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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 07 (5/11/19) Odawara Shuku 小田原宿

2019.11.06 03:47

(9) Odawara Shuku 小田原宿


今日は宿の周りから、小田原宿の史跡巡りをする。



(9) Odawara Shuku 小田原宿

小田原宿は東海道9番の宿場で大磯宿から4里 (15.7km) の距離本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、戸数1,542戸、人口5,404人。


長安寺 (桐大内蔵の墓)

ここ長安寺に来たのは、案内板に桐大内蔵 (きりおおくら) の墓と書かれていた事に興味を引かれた。この桐大内蔵がどういう人物なのか知らない。初めて聞く名だ。関東の女歌舞伎の開祖だそうで、桐家を名乗っていた。始まりは小田原北条氏時代から舞太夫職を勤めた古流舞の大橋家から江戸時代に分家し、桐家を起こした事から始まる。桐座という劇場で興行を明治初期に廃業するまで行っていた。実は桐家は二つある。桐大内蔵を名乗る江戸の桐家と、桐尾上を名乗る小田原の桐家があり、ここにある墓は江戸の桐家の桐大内蔵のもので、元禄16年 (1703) に、小田原地方で起こった大地震に巻き込まれ亡くなったとあり、この桐大内蔵は江戸の初代桐大内蔵ではないかと推測されているそうだ。この長安寺は前述の大橋家の菩提寺で桐大内蔵の墓はその大橋家の墓の中にある。舞踊の方向性は異なるが何かの繋がりがあったのだろう。女歌舞伎と言えば出雲の阿国が有名だ。山陰の旅では出雲で阿国の墓と言われる史跡にも行った。この阿国の女歌舞伎と桐家女歌舞伎の関係に興味があり調べてみた。この二つの女歌舞伎は少し違っている様に思えた。阿国は出雲の巫女とも遊女とも言われ、1600年頃から出雲大社の勧進のため全国を周り興行をし、女歌舞伎は一気に10年も経たない内に全国に広がった。その広がり方は主に遊女歌舞伎と呼ばれる遊女屋で猥雑な踊りであった。これが風紀の乱れを生じ、寛永6年 (1629) 幕府により禁止された。一方、桐家は舞踊では由緒ある大橋家からの分家で、文献では寛永7年 (1630) に桐大内蔵が女舞を江戸中橋で興行したとある。1630年には女歌舞伎が禁止されていたはずだが、その後も興行の記録があり、明治初期まで長い期間続いている。桐家の女歌舞伎がどの様なものであったかは調べても分からなかったが、阿国から始まる女歌舞伎とは異質の物の様な気がする。もう一つ気になるのは、案内板では、この墓は初代桐大内蔵と書かれていたが、これは間違いではないかと思う。亡くなったのが1703年、江戸での興行記録で最初に出てくるのは1630年。初代桐大内蔵が何才で亡くなったのかは分からないが、初代とすると90~100才の勘定になる。座長は代々桐大内蔵を名乗っているので、初代ではない可能性の方が高いと思う。これは細かな事ではあるが、公の案内板に書く場合は正確に書いて欲しい。史跡を巡る際に気をつけているのが、その史実の年代だ。どの様な時代背景にそれがあったのかをマクロからマイクロにズームインして見るようにしている。その際に、目にする案内のいい加減さが気になる。案内の記述は専門家に確認していないのではと時々思える。時系列で物事をイメージする事は歴史を見る上だけでなく、ビジネスを進める上でも必要だ。プロジェクトのマイルストーンをそれに関わるイベントを時系列で置いて行くのと同じだ。これが出来ないとプロジェクトマネージメントは機能しない。歴史を見る方法とよく似ている。歴史もその事象を線表に置いていくと矛盾が発見できる。その意味から、歴史を見る訓練はビジネスに役立つので、若い部下には歴史を勧めている。


