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伊勢の便り

2019.11.08 01:06

蓬莱に聞はや伊勢の初便り  芭蕉ー 場所: 藤沢町

http://g05067.html.xdomain.jp/w175577t.html

神明社

・場所:岩手県一関市藤沢町大籠下野在家 

 句意:元日の朝、蓬莱飾りに向っていると、伊勢神宮の清浄な空気が伝わってくるようで、これが伊勢からの初便りだ。

 蓬莱(ほうらい):正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて、白米・歯朶・昆布・ゆずり葉を敷き、橙・蜜柑・柚・橘・かちぐり・野老・ほんだわら・ころがき・伊勢海老・梅干しなどをその上に飾る。

・詠んだ時期・場所:1694年(元禄7年) 江戸

 1826年(文政9年) 樵耕堂(佐藤源十郎)建立

 一関市指定文化財

神明神社

神明神社は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社である。神明社、神明宮、皇大神社、天祖神社などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。Wikipedia


伊勢神宮

https://www.isejingu.or.jp/  

この時間、外宮の御饌殿では日別朝夕大御饌祭が執り行われています。日別朝夕大御饌祭とは、朝な夕なに御飯・御水・御塩などのお食事を奉り、「国安かれ、民安かれ」との祈りと感謝を捧げるお祭りで、外宮の御鎮座以来1500年もの間、つづけられています。

降りそそぐ太陽は明るく温かく、山から流れる川は清らかに、そよぐ風の音はさわやか。日々の暮らしの中、感謝をすることで見えてくる美しい景色とともに、このひとときをお過ごしください。

https://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/higotoasayu.html

日別朝夕大御饌祭は、朝と夕の二度、外宮の御饌殿みけでんで御飯、御水、御塩などを天照大御神に奉り、「国安かれ、民安かれ」との祈りと感謝を捧げるお祭りで、外宮の御鎮座以来、約1500年間つづけられています。

https://www.isejingu.or.jp/ritual/index.html

古来、日本の国は「豊葦原とよあしはらの瑞穂みずほの国」と呼ばれ、水に恵まれ稲が立派に稔る国を意味します。私たち日本人にとって、お米は単なる食料としてだけではなく、神と人とを結ぶお供え物でもあります。神宮では稲が芽吹き、そして稔るという稲作の周期と共に、年間1500回に及ぶお祭りが行われ、その中で大御神のご神徳をたたえ、ご神恩に感謝し、「国安かれ、民安かれ」と、国家の隆昌と国民の幸せをお祈りしています。

https://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/kagurasai.html

古来、日本の国は「豊葦原とよあしはらの瑞穂みずほの国」と呼ばれ、水に恵まれ稲が立派に稔る国を意味します。私たち日本人にとって、お米は単なる食料としてだけではなく、神と人とを結ぶお供え物でもあります。神宮では稲が芽吹き、そして稔るという稲作の周期と共に、年間1500回に及ぶお祭りが行われ、その中で大御神のご神徳をたたえ、ご神恩に感謝し、「国安かれ、民安かれ」と、国家の隆昌と国民の幸せをお祈りしています。

(略)

https://www.motoise.jp/about/about01/   丹後一宮元伊勢 龍神社

主祭神 彦火明命ひこほあかりのみこと

別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様。

相殿

豊受大神とようけおおかみ

天照大神あまてらすおおかみ

海神わたつみのかみ

天水分神

御由緒

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。

両大神が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。

旧社名の匏宮の「匏(よさ)」と吉佐宮の「吉佐(よさ)」という宮号は現在も郡名(与謝郡)や海の名称(与謝の海)となって継承されて来ております。

社殿様式(神社建築最古の様式)

唯一神明造り

神明造り

五色の座玉

五色の座玉すえたま

本殿は伊勢神宮と同様の神明造りで、勝男木は十本、千木は内そぎになっています。

心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、伊勢神宮御正殿と当社以外には拝せられないもので、神社建築史上特に貴重なものとされています。

これは山陰道一之大社として、古来の御神徳・社格を象徴するものであります。

神明造りのお社は他にもありますが、規模・様式とも伊勢神宮御正殿の様式に近似しているお社は当社以外にはなく、伊勢神宮と当社が古代から深い繋がりにあったことを物語っています。

延喜式における社格

当社は延喜式社格で山陰道八カ国(但馬・丹波・丹後・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見)中、唯一の官幣大社であり、名神大社にも列していました。

延喜式社格とは平安時代(912年)に完成した法政書『延喜式』の「延喜式神名帳」に記載された神社の社格のことであります。社格は神祇官(中央)の管轄となる「官幣社」と地方官(国司)の管轄となる「国幣社」に分けられます。更に幣帛を案(神事用の机)の上に奉るか、案の下に奉るかの違いで大社と小社に分けられます。また、国家の事変に対して奉幣し、臨時祭のあった神社を名神社と云います。

「一の宮」と「総社」

「一の宮」とは一種の社格のことで、諸国において由緒ある神社や信仰の篤い神社の序列がおのずから生じ、その最高位に列するものが「一の宮」となりました。一方、「総社」とは国内の諸社祭神をすべてお祀りしたお社で国司が奉祭する神社を云います。当社は奈良朝以後、丹後国一宮に列し、同国の総社を兼ねました。

籠この宮みや名称起源

別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼びます)に行かれたとの故事により、社名を籠宮と云うと伝えられています。

