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Tokaido 東海道 08 (6/11/19) Odawara Castle Ruins 小田原城跡 ① 本丸、二の丸、三の丸

2019.11.06 10:48

Odawara Castle Ruins 小田原城跡

北条氏政・氏照の墓所

当初は今日は箱根に向かうつもりだったが、小田原には色々な史跡を巡る旅に魅力が増し2日滞在を延ばした。今日は楽しみにしていた小田原城に行く。数年前に小田原城を見ようと来た時は、小田原城が耐震工事と城の改修で見れなかったので、今回は楽しみだ。



Odawara Castle Ruins 小田原城跡

現在の観光地としての小田原城は江戸時代のもので、その前の北条氏のものとは少し異なるのだろうが、小田原の基礎は北条五代が築いてと言われている。北条早雲がこの地を奪い取った後、二代氏綱の時にこの小田原に居住を韮山から移した。その当時は、今ある小田原城ではなく、西北にある八幡山に城を構えた。その後、城を拡張し現在の小田原城の範囲まで含むことになった。今日は小田急線の東京側の観光地として知られている小田原城を巡る。時間が有れば、三ノ丸となった八幡山の方面まで足を伸ばしたい。

まずは城の外側から見ていく。



三ノ丸 幸田門土塁跡

小田原城の三ノ丸を守る土塁跡が小田原駅の近くに残っている。一部だが、この感じで城を囲んでいた事は容易に想像できるほど形を留めている。戦国時代に上杉謙信や武田信玄がここから小田原城を攻撃しをするが北条氏は籠城し攻撃を凌いだ。



幸田門跡

この三ノ丸への入り口がここにあった。ここには北条氏家臣の幸田氏が居住していた事より幸田門と呼ばれた。今でも地名として幸田の名が残っている。

なるべく土塁があった所を走り、城の玄関である大手門に向かう。



大手門

この門からも三ノ丸に入る。正面玄関としての大手門は江戸時代にここに築かれた。現在は門は残っていないが鐘楼が残っている。大手門は櫓門で枡形になっておりこの鐘楼は北側の櫓にあり、当時は時を告げていた。ここからは二の丸が臨める。この三ノ丸は重臣の武家屋敷が建っていた。

学橋 (まなびばし)

大手門を通り堀に着くと直ぐのところに二の丸への学橋がある。朱色で鮮やかだ。二の丸御殿に通じる。この橋を渡ると左手には隅櫓への路があり正面には二の丸御殿への門がある。


二の丸東堀

学橋がかかっているのは二の丸東堀。


御用所

学橋の前の通りは御用所と呼ばれていた。藩の執務所があったところだ。

二の丸は堀で囲まれているのだが、二の丸に入る前にこの堀沿いを時計方向に走る。二の丸隅櫓が見える。


馬出門 (うまだしもん)

馬出門は平成21年に再現された馬屋曲輪へ入る門で馬出門土橋 (めがね橋) と呼ばれている石橋で結ばれている。馬出門は江戸時代の寛文12 (1672) 年に枡形形式に改修され、高麗門造りになっている。ここを通り、内冠木門を通って馬出曲輪へ入る。ここが登城の際の正規ルートだそうだ。二の丸への橋が土橋なのには驚きだ。通常は木の橋で戦闘時は落とす事ができるようにしているのが一般的だが、太平の江戸期に造られた物だと思うが、もう戦争用の橋は必要なかったからだろうか?


箱根口門跡

もう一つ三ノ丸への通用門跡がある。江戸時代は箱根口門と呼ばれていた櫓門あった。北条氏の時代から江戸時代初期までは、ここが大手門の役割を果たしていたが、江戸時代に大手門の役割を終えた。石垣と土塁跡の一部が残っている。


南曲輪/藩校跡

ここは江戸時代は南曲輪にあたり、藩校の集成館や武家屋敷があったのだが、現在は小学校になっている。お城を思わせる造りでかなり大きい。以前ここにあった小学校と城内にあった小学校が合併してここにこの様に建て直したそうだ。


茶壺橋 (小峯橋)

ここから二の丸へは御茶壺橋 (小峯橋) を渡り、御茶壺曲輪に入る。橋の袂には御感の藤と呼ばれる藤棚がある。御感の藤は元々は二の丸御殿に植えられていたが、これを買い取った西村氏の手に渡り、大正時代にこの地に移されている。明治時代にのちの大正天皇がこの藤に感嘆したことにより御感の藤と呼ばれている。