旧青橋の機銃掃射弾痕

小田原も空襲があったのか、昨日平塚での空襲の死者のリストに小田原の被害も載っていた。小田原はそれほど死者は出ていなかった。実際にはこれより多い死者の数であった様だ。

小田原市はアメリカ軍が攻撃目標とした180都市のうちの96番目に指定されていたが、アメリカ軍の攻撃記録には小田原は記載が無い。恐らく、攻撃の順番が来る前に終戦となったのだろう。とはいえ、何ヶ所か戦争の痕跡が今なお残っている場所にこの後も目にすることになる。



徳川家康陣地跡 (11/8に記載) 

昨日訪れた海岸近くの新田義貞の首塚の所まで移動。首塚のすぐの所に別の史跡がある。



上杉龍若丸墓

1551年、小田原北条三代目の北条氏康が、当時の室町幕府体制の関東管領の上杉憲政の平井城を攻めた折り、上杉憲政が停戦 (降伏?) の使者として、嫡男の龍若丸 (たつわかまる) を小田原に派遣したものの、龍若丸は処刑されてしまい、龍若丸に同情した町民によって供養された。と案内板には書かれているが、別の資料では、上杉憲政が北条氏康に敗れ、越後国の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れるが、龍若丸は寝返った重臣妻鹿田新助 (龍若丸の乳母の夫) によって北条方へ引き渡され(平井城で捕えられたとも)、小田原あるいは伊豆国で殺されたと書かれている。随分と食い違っているが、ここの住民が弔った事は確かだろう。上杉神社と書かれた祠の中には、五輪塔がいくつもあるが、中央が龍若丸で周りが従者のものと言われている。



山王神社 (山王曲輪) (11/7 に記載) 



北條稲荷 (11/7 に記載) 



蓮上院土塁 (11/7 に記載)

海岸沿いを小田原宿の中心に向かい走る。



かまぼこ通り

かまぼこ通りは江戸時代には東海道最大級の規模を誇った小田原宿にあり、海に近く豊富な漁場に恵まれていたことから、蒲鉾、干物、削り節などの水産加工業の集積地として栄え、明治から昭和40年代前半にかけては魚市場もあり、ブリ漁が盛んで、活気に溢れた漁師町であった。その後はここを訪れる人はまばらとなり衰退していた。これを憂い、地域の商店が江戸から明治期の風情を32店舗で再現して観光地としてこの地域を持ち上げようとしている。この通りは小田原滞在中、三度来て見たが、地元の小学生の課外授業や観光客のツアーなどを目にした。



かまぼこ通りを抜けると小田原宿の真っ只中に入り、当時の宿場の史跡が集中している。



下の問屋場跡

小田原宿には「上の問屋場」と高梨町の「下の問屋場」があった。ここは下の問屋場があった場所。


川崎長太郎 小屋跡

川崎長太郎は小田原出身の小説家。作家自ら体験したことを赤裸々に描く私小説を代表する一人。小説家を目指した頃は、なかなか上手くいかず、務めていた新聞社を解雇されるなど生活が苦しく、36歳のときに東京から故郷の小田原に帰ってきて、ここにあった実家の物置小屋で暮らしていた。ここでも生活は苦しく、近くにあった抹香町にあった私娼窟に通い自堕落な生活だった様だ。50才でこの私娼窟を描いた「抹香町」が評価され、その3年後に発表した「伊豆の街道」も高評価を受け、晩年には菊池寛賞を受賞した。


宮前町

小田原宿にあったそれぞれの町にこの様な石標が建っており、側面には簡単にその町の由来が記されている。見つけるたびに止まり、これを読み、周りを見渡し、頭の中で昔の様子の勝手な想像が広がる。ここは隣の街の本町と共に小田原宿の中心地で、この二つの町に本陣、脇本陣、旅籠が集中していた。

