平野啓一郎「ある男」
《里枝も、口を開かなかった。何が起きているのか、まるで分らなかったが、ただ夜の訪れを前にして、蛍光灯に隅々まで照らし出された澄んだ静けさが、ひどく愛おしくて、その時間を壊してしまいたくなかった。》
《窓の色はビル群を抜ける度に夕暮れに染まってゆき、地平線に溶け残った最後の光が尽きるのは、うっかり見逃してしまうほど速かった。》
平野啓一郎という作家の名前は知っていたけれど、今まで読んだことはなかった。何だかけっこう才気走った作家というイメージがあった。でも読み始めてその文章に奇をてらったところはなく、きちんとしていて、責任感のある、落ち着いたスタイルが好きになった。
上に挙げた文章はこの小説のかなり前のほうに出てきたものだが、あ、この人、夕暮れ好きかなーと思った。そして、時間とか過去とかがこの人のテーマというか、拘りになっているかなという感じがして、心地よく読み進んだ。
謎解きの牽引力は確かに作品の中にあるけれど、けしてそのミステリーだけが話題になっているのではない魅力ある小説だった。それぞれの出会いと別離と愛と過去と、ほんの紙一重のところで人生の「次」は作られていく。偶然のようであるけれど、必然であるとも言える、それぞれの人生は一人一人のけなげでかけがえのないその時々の意志の結果でもあるということを思った。
昨夜、最後の方のページを寝床で読んで、睡魔のせいで最後まで行かずに、今朝目が覚めてから、最後の章を読んだ。
そこには里枝の息子の悠人が読んだ芥川龍之介の作品、そして悠人が読んだ俳句のことが書かれていて、それが美しいクライマックスとなっていた。読みながら、静かな涙が流れた。それから小説が終わっても、参考文献やら、何やら、この本に書いてある最後の文字まで名残惜しく読んでいた。
作者自身の小説への愛が感じられる作品でもあった。