Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 03 (1/11/19) Totsuka Shuku 戸塚宿

2019.11.01 12:52

(3) Kanagawa Shuku 神奈川宿

(4) Hodogaya Shuku 保土ヶ谷宿

(5) Totsuka Shuku 戸塚宿

神奈川宿の最後の部分を再開して、戸塚宿を経て藤沢宿を目指す。



大綱金刀比羅神社/一里塚

この神社は、社伝によると平安末期の創立で、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また、江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


田中家

旧東海道の坂の途中に田中家がある。坂本龍馬の妻のおりょうが明治になり龍馬暗殺後、勝海舟の紹介で働いていた。龍馬が存命なら、公爵夫人などになり楽な暮らしができたのだろう。ただ龍馬もおりょうも明治政府のドロドロとしたそんな暮らしは望まなかったかもしれない。

田中家は元はさくらやの号で安藤広重の浮世絵にも登場している。この坂も描かれている。


神奈川台の関門跡

ここが神奈川宿の西の入口。東にもあったのだが、昨日訪れた長延寺跡の土居が東の入り口に当たる。ここで神奈川宿を後にする。


勧行寺

本堂の中はキリスト教会の様だ。こんな明るい本堂も良いのではと思う。天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕の墓がある。(新撰組局長近藤勇は四代目にあたる)


浅間神社 (せんげんじんじゃ)

芝生浅間神社の創建年代は不詳ながら、承暦4年 (1080) に富士浅間神社の分霊を奉祀したとも、源頼朝が文治元年 (1186)、橘樹郡神奈川在芝生村 (現今の浅間町) に富士山の形状の山地あるをトして社殿を創築したとも言われている。


八王子道追分

ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所。

ここから保土ヶ谷宿の入口付近まで賑やかな商店街が続く。地元のおばさんが大勢買い物に来ている。


(4) Hodogaya Shuku 保土ヶ谷宿

保土ヶ谷宿は東海道4番の宿場で神奈川宿から  1里9町 (4.9km) の距離。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒、戸数558戸、人口2,928人。


江戸方見附跡

ここから保土ヶ谷宿が始まる。


橘樹神社

創建は鎌倉時代初期(1186年)。江戸時代は牛頭天王社といい天王町の由来である。大正時代に現在の橘樹神社となった。


旧帷子橋跡

この橋跡の随分手前に現在の帷子橋 (かたびらばし) がある。ここは天王町駅のそばで結構賑やかで旧帷子橋跡は公園になっており帷子橋の再現モニュメントがある。


香象院

開山の年代は不詳。保土ヶ谷宿で最大の寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となった。何故か大釜が二つある。調べると、この鉄釜は、再建前に本堂の前に置かれた水を貯める天水鉢を移したもので、危険防止の為に大きな蓋を付けたのだそうだ。狛犬の代わり?


見光寺

開山は江戸時代初期(1629 年)。保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻が建てた。


天徳院

開山は安土桃山時代(1573年)。本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像。土地の豪族、小野筑後守が帰依して建立した。曹洞宗。


大蓮寺

開山は江戸時代初期(1625年)。日蓮上人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まり。家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木がある。


問屋場跡/高札場跡

保土ヶ谷宿の真っ只中に問屋と高札場跡がある。史標のみ。


金沢横丁

程ヶ谷宿の帷子町の金沢横丁の東海道と金沢道の分岐点の辻に4基の道標が並んでいる。辻側から「円海山之道」、「かなさわ かまくら 道」、「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」、「富岡山芋大明神江乃道」。杉田の梅林や金沢八景に向かう人々は、ここを金沢道に入って行った。