東海道沿いの主要な町の位置関係はこの様になっていた。


旧小田原魚市場跡

小田原にはかつて代官町の一角に二見初右衛門、千度小路通りに山田小兵衛、山田又市の3つの魚市場があった。明治の後半には両山田が合併し小田原魚市場と2つになり、大正11年末にはさらに合併されて小田原魚市場が誕生。ここがその魚市場があった所。その後、小田原魚市場は早川漁港へ移転して、ここにはその時の面影は残っていない。


清水金左衛門本陣跡/明治天皇宮ノ前行在所跡

かまぼこ通り界隈に本陣跡が2箇所が残っている。ここはそのひとつ。宮ノ前の清水本陣で、別名大清水ともよばれ4軒あった本陣の筆頭。本陣大清水には明治元年から明治6年までの間に、明治天皇の御宿泊所となったことが5回もあった。


小田原宿なりわい交流館

清水本陣のすぐ近くに小田原宿なりわい交流館があった。この施設は、1932 (昭和7) 年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の休憩所として2001年 (平成13) に開館。ここで小田原宿の情報収集も兼ねて、昼食をとる。親切にもお茶を入れてくれた。今、小田原宿観光協会ではサイクリングをもうひとつの観光にしようとしていて、自転車で旅をしていると知りアンケートを頼まれた。これでここの係員さんと親しくなって、いろいろな話をする事になって、ここに予定外の時間を過ごしたが、地元の人と話すのは、史跡を見るのと同様に楽しいひと時だ。

小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられ、2階正面は出格子窓になっている。

自転車のアンケートへのお礼だと言って、この店の蒲鉾の試食券を頂いた。早速この店に行って蒲鉾を食してみた。試食なので、小さい蒲鉾を予想していたのだが、かなり大きなもので、この店で開発して売り出し中の蒲鉾。自然薯を練り込み、サンショと胡椒でピリリと味付けがしてある。その場で焼いてくれた物を渡してくれた。焼き立てなので、美味。ヒットすれば良いのにと思う。なりわい館はこのかまぼこ通りの「かまぼこ通り活性化委員会」が絡んでおり、小田原のうまい物の紹介に力を入れている。


本町

先程の宮前町の隣にあった町。石標には「小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが、江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割したとき本町と改められた」とある。小田原宿の中心地の中心。


高札場跡

宮前町にあった高札場跡。


片岡本陣跡

本町にあった本陣跡。宮前町の清水本陣にもあったが、明治天皇が立ち寄ったと言う碑が建っていた。清水本陣には5回のしゅくはくし、ここにも泊まっている。これは異例な事だ。それまでの天皇は御所を出なかった。明治天皇はその習慣を変えてしまった。明治政府は薩長政権で尊王との大義名分はあったが、天皇と言う存在を利用した政権だった。明治天皇の凄いところは、その利用されている立場をバランス感覚で、天皇が単なる飾りに終わらないようにした事だと思う。江戸時代前の天皇と同じ様に振る舞い単なるフィギュアヘッドでいる事も出来たのだが、積極的に外に出て行った。これが、民衆に天皇への畏敬は保ちながら、親しみを持たせる事に貢献したように思う。


上の問屋場跡

小田原宿にあった二つの問屋場の一つ。


清水彦十郎本陣跡

網干橋町にあった本陣跡。


ういろう

和菓子のういろうと同じ名前の店があり、立派な店構えだ。ういろうの発祥の店は小田原にあったのかと思いきや、発祥地は京都の外郎家 (京都外郎家) だそうだ。この店に小さなういろう博物館があり、そこでういろうの歴史が紹介されていた。この店は外郎家の分家として1504年 (永正元年) にここに店を構えた。北条の時代だ。この外郎家は外郎薬 (がいろうやく) を売っていた薬屋だった。外郎は元の陳延祐が明にせいけんが交代した時に日本に帰化、陳延祐の役職が礼部員外郎であった。帰化した時になを陳外郎に変え、読みは「ちんういろう」とした。その後、明の霊宝丹と言う薬の処方を持ち帰り、透頂香 (とうちんこう) と言う名で製造を開始した。外郎家で作っているので、この薬はういろうと呼ばれる様になった。この外郎家が接待用に作った菓子が和菓子のういろうだ。なりわい館でういろうは元は薬と説明してくれたが、それはこう言う経緯があったのだ。この店は今でも薬も売っており、「薬のういろう」と「お菓子のういろう」と呼んで両方販売をしている。店構えがお城の様で、少し違和感があったのだが、昔もこれほどではないにしても、やはりお城の様な造りだった。


