ビス①
【プロローグ】
子供の頃、『ビス』に触れたことがある。
『ビス』は人間が触れてはいけないモノだと伝えられてはいたが、その時はソレが『ビス』だとは気づかなかった。空から何かが落ちてきたので、拾い上げただけだった。
指でつまみ上げた硬くて鈍色に光る物体は、半球の頭に溝の入った筒がついている物で。つまりは『螺子』だ。ただそれは自分がよく目にする市販品ではなく、少し大きめの、壁の修復用に使われるもので、それはこの世界では『ビス』と呼ばれていた。
素手で触れて間もなく、視界がぶれて脳震盪を起こしたかのような前後不覚に陥る。
しまったと思った時にはすでに遅く、ぐらりと傾く体を支えることもできず、顔面から地面に激突しそうになる。腕を突っ張ることもかなわずに、そのまま倒れこもうとしたその時だった。
「──おっと」
武骨な腕が自分の体にまきついた。
剛腕はしっかりとこちらの腹を抱えると、ひょいと抱え上げて安全な場所まで運んでくれる。それが修復隊の搬送トラックだと気付いたのは後になってからだ。ぼやけた視界に飛び込んできたのは修復隊の制服をきた男。
彼はこちらの様子を傍から伺っていたらしい。「子供が近づいて良い場所じゃないぞ」と窘められ、確かに自業自得が招いた結果なので、ごめんなさいと舌の回らない口で謝罪した。
亀裂の修復作業中は近辺を人払いしているのだが、自分のように興味本位で近づく愚か者はまれにいる。そういった人物を制止するのもまた、この外殻修復部隊の役割だった。
その頃の自分は外殻修復部隊にそれはそれは憧れを抱いていた。彼らの作業風景を目の当たりにしたくて、亀裂が生まれたと聞きつけては、その場に駆け付けるような変な子供だった。
修復隊の男はこちらが掴んでいた『ビス』を掲げて皮肉っぽく笑う。
「人間が触ってはいけないもんだって教えられてなかったか?」
徐々に晴れていく視界の中で、浅黒い肌の男の額には鈍く光る螺子の切っ先が見えた。
前髪の隙間から除く螺旋状の金属。角のようにも見えるその姿は少し獣じみて映る。亜人とは角を持つ種族であると、そう説く大人もいるのを思い出した。
「……しってたよ」
「では、なぜ触れた」
「たまたま拾っただけ」
「すぐに捨てればいいのに、ずっと持っていたのは何故だ?」
問われて、自分は倒れてもその『ビス』から指を離さなかった事を思い出した。意図していたわけではないが理由は明確で、そのことをポツリと呟く。
「……もったいないと、おもって」
「もったいない?」
「ずっと、触ってみたかったから」
その答えはあまりにも単純すぎて、男の予想を裏切っていたらしい。彼はひとしきり笑ってから、呆れたように告げた。
「触れるには亜人になるか、さもなきゃナット病にでもなるしかないな」
暗に諦めろと言われているのはわかったが、それでも諦めきれずに彼が持っているビスを眺めてしまう。
触るなと言われれば触りたくなるのは人としての性だ。
触れてはならない禁忌の代物を使って世界を守る。
ある種の英雄像を感じて、憧れが募るのを抑えきれない。
「修復隊員になりたいのか?」
「うん」
「そんなかっこいい仕事じゃないぞ」
「かっこいいよ。だって街を守ってるじゃないか」
その頃の自分は純粋に彼らの職務は名誉ある仕事だと思っていた。しかし、現実はと言えば、修復隊は亜人の階級の中では最下層。命の危険を伴う作業である以上、最も敬遠される仕事のうちの一つであった。
「そうか」
修復隊の男はこちらの言葉を聞いて、少しだけ目元をほころばせた。そして懐からシガレットケースを取り出すと、手にしていた『ビス』をそこに入れて、こちらに手渡してくる。
「やるよ。素手で触らなければさほど害はない」
「いいの?」
「ああ。万が一お前が亜人になれて、それでも修復隊に入りたいって思うなら、それを持って俺のところに来ればいい」
そうしたら、修復隊員として歓迎するぜ、と。
彼はヤケレと名乗り、そしてその場から去っていった。その彼が修復部隊の小隊長を長年勤めている男だと知ったのは、自分がもっと成長してからだった。それほど「ネジなし」の一般市民は修復部隊との接触が少ない。