奥宮 眞名井神社

御祭神

磐座主座

豊受大神とようけおおかみ

産業、衣食住の神様。

月神の一面をお持ちであり、天御中主神と同神であると伝えられる。

御神徳五穀豊穣

衣食住守護・諸業繁栄

相殿

罔象女命みづはのめのみこと

彦火火出見尊ひこほほでみのみこと

神代五代神かみよいつつよのかみ

磐座主座

磐座西座

天照大神あまてらすおおかみ

伊射奈岐大神いざなぎのおおかみ

伊射奈美大神いざなみのおおかみ

御神徳縁結び・夫婦和合

家内安全・延命長寿磐座西座

磐座~古代から受け継がれる祭祀~

眞名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われてきました。神を祀る常設の社殿(神社)が無い時代の人々は大きい木や岩石、島や川などに神々が籠もると考え、それらを崇拝対象として神祀りを行っていました。眞名井神社境内地には縄文時代から人々が住んでいた証である縄文時代の石斧や掻器などが出土し、また弥生時代のミニチュア祭祀土器破片や勾玉が出土しています。そのため眞名井原一帯は縄文時代から神聖な地と考えられ人間が生活を営み、神々をお祀りしていたことが窺えます。

磐座

天の眞名井の水

この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。


http://www.shimogamo-jinja.or.jp/about/ 下鴨神社

ご祭神

御祭神と御神徳

ご祭神 御祭神と御神徳

正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」と親しくよばれています。東西の両本殿はともに国宝に指定されています。

ご祭神

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿

玉依媛命(たまよりひめのみこと) 東殿

賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。

そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、子宝、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。

ご神徳

賀茂建角身命は、農耕をひろめ民生の安定につとめられたことによって世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除。また、『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わされた御功績が伝えられているとおり、導きの神、勝利の神、方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行、操業の安全等多方面に御神徳を顕わしておられる。

御子神、玉依媛命は、『風土記』に御神威が伝えられている。婦道の守護神として縁結び、安産、育児等。また、水を司られる神として著しい御神徳を発揚せられている。

賀茂建角身命・八咫烏伝承

当神社がまつられたのは、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の森周辺の発掘調査で縄文時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。

平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。

平安時代末期になりますと全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社をささえました。 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きますが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわってご神徳を説いていくのもこのころです。当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。 明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。

創祀

創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇2年(BC658)2月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。

この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。 また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。

崇神天皇七年(BC90)には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)され、垂仁天皇27年(BC28月には、御神宝が奉られている。(『同書』)また、緩靖天皇(BC580)の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。


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城北公園 花菖蒲 鴨 『八咫烏(鴨建角身命)の正体』 より

鴨という名前を持つ神様がいます。

鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)といい、京都の下鴨神社に祭られている神様です。

鴨建角身命は賀茂氏の始祖とされています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端であるということで東征し、機内入りをめざしました。

そして河内国へ上陸し、地元の豪族・ナガスネヒコの軍と戦いますが、敗れます。

そこで神武天皇はいったん南に迂回して紀州から上陸することにしました。

神武は熊野を北上しますが、この際、鴨建角身命が八咫烏となって現れ、神武天皇を道案内しました。

咫は大きさを示す単位で、八は一般には大きな数字を表すと考えられています。

八咫烏とは大きな烏という意味だとされています。

しかし梅原武さんは「八は復活する数字」だとし、「八角墳は死者の復活を願って作った古墳、八角堂は死者の復活を祈って作ったお堂のことではないか」とおっしゃっています。

そういえば、八咫鏡は天岩戸にこもった天照大神を復活させた鏡のことですね。

神武天皇を道案内したのは八咫烏ですが、神武の先祖にあたるニニギという神が高天原から葦原中国へ天下る際、猿田彦という神が道案内しています。

猿田彦は天狗の姿をしています。

そしてニニギを道案内した神なので、祭りの行列では先導役とされることが多いです。

↓ 下の写真は大阪市平野区杭全神社の平野夏祭の猿田彦神です。

猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があります。

これにぴったりな神名を持つ神がいます。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命です。

天は高天原、国は葦原中國のことなので、「天照国照彦」とはまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命という神名は先代旧事本紀の記述で、古事記や日本書紀では単に饒速日命(ニギハヤヒ)となっています。

この天照国照彦火明櫛玉饒速日命は男神で、本当の天照大神ではないかという説があります。

天岩戸にこもった天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味をもって天岩戸から出てきますが、女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、というのです。

さらに天照国照彦火明櫛玉饒速日命は物部氏の祖神とされているので、初代神武以前に物部王朝があったとする説もあります。

猿田彦と八咫烏はどちらも天孫の道案内をしているところから、同一神ではないかと私は考えます。

八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。

つまり、八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒなのではないかと思います。

神武以前に物部王朝があったとすれば、神武が初代天皇となったとき、物部王朝の王族は神武に服従するか、殺されるか、または未開の地へ逃げるなどしたことでしょう。

その物部王朝の祖神であるニギハヤヒ=猿田彦=八咫烏は神武に祟りこそすれ、神武の道案内などするはずがない、と思われるかもしれません。

しかしウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。

「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」

つまり、猿田彦や八咫烏とはニギハヤヒという祟り神を手厚く祀り上げることで、協力な守護神に転じさせた神のことではないかと私は考えています。