網干橋町

ういろうはこの網干橋町にある。昔に架かっていた橋の名前が町の名前になっている。


正恩寺の鐘楼門

正恩寺は、浄土真宗大谷派東本願寺の末寺。三河国二股城主だった大久保忠世の長子、忠隣の妻、妙賢院が日頃から当寺の住職に帰依していたため、忠世が小田原城主となった後、文禄2年 (1593) に小田原に移って来た。ここの鐘楼門が有名で、寛政5年 (1793) に建てられたものが残っている。


西海子小路

東海道から海岸の方に道を外れ小田原文学館に向かう。その小田原文学館がある通りにも石柱があり、この通りは西海子小路と言う。この地にサイカチの木が植えられていたのが名の由来。江戸時代後期には、ここは中堅藩士の武家屋敷地で17軒ほどの屋敷が道の両側にあったそうだ。この長い通りにたった17軒。中堅とはいえ、かなり大きな屋敷だったのだ。今でも、同じで、道の両側には、広大な敷地の邸宅が並んでいる。後で、町に人と話すと、ニヤリとして、自分たちには縁のない高級住宅街だと言っていた。


小田原文学館 (田中光顕邸)

この周辺には、明治から昭和にかけて多くの文学者が居を構えていた。小田原文学館は、元宮内大臣田中光顕伯爵の別邸として建てられた洋館を利用している。

敷地内には小田原にゆかりの深い北村透谷の碑、北原白秋の白秋童謡館や、尾崎一雄の書斎の移築されている。


御厩小路

西海子小路が交差するこの小路はお厩小路と呼ばれている。この西側に小田原藩の馬屋があったところから来ている。


早川口遺構 (11/7 に記載) 



大久保寺

天正19年 (1591年)、徳川家康の忠臣no

小田原城主 大久保忠世が建立した寺で、大久保一族の菩提寺。初代忠世、2代忠隣など7基の墓石が並んでいる。2代忠隣は小田原藩の初代藩主となったが、後に失脚し、大久保家は改易となっている。この失脚については、多くの説がある。忠隣が推挙した大久保長安の不正蓄財から松平忠輝の謀反への加担説、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説、嫡男の死に意気消沈した忠隣は、以後政務を欠席することがありそれを職務怠慢を理由にする説など。小説やドラマでは権勢を二分していた本多父子の陰謀で長安の不正蓄財から謀反へこじつけた陰謀であったとしている。確かに本多正信はこの時期に岡本大八事件で収賄の疑いがあり、権勢が衰えており、大久保忠隣の蹴落としを企んだというのは筋としては面白い。山岡宗八の長編小説の「徳川家康」はこの説で話を進めている。個人的には大久保忠隣が謀反を企んだとは考えにくいと思う。この時は幕府が、キリスト教禁止令を出し、その実行の為、教徒も多い最も難しい西日本の仕置きを忠隣に任せたその矢先の急転直下の罷免。そこには何か政治的な裏がある様な気がする。この後、忠隣は近江に配流となり、出家、75才で死去。謀反の罪状であれば死罪が普通だが、天寿を全うしている。やはり幕府内の政治で、政権も家康から秀忠に移っており、家康は忠隣の潔白は知りながらも、秀忠の決定を真っ向から覆す事は敢えてしなかったと思う。家康の働きかけはあったと思う。それが忠隣が失脚はしたが、命までは失わなかった理由では無いだろうか。大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことも許され、その養子で忠職の従弟の忠朝の時に小田原藩主として復帰も果たしている。この事も謀反人の一族には考えられない事だ。不可解な事件だ。


