキ:ああ、そうだそうだ。“Finally”が一番近い。全く同じ意味というワケではないけど。
──ロゴに絞首台がデザインされていますよね? ステージに置いてある時もあります。アレは何を意味しているのですか?
ミヒャエル:中世マーケットで演奏していた時、バックドロップなんて持っていなかったから、「ああ、ちょうど良い木があるな」と、その辺にあった木を組んで(絞首台を)作ったのさ。言わば、バンド最初期のステージ・セットだな。何でそうしたのかは、今となっちゃ全く憶えていないけど…。
シュペッキ:まぁ、バンドのマスコットみたいな存在だよね。
──'97年リリースのデビュー作『IN EXTREMO(DIE GOLDENE)』は、ほぼ全編がアコースティックの古楽作品ですが、当時はまだロック・バンド編成ではなかったのですか?
ミヒャエル:ああ、これはアコースティックのヤツだな。(…と、ジャケットを手に取る)
シュペッキ:ちょ…ちょっと、俺にも見せてくれ。このバンドに入ってもうすぐ10年になるけど、オリジナル・アルバムの現物を見たのは初めてなんだ!
ミヒャエル:俺の手元にも3枚しか残っていない。今となっちゃ(オリジナル盤は)かなりのレア盤だからな。このジャケットは友達が描いてくれたんだ。
──『IN EXTREMO』には、最後に「Como Poden」と「Villeman Og Magnhild」がロック・チューンとして収められていますが、もしかして、アルバム制作途中にロック編成が整ったのでしょうか?
ミヒャエル:それが“始まり”ってことさ。「今スタジオにいるから来ないか?」って、友達を呼び出して、ロックな曲もやってみたんだ。それで、初めて(ロック・スタイルで)一緒に演奏したのがそれらの曲さ。誰もこんなロック・ソングを聴いたことがなかったから、みんなビックリしていたよ。
──当時のラインナップは?
ミヒャエル:俺とピモンテ(Dr. Pymonte:アンドレ・シュトゥルガーラ)、マルコ(・エルンスト=フェリックス・ツォルツィツキー:ステージネームはFlex Der Biegsame)、ボリス(・プファイファー:ステージネームはYellow Pfeiffer)の4人だな。そこに、カイとギタリストが合流したんだ。
──そのギタリストとは?
ミヒャエル:トミーってヤツ(トーマス・ムント:ステージネームはThomas Der Mnzer)だ。でも彼は半年ぐらいしか在籍しなかったよ。(※実際には、'99年まで在籍) ちょっと体調を崩してしまってね。それで、新しいギタリスト(現メンバーのゼバスティアン・オリヴァー・ランゲ:テージネームはVan Lange)を加えたのさ。新しい…といっても、もう20年以上前のことだけど(笑)。まぁ、ごく初期から知ってるヤツにとっちゃ“新メンバー”だよな。AC/DCにしたって、(ブライアン・ジョンソンを)“ニュー・シンガー”扱いするヤツがいる。もう何十年も歌ってきてるのに、“新しいヴォーカル”って呼ばれるんだからなぁ。
──セカンドの『HAMELN』('98)も、依然アコースティック主体ですが、このアルバムってコンセプト・アルバムなのでしょうか?
ミヒャエル:いや違うよ。
──ナレーションで物語が進んでいくのかと…。
ミヒャエル:確かに、ナレーションが入ってるな。でも、普通のアルバムだよ。コンセプトやストーリーはない。
シュペッキ:俺達は“ハーメン”って発音するんだけど、これはドイツの街の名前だよ。この(ジャケットの)ネズミは“ハーメンのネズミ”ってワケ。有名なおとぎ話の……
──ああ、日本でも有名ですよ。
シュペッキ:えっ…?
ミヒャエル:マジか! ドイツ語では『Rattenfanger Von Hameln』というんだけど。
シュペッキ:同じストーリーなのかな?
