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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~ショパンの肖像、~ベルリンへの誘いラジヴィウ公の妻ルイーズ~

2019.10.31 09:08

ルイーゼ・フォン・プロイセン (1770年3月24日ベルリン - 1836年12月7日ベルリン)

プロイセンの王族、プロイセンの王女であり、結婚によりラジヴィウ王女となった。


プロイセンのプリンセス・フレデリカ・ドロテア・ルイーズ・フィリッピーナは、ホーエンツォレルン家の王族の出身でした。 

彼女はプロイセンのルイフェルディナンド王子の妹であり、プロイセンのウグストゥス・フェルディナント公と、彼の妻であるマーグラヴィン・シュヴェット・エリザベス・ルイーズ=ブランデンブルク・シュヴェートの娘でした。彼女の本当の父親はたプロイセン 中将で地図製作者のアール・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シュメットーだったことが示唆されています。

彼女は夫のラジヴィウ侯爵と共に、ウィルヘルム・シュトラーセのラッツウィル・パレという家で多くの芸術家や学者を受け入れ、1796年から1815年までサロンを開催し維持しました。1816年以来、彼女はポズナンに住んでいました。彼女の夫は大公のプロイセン知事を務めました。彼女はここで貧しい人に食物と教育を与え、エリザベス女史研究所を設立しました。息子たちがカトリック教徒に育てられた一方で、ルイーズの娘たちは母親と同じようにプロテスタントの信仰で育ちました。彼女は特に、娘エリザと後のヴィルヘルム1世とのつながりが「ふさわしくない」として拒絶したことを後悔しました。

ルナポレオン戦争中(1799~1815)のルイーズは、多くの高貴な夫人と同様に、彼女は病院を訪れて兵士を治療しました。すべての馬がプロイセン軍に送られたため、ルイーズと彼女の家族は、ベルリンとの間のすべての旅行が撤去されました。

彼女は、11月蜂起(1830年 - 1831年)の時、救済物資をポーランド王国領内に届ける手助けをしました。彼女は1836年12月7日ベルリンで亡くなりました。




***ショパンエピソード***

ショパンはアントニンのラジヴィウ邸に招待され2度訪問しました。合わせて約2週間の滞在でした。ショパンは「信じられないであろうがとても居心地が良かった。」と友人ティトゥスに話したことがありました。ルイーズ公妃はショパンに好意的でした。「ベルリンに招待し、宮殿内に僕の部屋も用意するとラジヴィウ公というよりも、ルイーズ公妃が僕に仰るのです。…」

ラジヴィウ邸に招かれた芸術家は、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ニコロ・パガニーニ、ゲーテ、そして、ショパンなどでした。

ショパンは「序奏と華麗なるポロネーズ」Op.3をラジヴィウ公に献呈しましたが、出版の際にはオーストリアのチェリストのヨーゼフ・メルクに献呈となりました。

また、チェロのための「三重奏曲」Op.8もショパンはラジヴィウ公に献呈しました。ショパンは1828年10月2日にポズナンのラジヴィウ宮殿に招かれて演奏をしました。その時に、

ラジヴィウの妻であるルイーズからショパンをベルリンに招きたいという誘いがありましたが、ショパンはベルリン旅行で散々な目に遭わされたことを思い起し、ショパンはベルリン行きは意味がないと判断しました。