保土ヶ谷宿本陣跡

保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を使用していた。脇本陣は本陣だけでは収容できない場合に使用されるものであったが、後には諸侯の内でも万石以下、旗本等は脇本陣を利用していた。参勤交代の大名は箱根を越えて小田原、戸塚、江戸と10里/日の工程が常で、保土ヶ谷宿は通過の宿場で、本陣や脇本陣は休息所として使われることが多かった。さらに保土ヶ谷宿には休息専用の茶屋本陣があり、多くの大名は茶屋本陣を利用したと言われている。二軒の脇本陣は飯盛女を置いており、一般の旅籠屋としての営業も認められていた。


保土ヶ谷宿脇本陣跡

三つの脇本陣の内、二つを見つけた。


旅籠屋 (本金子屋) 跡

保土ヶ谷宿にはかつての宿場町の名残は無いのだが唯一この旅籠屋 (本金子屋) 跡が名残を今に伝えている。建物は明治2年 (1869年) に建替えられたもの。


保土ヶ谷宿上方見附跡/一里塚跡/外川神社

保土ケ谷宿の京側の出入口となる上方見附は外川神社の前にあった。江戸からの旅なので保土ヶ谷宿を出るところになる。 見附は土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、土居とも呼ばれている。この上方見附から江戸方見附までが保土ヶ谷宿になり、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれてた。

松並木を復元中。


権太坂

旅人が、きつい坂を上り終えて休憩した際、近くに居た老人に坂の名前を尋ねたところ、耳が遠く、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答え、広まったという説があるそうだ。いい名前だと思う。この話が本当なら老人はさぞかしあの世で自慢しているだろう。

自転車で登るにはそれ程きつい傾斜では無いが、兎に角長いので、体力を消耗する。箱根駅伝では戸塚中継所への難所として知られている。


投込塚之跡

権太坂は、東海道で箱根に次ぐ難所とされ、多くの行き倒れの旅人があった。その死人を投げ込む井戸があったと伝えられていたが、はたして、昭和36年 (1961年) に多数の人骨が発掘された。この亡くなった旅人の霊を慰めようと「投込塚之跡」の碑が祀られ、発掘された人骨は、西区の東福寺に埋葬されている。ここに来て先程登った権太坂のイメージが変わった。旅人がのんびりと登っていたイメージから必死の形相で、息を切らして登る傍には、倒れ込んだ旅人もいる、そんな映像に変わった。合掌!


樹源寺

まるで庭園の中に寺がある様なほど綺麗に手入れされている。住職さん夫妻が手入れをしていたので、立派な庭ですねと声をかけると、嬉しそうに照れていた。

後で調べるとブログを出されており、季節の写真が掲載されている。綺麗な写真も多く載っている。


境木立場跡 (さかいぎたてば)

休息所を立場 (たてば) と呼んでいて、難所の間のこの場所にも立場が置かれていた。初代広重の東海道五拾三次の浮世絵にここが描かれている。狂歌が含まれている。「諺の まはるもはやき 双六や いそげばいそぐ 程がやのえき」藤沢浮世絵館の解説では「境木の立場の情景が描かれています。立場の茶屋からの景色を楽しむ客や、店の外で駕籠に乗ったまま注文する客、茶屋のすぐ前の街道を行き交う人々などが描かれ、立場の賑わいが伝わってきます。生い茂る松の木や色味を抑えた背景に、色彩豊かな茶屋の風景が映える作品です。」との事。確かに京側からは焼餅坂を、江戸側からは権太坂を登った高台にあるのでほとんどの人がここで名物となった牡丹餅で休憩を取ったのだろう。

一般庶民とは別に立場のすぐ側に立派な屋敷がある。境木立場茶屋を営んでいた若林家。大名もここを利用したと言われている。説明板には明治天皇が休憩したとあった。


境木地蔵 (見光寺)