板橋 (上方) 見附

大久保からすぐの所の東海道に戻った場所が小田原宿の西の出入口の板橋見附跡だ。ここから西は箱根に登る道に通じる。


居神神社

板橋見附の北側に居神神社 (いがみじんじゃ) がある。創建は永正17年 (1520) この時代は桓武平氏の流れをくむ三浦氏が、三浦半島を本拠に相模の太守であった。明応4年 (1495年、伊勢新九郎盛時 (後の北条早雲) が小田原城を謀略によって落とし、ついで、永正9年 (1512) 三浦道寸義同の居城の相州岡崎城、住吉城を落とした。追われた義同は、子息 三浦荒次郎義意の守る新井城に籠る。新井城は、早雲は3年をかけ兵糧攻めとした。永正13年 (1516年) 義同は自刃、21歳の義意は1人門の外に出て、北条勢を迎え討ったと伝わる。白樫の八角棒を打ち振り、500人余りを倒し自刃。その首は小田原まで飛来し、松の枝に掛かり、3年の間、首は生き続けたという。その噂を聞いた久野総世寺の忠室存考禅師が、「うつつとも夢ともしらぬ一眠り、浮世の隙を曙の空」と和歌を手向け祈ると首は枝から落ち、その時、空中から「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と声があり、その松の下に祠を建て義意の霊を祀ったのが、居神神社と伝えられている。


小田原宿から箱根への道を進む。



小田原用水

箱根の芦ノ湖から流れる早川の水を、東海道に沿って水路をつくり、小田原城下内へ流した上水道で、北条氏康が小田原を支配した頃に造られたとされ、日本最古の上水道だそうだ。現在でも、小田原用水取入口が残っている。

用水路跡から小田原宿にきた道とは別のルートで戻る。途中、古い民家が目に留まった。



内野邸・武功庵

明治36年 (1903) に建築された板橋 内野家 (元醤油醸造業経営) の住宅で、当時流行していた土蔵造り風の町屋で、なまこ壁や石造アーチなど和洋折衷の珍しい建築物。現在はカフェとして利用されている。

板橋上方見附の所まで戻ってきた。



御組長屋

江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口や井細田口の三つの出入り口の沿道には、先手筒 (さきてづつ 鉄砲を扱う者) や先手弓 (さきてゆみ 弓を扱う者) などが住む御組長屋 (新宿町組、山角町組、竹花町組) が設けられていた。ここの御組長屋は山角町組があった場所。


山角天神社

関八州を平定した小田原城主第三代北條氏康が、小田原の文運隆盛を願って創建した神社。当時の小田原は京都を凌ぐ文化都市となり、小田原北條氏滅亡後、その文化は江戸文化の源流となった。 祭神は天神社なので勿論菅原道真。


天神山

天神社がある場所は天神山で小高い丘になっている。かなりの急坂なので、自転車を天神社の入り口に停めて徒歩にて登った。箱根からのびてきた尾根の先端部で、小田原城三の丸の一角にあたる。


対潮閣跡

山下汽船 (現商船三井) の創業者である山下亀三郎の邸宅跡。司馬遼太郎の「坂の上の雲」で知られる海軍中将 秋山真之は山下と同じ愛媛県の出身で、よくここを訪れたそうだ。この地で盲腸炎が悪化し終焉を迎えた。このあたり一帯は、政界、財界、軍人、皇族などの別荘が多くあった。

小田原は今日で2泊目で、当初の予定は明日には箱根に向かう事にしていたが、小田原には予想以外に観光案内がしっかりしており、観光情報を眺めているととても二日では短すぎる。まだ小田原城にも行っていない。小田原城は少なくとも一日かかるだろうから、小田原滞在を2日間延長する事にした。明日は過去三回この小田原を通ったが、見れなかった小田原城にいく。2日かけて北条氏の小田原城関連史跡もまわる。