──そのハズですよ。日本語では『ハメルーンの笛吹き男』ですね。英語だと…『The Pied Piper Of Hamelin』かな?
ミヒャエル:なるほど。
シュペッキ:いや…しかし、日本人があの物語を知ってるなんて不思議な感じがするよ(笑)。
──そして、サード『WECKT DIE TOTEN!』('98)で、IN EXTREMOは遂にメタル・バンドになります。
ミヒャエル:ああ。このアルバムからギターとベースが本格導入され、古楽とロックが融合されたIN EXTREMOがスタートするんだ。当時、ファースト・アルバムは結構売れてね。それで金を手にした俺達は、ロックをプレイするための楽器を買い揃えていったのさ。そういう意味では、このアルバム(『WECKT DIE TOTEN!』)が本当の始まりと言えるのかもしれないな。セカンドもまた売れたから、今度はアンプといった器材/機材を買うことが出来た。さらに、スタジオ代にも予算をかけることが出来るようになったんだよ。
シュペッキ:『WECKT DIE TOTEN!』というアルバム・タイトルは、“死者を目覚めさせる”という意味なんだ。
ミヒャエル:そうそう。俺達は(ロック/メタル・サウンドで)それを目指したのさ!(笑)
──次のアルバム『VEREHRT UND ANGESPIEN』('99)で、アメリカの有名なメタル・レーベル、メタル・ブレイドと契約を交わしますよね? どんなキッカケで?
ミヒャエル:俺達が契約したのはドイツのメタル・ブレイドで、そこからドイツのユニバーサル・ミュージックとの関係につながっていくんだ。このアルバムは、マーキュリー傘下のメガルクスの配給でもリリースされたし、実際かなり売れたからね。ドイツのアルバム・チャートに入って(※第11位)、何週も売れ続けたんだよ。でも、当時は俺達にも状況がよく呑み込めていなかった。とにかく驚いたし、何か起こってるんだかよく分からなかったね。
──メタル・ブレイドと契約したことで、アメリカでプレイする機会もありましたか?
ミヒャエル:あったよ。3〜4公演はやったかな?
──アメリカのどこを廻りましたか?
ミヒャエル:え〜と…忘れた(笑)。もう随分と前のことだからな。確かニュージャージーと、あとは…テキサスのどこかだったと思うけど。
シュペッキ:ヒューストンじゃない?
ミヒャエル:いや、オースティンだな。'99年だったか、'00年だったか…。
シュペッキ:そうそう、オースティンだよ。ニュージャージー、オースティン、それから…LAもだ。
──その後、第5作『SUNDER OHNE ZUGEL』('01)でさらにヘヴィな路線を採るようになり、インダストリアル・テイストが加味されましたよね?
ミヒャエル:俺達はアルバムを出す度に何かしら変化を遂げるんだ。それってバンドにとって重要なことだろ? 同じことをずっとやり続けるのなんて無理だからね。分かるだろ? 変わっていって当然だよ。
──『SUNDER OHNE ZUGEL』と、次の『7』('03)の方向性からは、RAMMSTEINの影響を感じます。当時、彼等にインスパイアされたということは?
ミヒャエル:いいや、全然。全く違う音楽をやっているよ。俺達はみんな、それぞれ異なる音楽を聴いているから、それが出ただけさ。
──“ノイエ・ドイチェ・ヘァテ”との関連は?