ここには境木地蔵と呼ばれる寺がある。神奈川宿を出て訪れた見光寺の飛び地境内にあたるそうだ。この様な地蔵には必ず逸話がある。調べると出てきた。「伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から江戸の方へ行きたい、途中で止まってしまったらそこに放置して構わない。と告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまいそこに放置した。漁師から地蔵像を託された村民は、どんな粗末なものでも構わないからお堂をつくってくれ、そうすればこの村を賑やかにしようと夢告により地蔵堂を作り安置したところ、地蔵への参拝客が集まり、有名なぼた餅屋ができるなどで村が繁盛したという。」この蔵堂はもとは良翁寺の境内にあったが、同寺は関東大震災で被災して廃寺となり、現在は地蔵堂と江戸の吉原の寄進による手洗い鉢のみが残る。


良翁寺が廃寺になってどう言う経緯で見光寺の飛び地になったかは分からずじまい。



武相国境之木

ここは旧東海道の武蔵国と相模国との国境にあたり、交差店前の広場には武相国境之木のモニュメントが設置されている。

この周辺の史跡マップ。全部は見る余裕は無いかな。


焼餅坂

境木立場跡から左に曲がると下り坂になる。焼餅坂と言う。変な名前だ。案内板があり、成る程と納得。この坂に上の茶屋で出していた牡丹餅にちなんでいる。牡丹餅は今でも売っているそうだ。


品濃一里塚

日本橋から9里、つまり9番目の一里塚。ここで初老の夫婦から声をかけられた。先程訪れた寺で見かけたので、何度も会うので声をかけてくれたそうだ。この一里塚は神奈川県内ではほぼ完全な形で残る唯一のもの。よく見る一里塚より小山が大きい。


品濃坂

表通りの環状2号線から脇道に入ると下り坂。かつては先程走った権太坂とともに保土ヶ谷宿・戸塚宿間の難所として知られていた。


海道橋

川上川沿いを走る旧道がここ海道橋の架かる地点で国道1号線と交差し、川沿いの旧道に抜ける。国道を走るのは味気ない。

不動坂

また坂道。江戸からだと下りで自転車だと楽ちん。



(5) Totsuka Shuku 戸塚宿

戸塚宿は東海道5番の宿場で保土ヶ谷宿から 2里9町 (8.8km) の距離。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒、戸数613戸、人口2,906人。

相模国最東端にある。当時は日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、(弥次さん喜多さんも最初に泊まった宿場) 旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であったと言う。自分は自転車での旅にもかかわらず、三泊目だ。(ちょっと先が思いやられる。) 当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、泊まる旅人が多いと言う理由で戸塚にも宿屋が増え、幕府公認の宿場となった。この時には客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対があったと言う。鉄道駅の設置に際とよく似ている。


江戸方見附跡の石碑

ここから戸塚宿が始まる。京方にも見附があり、その間が戸塚宿で2.3kmもある。繁栄振りがよく分かる。


大橋

安藤広重の浮世絵に描かれた大橋に着いた。近くにはJRの戸塚駅があり都会の街並みで江戸時代の宿場町の雰囲気はまるで残っていない。大橋も浮世絵の様な情緒は無いが、橋を写す角度で、この場所かと思い、昔の情景が創造できる。

もう暗くなり始めた。予定では次の宿場の藤沢まで行く予定だったが、街道沿いにある案内板には史跡紹介がされている。東海道を走る目的以上に、江戸時代の旅人がどの様なものを見て、2週間から3週間の旅をしていたのかを肌で感じたい。今のペースは江戸時代の旅人が徒歩で歩いているのと変わらない。多分、1日の移動距離はそれよりも少ないだろう。旅人が全ての史跡を見ていたわけでなく、街道沿いに寺や神社があると街道で立ち止まり、旅の安全と残してきた家族の無事を思い手を合わせたのだろう。疲れたら街道沿いの見晴らしの良いところか、茶屋で休憩をとっただろう。この旅は自転車だが、江戸時代の旅に近いと思う。今日は戸塚で泊まりとする。適当な宿もが見つからないのでインターネットカフェを利用する事にした。駐輪場に自転車を停め、チェックインの予定時間の8時過ぎまで、近くのショッピングモールでこれを書いている。明日は8時には出発することのしよう。(今朝は11時少し前に出発。遅過ぎた)