竹藤の会津唐人凧
クラウドファンディング、リターンの凧について
会津唐人凧(小)
復活 会津唐人凧(大)
竹割りは熟練の技術が必要な為、私や母には出来ません。
この凧は、輪郭にも骨(竹)が入っています。輪郭の骨は、割ってある仕入れの竹では、凧揚げができるような凧は、できないそうです。
また、凧をあげるときに横の一番長い部分の竹に糸を引っかけて、張りを作り、凧をしならせます。
その、しなり用の竹も他と割り方が違っていて、それも仕入れの割った竹では、折れやすくなるそうです。
竹藤と会津唐人凧
竹藤の店と共に、紹介されてきた『会津唐人凧』
元々、竹問屋だった竹藤でしたが、祖父が若いうちに亡くなり、時代と共に竹も売れなくなりました。
また、交通量も多くなり、竹を運ぶことも困難になりました。
竹問屋では、生活が出来なくなり、悩んでいた頃に、会津復古会が結成され、会長の五十嵐大祐さん(会津葵)から、声がかって、昭和47年に復古会に入会。
竹を割りが出来る事から、会津に古くから伝わる会津唐人凧を作る事になったのです。
そして、竹細工や籐製品、民芸品を売る、今の店へと変わったのでした。
会津唐人凧とは
会津に唐人凧は、江戸時代から昭和にかけ、会津近郊で揚がられていた凧です。
唐人凧は、約400年前大陸より長崎へ伝えられたといわれております。
この唐人凧は、北九州地方と本州で、木更津近辺にみれるだけで、その凧がどうして小国会津へ伝えられたか謎とされてきました。長崎の商人院、キリシタン院といろいろありますが定かではありません。
この凧『ベロくん出し』の絵は、唐人の顔だという古老もおり、また、ヒンズー地方の天の神「ガルーダ」と「カーリー」を表しているとも言われています。
昭和五十二年八月二日、日本K2登山隊は、登頂に成功しましたが唐人凧の里帰りとして宮森隊員(会津若松)の持参した竹藤製の会津唐人凧を頂上直下7920メートル揚げ、高所凧揚げ新記録としてギネスブックに現在も掲載されております。
戊辰戦争(一八六八年)で篭城した会津藩士の子孫が弾丸降りしきる中、城内より空高く唐人凧を揚げ味方の将兵の士気を鼓舞したのは有名です。
こちらの波凧も唐人凧と共に、江戸時代から伝わる凧です
大河ドラマ『八重の桜』にて
八重の桜の凧も、父が作ったもの。
実際に、番組スタッフから声がかかり、撮影現場まで足を運びました。
八重の桜の撮影協力者、出演者に配られた記念品。江戸切子のグラス。裏に唐人凧の絵が嬉しい
数ある会津のイメージから唐人凧が…💕
ぴったんこカンカンの取材で、綾瀬はるかさん、安住アナウンサーと来店
父も一緒に凧揚げに行くはずが、店での二人の会話を聞いたスタッフから
「二人で凧揚げしたいみたいなので、ご主人は、結構です」
と、断られたそうです
でも、綾瀬はるかさん
抜群のセンスで、凧揚げが驚くほど上手でした
これまで取材で、多くのの芸能人が店に訪れ、凧揚げもたくさんの人とやってきましたが綾瀬はるかさんのようにすぐに上手に揚げられる人は、ほとんどいなかったそうです。
八重の桜の撮影現場を特集したときの番組です。
この1年後、父は脳の病気になり、今ではほとんど凧が作れなくなってしまいました。
竹が売れなくなり、竹問屋から、竹細工を売る店へと変わったばかりの竹藤(昭和46年頃)
この頃まで、暖簾もなく雪障子戸もはめていませんでした。
私が生まれる前です。