シュペッキ:おっと…出たね!(笑)
ミヒャエル:それもない。当時も同じようなことを言われたけどな。「RAMMSTEINの影響は?」「ノイエ・ドイチェ・ヘァテについてどう思いますか?」…ってさ。どっちも関係ないよ。そもそも、ノイエ・ドイチェ・ヘァテって何なんだ?(笑)
シュペッキ:ドイツの音楽シーンの中でも、とりわけ小さなシーンのことだな。CLAWFINGERとか…その手のヤツだよ。いや、彼等はドイツ人じゃないんだけど(※スウェーデン出身)、当時ドイツでこの手の音を演奏していたバンドが、「俺達はCLAWFINGER的な音楽をドイツ語でやっている。だから、俺達は“Neue Deutsche Harte(新しいドイツのハード音楽)”なのさ」と発言したんだ。俺達にはよく分からなかったけどね。
ただ、バンドやミュージシャンって、みんな自分とその音楽を表現する言葉を必要としている。「俺達はポップだ」とか、「メタルだ」とか「ロックだ」という風に。そんな中で、「俺達はノイエ・ドイチェ・ヘァテなんだ」って、自らを表現する言葉を生み出したヤツらもいたというだけさ。実際、自分達の姿勢や気持ちを言葉で表現するってのは、まぁ重要だよね。
──RAMMSTEINのことは、彼等がブレークする前からご存知でしたか?
ミヒャエル:ああ、勿論さ。
──彼等のことをライヴァル視していましたか?
ミヒャエル:ある意味ではそうかもしれないけど、俺はあまり好きじゃない。俺にとって彼等は“軽い”し“薄い”からな。
──では、IN EXTREMOが進化していく中で影響を受けたバンドやアーティストというと?
シュペッキ:みんな、それぞれ違うよ。このバンドにはメンバーが7人もいるんだからな。カイはブルースやジャズに入れ込んでいるし、ボリスはヘヴィ・メタルが好きだ。それに言うまでもなく、古楽チームは中世音楽から強く影響されている。
ミヒャエル:オマエはどうなんだ?
シュペッキ:俺かい? そうだな…。
ミヒャエル:暗い音楽が好きなんだろ?
シュペッキ:ああ、そうだよ。暗黒音楽──暗くて、お化けが出てきそうな…って、まぁイイや(苦笑)。ともあれ、このバンドの面白いところは、7人それぞれの影響を絶妙に組み合わせてきたという点にあるんだよ。7つの個性をどう音楽に繁栄させるかという…ね。ずっとそうしてきたのが、俺達の成功の鍵なんじゃないかな。
──ミヒャエルとしては、このバンドをスタートさせる際、「〇〇みたいになりたい」というのはなくて、最初から自分達独自の音楽をつくり上げたいと思っていたのですね?
ミヒャエル:その通りだ。
シュペッキ:人生は一度きりだからな。チャンスは1回のみ。やるか、やらないか──それだけさ。中途半端はない。
ミヒャエル:ああ、そうだな。
──'03'年に出したシングル「Kuss Mich」(『7』収録)を初めて聴いた時、あまりにポップで驚きました。この曲はシングル・ヒットを狙って書いたのでしょうか?
ミヒャエル:あの曲は、俺達にとって初めてのポップ・ソングだった。でも、ポップっていうか、それ以前に“イイ曲”だろ? それで、この曲を聴いたレコード会社の連中が「シングルにしよう」と言ったんだ。すると、初めてドイツのシングル・チャートに入って、しばらくヒットし続けたのさ。PVもよく流れていたし、この曲のおかげで色々とバンドの状況が変わっていったよ。でも、ヒット曲を書こうと思ったりはしていない。イイ曲を書いたら、それが売れた──それだけのことさ。
──その後、IN EXTREMOの人気はどんどん高まっていって、今や出すアルバム全てがチャート上位に食い込んでいます。バンド始動時、こうなることは予測していましたか?
