人生第二幕!?
夫は、わたしがマルタから帰国してから数日後に宮崎に向かいました。
いわゆる脱サラで漁師をめざすために。
転勤で極寒の旭川へ、内部進学で中学校も決まっていた長男が泣いて嫌がったけれど、思春期の彼と、マンツーマンで向き合うのは無理だと思いついていきました。この経緯を知っているみなさんからは、「ついて行かないの?」「ワンペアじゃん」とか、わたしがついていくことが当たり前のように映っていました(笑)
夫と別々に暮らすことに寂しさは言いようがないほどありました。しかし、ついていくことを選択しなかったのは、わたし自身もここでやりたいことがあったから。これまでは子ども第一優先で考えてきました。しかし、これから先は、自分でやりたいことをやる。息子たちは大学生になり、これからは、ガチで自らの足でその道をあるかなくてはなりません。親としてではなく、50代のおじさんとおばさんが、活き活きといきる姿を見せることが、彼らにとって、彼らが進む道への光になるのでは?と捉えることで、寂しさから少し抜け出しました。
海と向き合い、毎回命を懸ける(大げさですけどね(笑))。そのうえマニュアルなど全くなく、スケジュールも天候次第という漁師の仕事。師匠の勘所を、ことばで伝えられ、体で覚える……。そもそも漁師用語など知る由もないうえ、宮崎弁で語られ、時間感覚などまったくない環境で3か月。わたしには「アジェンダ君」と揶揄されるほどきちんとした夫にとって、苦しい日々が続いたと思います。
やっと、(もう?)独り立ち。初出航は、予定していた日に波が高く出られず、しょっぱなから自然と向き合うことを思い知らされました。日本人らしく、大安や友引のいい日に出向したいと考えても、天気がそれに合わせてくれるとは限らない。
10月29日大安。朝から雨。もしかしたら、きょうも出られない……。県の職員の方も初出航を見守りにいらっしゃるなか、お昼前には止むだろうということで「裕義丸」、出航しました。
この日まで、師匠だけではなく、底引き網漁船団のみなさん、漁協のみなさん、県の職員のみなさんの支えがあって、3か月という短い期間で出航できたと夫は言います
時につらいこともあったことでしょう。自分で決めた道を決してあきらめず、外様であることをしっかり認識し、素直に聞き、周りの方々の懐に飛び込んだ結果だとわたしは思います。
そんな夫と時をほぼ同じくし、わたし自身も、フランス人のお子さんのシッターとして働き始めました。二人の人生、第二幕が開きました。
宮崎県庁の職員のかたには、
「渋谷在住の奥さんだから、ネイルばっちりで、髪の毛カールしている人かと思いました」
と、魚の仕分けを手伝っている時に言われました(;'∀')。
「保育士は宮崎でも足りないので、旦那さんといっしょにこっちで暮らしたらどうですか?」
と営業されましたが、
「待っていることもがいるので」
と断ったところ、師匠が
「大学生なんて、ほっときゃいいっとよ!」
と(;’∀’)
師匠に夫が「息子じゃなくて、シッターしている子ですよ」と訂正(笑)
漁師の妻になるつもり、ございません。魚の仕分け、いたしません(笑)
でも、美味しい魚をみなさんの元に届けることは、必死に考えます。ぜひぜひ、みなさんのお知恵をお貸しください。
これまで青島に行って、どうしてもしたいことが一つだけあります。
また今度お話します。
続く