藤が咲くとこんな感じ。


御茶壺曲輪

二の丸に入る最初の曲輪で防衛のための曲輪で捨曲輪とも呼ばれた。徳川時代に空茶壺を納める御茶屋蔵があった事でこう呼ばれている。


馬出曲輪

御茶壺曲輪から先に進むと馬出曲輪。先程見学した馬出門/内冠木門からも入れる。文字通り馬を繋ぎ保管する曲輪で14 頭程度をつなげる馬舎があったと推測されている。その跡には観光案内所が建っていた。そのほか番所や二重櫓、大腰掛け番所などがあり、江戸時代では登城者に対しての番所として機能していた。。


住吉橋

馬出曲輪から二の丸へはこの住吉橋を渡り枡形に入り、更に銅門を通って行く。


銅門 (あかがねもん)

発掘調査や古写真、絵図などを参考に平成9年に再現された。大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたのが名前の由来。ここも

石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた堅固な桝形門となっている。


二の丸広場

銅門を抜けると二の丸に入る前の広場に出る。何に使ったのだろう。


二の丸/二の丸御殿

二の丸へは始めに通った学橋からも入れる。学橋からは二の丸御殿に直通。二の丸御殿は白塀に囲まれて二の丸へはこの白壁塀を周り行くことになる。二の丸には江戸時代の藩主の政治の行政部と居館を兼ねた御殿が置かれていた。現在は二の丸広場となっている。ここには先に触れた移転合併した小学校があったが、現在はその建物を利用したNinja館 (歴史見聞館) になっている。


隅櫓

二の丸の角には隅櫓が建っていた。関東大震災で崩落し、昭和9年 (1934) に再建されたもので、予算上当時のものに比べ半分の大きさになってしまった。


本丸東堀跡

いよいよ二の丸から本丸に向かう。本丸は二の丸から階段を上り少し高台にある。この高台にある本丸は水堀で守られていた。水はもうないのだが堀跡がある。


常盤木門 (ときわぎもん)

急な階段を登り、本丸への入り口である常盤木門になる。この常盤木門も再建されたもの。常盤木とは常緑樹の意味で傍らに植えられている松が生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って名付けられたと言われている。ここにはSamurai館の資料館が併設されている。明日にでも見学する予定だ。


本丸

江戸時代では徳川将軍家の宿舎として本丸御殿が置かれ、徳川家の専用となった。藩主達は二の丸御殿に居住を移した。


鉄門 (くろがねもん)

本丸への入り口は先に通った常盤木門ともう一つあった。御用米曲輪に通じる鉄門だ。ただ残念な事に現在は残っていない。


天守閣

昭和35年 (1960) に3重4階の外観のみ鉄筋コンクリートで復元したもの。


御用米曲輪跡

本丸の北側を降りた所に広い平坦な場所がある。御用米曲輪と言う所で江戸幕府への上納米を保管していた場所。現在は整備中で中には入れなかった。整備された所を是非見てみたいものだ。


弁財天曲輪

御用米曲輪の北には弁財天曲輪がある。ここも整備予定地。どのように整備されるかが楽しみだ。この曲輪から裏門で一般藩士は二の丸に登城していた。弁財天曲輪は蓮池と言う自然の池で囲まれて小田原城の防衛線でもあった。先に訪れた幸田門と近く武田信玄や上杉謙信はここから小田原城攻略を試みた。

この名の通り、ここには弁財天が祀られている。


蓮池

ここを通っている通りはこの曲輪の名を残している。


小峯曲輪北堀

御用米曲輪跡とは反対側、つまり、本丸の西側下には小峯曲輪があった。戦国の北条氏時代のもので畝堀であったと推測されている。


報徳二宮神社 (小峯曲輪跡)

小峯曲輪跡には報徳二宮神社が建っている。ここは二宮尊徳を祀った神社。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年 (1856) に亡くなった後も報徳社は存続していた。明治27年 (1894年) に尊徳の生地であるこの地に創建された。隣には報徳博物館、境内にはカフェなどがある。


北条氏政・氏照の墓所

後北条氏の第4代当主 北条氏政と弟の氏照の墓が現在の小田原駅の近くにある。小田原城三ノ丸内にあたる。氏政は北条氏の勢力拡大に務め、武田信玄や上杉謙信の侵攻に耐え、家督を氏直に譲った後も実権を握り、栃木下野方面まで最大版図を築く。しかし、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結。墓は長い間放置されていたが、藩主となった稲葉氏によって整備された。

今日はじっくりとかなり時間をかけてまわったので予定の半分しか見れていない。更に小田原滞在が伸びそうだ。それ程、小田原は面白い所だ。小田原城はほとんどが復元されたもので、ここまで整備するのはかなりの時間と費用がかかっている。それに見合う価値は創造していると思う。今まで小田原をまわって、史跡の整備では今まで訪問したどこよりも完成度が高い。非常に魅力的な所だ。