シュペッキ:まさか!(笑)
ミヒャエル:ただ単に、楽しんで音楽をやってきただけだよ。その結果、どんどんのし上がっていったのさ。誰も今のような状況になるなんて予想していなかったね。時々「俺達は売れたくなんかない」と言うバンドがいるだろ? アイツらみんな嘘吐きだ。だって、そうだろ? やるからには、みんな売れたい──それが真理だね。
──IN EXTREMOはずっと、ヴィジュアル面でもインパクトを放ってきました。初期は古代ローマ軍みたいな恰好をしていたし……
ミヒャエル:いやいや、アレは(ローマ軍の)兵士なんかじゃない。中世ドイツの装束だよ。800〜900年前の…ね。あと、俺達はファンタジーも好きだから、歴史や伝統とファンタジーをウマくミックスさせてきたとも言える。この(『VEREHRT UND ANGESPIEN』頃の)恰好とか、普通にカッコいいだろ?(笑)
──クールですね! でも、かつてはIN EXTREMOというと、上半身裸というイメージが強かったのですが(笑)、最近は脱ぎませんよね? 流石にトシを食った…ということでしょうか?
ミヒャエル:ハハハ…。いやいや、俺達はファンタジーの世界の住人だから、年は取らないんだ(笑)。
シュペッキ:でも、もう裸にはならなくてイイかも。
ミヒャエル:そうだな。ありがとよ(笑)。今夜のショウでは、きっとシュペッキがパンイチで出てくるよ。
シュペッキ:おいおい!(苦笑)
──ミヒャエルが10代の頃、東ベルリンでは西側のバンドのアルバムなどは手に入りましたか?
ミヒャエル:いや、とんでもない。そんな機会はなかったね。
──西側のラジオ番組は聴けたんですよね?
ミヒャエル:俺は“壁”の近くで生まれたんだけど、ラジオで西側の電波を捉えることは出来た。そういえば…ある時、(西側の)レコードを手に入れるためにブルガリアまで出掛けて行った連中がいてね。DEEP PURPLE、THE DOORS、LED ZEPPELINなんかのアルバムを入手してきたよ。俺がガキの頃、西側で何が起こっているのかを知るには、そういった人達から話を聞くしかなかったんだ。彼等にはアルバムも聴かせてもらったし。
とはいえ、全く(西側のアルバムが)手に入らなかったワケではなかったね。そういう場所(※ブラック・マーケット?)もあるにはあった。でも、1枚100マルクとかするから、ガキにはとても買えない。もし、誰かが何かレコードを手に入れたら、20人ぐらい集まってきて、ビールを1ケース用意し、みんなでそれを聴き狂っていたものさ。「これがXXか!」「スゲー!!」…なんて言いながらね。でも…いま思えば、それはそれで楽しかったな。そういったことは、俺にとって人生の学校のようなモノだったから。
──当時、自由を求めて西側に行ってみたいと思っていましたか?
ミヒャエル:時々そう思ったこともあったよ。でも、本当にヤバいんだ。(壁を越えようとしたら)撃たれちまうからな。そんなのゴメンだね。
──さて、あと数時間後に日本での初ライヴが幕を開けますが、今夜のショウを手始めに、日本でもファンがさらに増えていくでしょうね!
ミヒャエル:ああ、そう思うよ。俺達のステージを観てくれれば、音楽は勿論のこと、何かパワーのようなモノも感じてもらえるハズだ。俺は日本に可能性を感じている。ロックが盛んな国だからな。今回は小規模なツアーだけど、それもたまにはイイ。しかし、やっぱりもっとデカいツアーがやりたいよ。これで満足なんてしてられない!
シュペッキ:まぁでも、ようやく初のジャパンツアーだからね。まずは来られたことだけでも喜ばしい。
ミヒャエル:そうだな。25年かかった…いや、日本に来るためにこの25年間やってきたとも言えるよ。ここまで本当に長かった…。今後は、毎年でも来日ツアーがやりたいね。
実は来年、ロシアでライヴを行なう計画があってさ。2都市程度の公演だから、デカいツアーではないんだけど、どちらも2時間半以上のフルセットでやろうと話している。ロシアから日本って、そう遠くないだろ? ロシアから直で飛んで行けたら、日本でもライヴが出来るんじゃないかと考えているんだ。
──それは良いアイディアですね! 実現することを祈ってます!!
シュペッキ:是非そうしたいね!
ミヒャエル:(日本語で)アリガトウ!!