「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」4 コンスタンティノープル陥落②
コンスタンティノープル陥落=ビザンツ帝国の滅亡は西欧にとって青天の霹靂だった。すでに老衰の度は著しく、昔日の栄光は影さえもなかったが、コンスタンティノープルが当時の世界で最も名を知られた都であることに変わりはなかった。西欧の人々は、そこへ行けば、自分たちの文明の源泉に出会えると信じていた。その都が、自分たちの文明に属さない、流浪の民トルコに奪われたのだから、ショックは大きかったのである。
ビザンツ帝国の滅亡はヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼした。第1はオスマン帝国が東地中海とバルカン半島、西アジアに及ぶ大帝国を完成させたことによって、ヨーロッパのアジアへの交易ルートが断たれたことである。ヨーロッパ商人の目は必然的に地中海から大西洋に移り、新航路の開発に向かわざるを得なくなった。そうした模索の典型が、15世紀中葉におけるポルトガルのエンリケ航海王子によるアフリカ西岸探検事業であり、その結実のひとつが、ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達(1498年)だった。そして、商業の中心が大西洋岸に移ったことを契機に、当時ヨーロッパ最大の勢力であったハプスブルク家は、その重心を中欧からスペインに移してゆくことになる。影響の第2は、ビザンツ帝国が滅亡したことによって、コンスタンティノープルの多くのギリシア人の哲学者、文学者、芸術家が、イタリアのフィレンツェなどに亡命し、ギリシア・ローマの古典文化の神髄を伝えたことである。すでに始まっていたルネサンスにとって、これは大きな刺激となった。また、コンスタンティノープル陥落の翌年に結ばれた「ローディの和」と通称される平和条約もルネサンス文化の隆盛を保障した。この条約によってイタリアは、ナポリ王国、ローマ法王庁、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国の五大国の勢力圏を確認し合い、その近郊の上に立っての平和を保つ体制をつくる。「ローディの和」は、現代まで続く勢力均衡政策の、世界史で初めてのケースとなった。
ところで、芸術家の流れはコンスタンティノープルからイタリアだけでなく、逆の流れも存在したことも忘れてはいけない。その代表はジェンティーレ・ベッリーニ。メフメト2世はイスラム的な文化伝統を尊重していたが、一方では、ギリシア古典文化に関心を持ち、同時代のイタリアの芸術にも深い関心を持ったと言われる。そのためメフメト2世は、1479年1月にヴェネツィアとの抗争が終結すると、その8月に、ヴェネツィア政府に、ヴェネツィア一優秀な画家を送ってほしいと頼んできた。これを受け、ヴェネツィアは、当時ヴェネツィア最高の画家と評判の高かったジェンティーレ・ベッリーニを選び、イスタンブルに派遣している。ベッリーニはオスマン側の熱意と雇用の好条件に喜び、ヴェネツィアのドージェ宮殿の壁画を修理するという名誉な大仕事を弟に任せまでして、オスマン朝の招きに応じた。メフメト2世の目的は自らの肖像画を描かせることの他に、建設中であった新宮殿(トプカプ宮殿)の私室の壁にエロティックな絵を描かせることであったと言われる。しかし、これらの作品は、メフメト2世の死後に位を継いだ息子のバヤゼットが塗りつぶさせ、肖像画も、バザールで売りに出してしまった。それらは散逸し、今日残るのはロンドンのナショナル・ギャラリーにある有名なメフメト2世の肖像画だけである。
メフメト2世は、信心深いムスリムで、多くのモスクやイスラム寺院を建立した人物であった。しかし彼は、その信仰の一方で、前近代に西欧に対して一種開かれた文化的関心を持った、ほとんど唯一のオスマン朝君主であった。彼の後には、このような雰囲気は永久に失われ、オスマン朝君主たちの文化的関心は、もっぱらイスラム世界に向けられることになる。
(ジェンティーレ・ベリーニ「サンマルコ広場での聖十字架の行列」ヴェネツィア アカデミア美術館)
(ジェンティーレ・ベリーニ「メフメト2世」ロンドン ナショナル・ギャラリー)
(ジェンティーレ・ベリーニ「書記座像」ボストン イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館)
(ジェンティーレ・ベリーニ「イェニチェリ座像」大英博物館)
(ジェンティーレ・ベリーニ「オスマン帝国の女性」大英博物館)