せめて足場などを組む建設系の仕事に従事していれば、彼らとかかわることもできたであろうが、筋肉がつきにくく体力仕事に向かない体つきの自分には、ついぞ縁のない仕事だった。
しかし、大人になっても憧れの仕事であることには変わりない。
結婚後も「いつか亜人になれたら」という夢物語を妻に語っては、盛大に呆れられたものだ。
成人を越えて亜人へと変化する人間は非常に少ない。確立としては当然あり得ないと思っていたが、まさかこんなことで『ビス』に触れられる日がこようとは、少しも考えたことはなかった。
「……さわれる」
シガレットケースから取り出した鈍色の物体に触れて、めまいも耳鳴りもおきない体を得てとても驚いた。
自宅で興味本位で触れては昏倒して妻を困らせていた身としては、この事象は感慨深い。
「ほんとうにさわれるんだな」
何度も指先で転がして、実物の感触をゆっくりと味わう。
体に金属が生まれれば、有無を言わさずビスに触れられる。
初めてこの症状に見舞われたときは困惑したものだが、ビスに触れるという一点さえ叶えられるのなら、すべてのデメリットに目をつぶれるというものだ。
慣れ親しんた我が家を捨てる覚悟をもって、身支度を整える。
二人暮らしの小さな我が家は塔の居住区域に近く、立地としては恵まれた場所にあった。中には妻の趣味で購入した丸みを帯びた木製の家具がひしめき合って収まっている。それを使用する者はもうおらず、自分もこの家を捨てると決めた。
目指すは、塔の外殻修復部隊の駐屯地。ヤケレという名前を追って、何か所もさ迷い歩き、やっと該当する部隊の所在が知れたときは、丸一日が経過していた。
工場区域の外殻側に設置されたコンクリートの真四角な建物が、目的の場所だった。
鉄製の重い扉を乱暴にたたく。
時間としては夜半時。工場区域は機械類が入り乱れているせいで、警備ランプや誘導灯の明かりが明滅していて、それほど暗くはなかった。
扉が開かれると、修復部隊の制服を着た大柄な男がそこにはいた。
「あの、ヤケレという人を探しているんですが」
大柄な男はこめかみから螺子の先端が突き出ているタイプの亜人で、一目でヤケレではないとわかる。目の前の男は突然現れた人間をみて訝しんでいた。工場区域の外殻付近なんて、一般市民が立ち寄るような場所ではないので、彼がうろんな視線を送るのも無理はなかった。
「ヤケレ隊長になんの用だ?」
「会って見せたいものがあるんです」
「生憎と俺たちは亜人の中でも底辺の存在だ。賄賂を渡したって、なんの得にもなりゃしねぇよ」
「いや、そういうんじゃなくて……」
「──何事だ?」
背後から渋い声色が届き、慌てて振り返る。
そこには、額に金属の角を持った男が立っていた。幼少期の記憶に刻まれたままの姿に眩暈を覚える。
亜人は長命な種族だ。個体差によって長さは違うというが、人の人生と比較にならないほど長い命を持っている。
噂には聞き及んでいたが、目の当たりにすると幼い頃の気持ちが蘇る。とっさに「あの時はありがとうございました!」と叫んでいたが、ヤケレは不思議そうに首を傾げるだけだった。
そうだ、彼にはあの時の子供が自分であるなど、理解しているはずもない。
慌ててシガレットケースとビスを取り出し、ヤケレの目の前に差し出した。
「あの、これ──」
一瞥したのち、眉根を寄せたヤケレはシガレットケースを受け取って裏返す。ヤケレの名の刻印が入ったケースは彼の所有物であった証だ。
「お前、あの時の……」
「あの……約束通り、修復隊に入れてもらえないでしょうか?」
「お前はまだ人間だろう。何故それに触れられる」
眉根を寄せたヤケレの返答として、ゆっくりと胸元のボタンを寛げる。首筋に流れるひやりとした風は、胸元にも開いた穴にゆっくりと流れていった。
「これのおかげで」
「ナット病か……」
途端に険しい顔つきになったヤケレだが、それは仕方のないことだろう。
ナット病は発病すれば長く生きることは敵わない。ある条件を経て延命が可能となるが、自分には必要のない処置だった。
もとより、もう長く生きるつもりはないのだ。
ただ死ぬ前に夢を叶えたい。ただそれだけの願望で生きていた。
「死ぬまででいいんです。俺を雇ってもらえませんか?」
ビスに触れられるわずかの間、この短い奇跡の時間を有効に活用するのが、自分のただ一つの願いだった。
続く