黒曜石・火山が生み出した天然ガラス
高原地帯に埋まる黒曜石の写真
https://jomon.co/story/
1. 星降る中部高地
長野県と山梨県にまたがる八ヶ岳の北麓には本州最大の黒曜石原産地遺跡があります。火山性ガラスである黒曜石は、日本列島の石器を代表する石材として利用されていました。中部高地で黒曜石が出土する遺跡は星糞峠、星ヶ塔 、星ヶ台など星の名がつく高原地帯で発見されています。足元でキラキラ光る黒曜石のかけらを、地元の人たちが空から降ってきた星のかけらと信じたことからこうした地名が生まれたと伝えられています。
<黒曜石とは>
黒曜石は、火山が生み出した天然ガラスです。日本列島には、北海道から九州まで100ヶ所以上の黒曜石原産地遺跡があるといわれています。なかでも、信州産の黒曜石は良質なものが多く、割れ口が鋭く加工しやすいため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として当時の人々に好まれ、広く利用されていました。
2. 黒曜石鉱山から全国へ
黒曜石原産地遺跡を訪れると、数千年の時が経った今でも、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を見ることができます。よりよい石材を得ようとする縄文人の苦労と熱い思いが伝わってきます。
掘り出された黒曜石は、ふもとのムラからムラへと運ばれていき、ムラを結ぶ道は「黒曜石の道」となりました。
かつて、八ヶ岳の山麓には、大量の黒曜石が集められた大きなムラが点々と存在していました。そこは良質な信州産の黒曜石を求めて遠くの地域から訪れる縄文人との出会いの場となり、東西文化の交流のネットワークが結ばれていたのです。
<縄文時代とは>
縄文時代は、日本列島で今から約16000年前から約3000年前まで続いたと言われています。縄文時代以前の旧石器時代は最終氷期と呼ばれる寒い時代でした。気候変動を経て、自然環境が変化し、温暖な環境になったのが縄文時代でした。
3. 縄文人と私たち
黒曜石や山の幸に恵まれて繁栄した中部高地には、多くの縄文の遺跡があります。
遺跡には竪穴住居が立ち並び、ムラでの生活の中では土偶を用いた祈りが捧げられてきました。動物や人の顔のような文様からは神話的な世界観が感じられ、縄文人の心のうちがみえてくるようです。
中部高地には豊かな自然が変わらずに残されており、今もその自然とともに人びとが生活しています。縄文人が黒曜石を運んだ道をたどり、山麓にある縄文のムラの跡を訪ねることで、雄大な自然とともに生きた縄文人の息遣いを感じることができることでしょう。
<黒曜石の道>
現在のような運搬手段がなかった旧石器時代から弥生時代にかけて、数万年にわたって産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していた事実は、この資源が日本最古のブランドとして人気が高かったことを物語っています。
<人と文化の中継地点>
湿原は動物たちにとっても貴重な水場でした。また、縄文人たちにとっても格好の狩場として使用され、人と文化の中継地点となりました。
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/bunkazaih/2778.html
第53回黒く輝く石 ~黒曜石~
黒曜石は、旧石器時代や縄文時代の石器の代表的な石材です。この石材は地下のマグマが急激に冷えてできたものでガラス質です。たたいて割ると縁がカミソリのように鋭く、よく切れます。黒曜石とは「黒く輝く石」の意味で「黒耀石」とも書きます。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」には、黒曜石でできた地図がでてきますが、「夜のようにまっ黒な」と形容されています。賢治がどこで黒曜石を見たのかわかりませんが、全国では180ヶ所近くの原産地があり、東北でも15ヶ所、岩手県にも3ヶ所あります。
黒曜石は黒ばかりとは限りません。黒のほか赤や茶色などがあります。このほか黒曜石によく似た石があります。これはピッチ・ストーンという石で、脂のようなぬめり感のある光沢があり、白や緑色のものがあります。この石の原産地は不明ですが、石狩紅葉山49号遺跡でも出土しています。
黒曜石は火山のある場所でできます。北海道には10ヶ所近くの黒曜石の原産地が知られていますが、網走管内白滝村などでは赤や茶色の黒曜石があります。北海道では黒曜石のことを「十勝石(とかちいし)」と呼びますが、赤や茶色の黒曜石は「花十勝(ルビはなとかち)」あるいは「紅十勝(べにとかち)」と呼ぶことがあります。この色つきの黒曜石は、今のところ白滝村や置戸町の原産地の特産だといわれています。だから遺跡で赤や茶色の黒曜石があれば、これらの原産地から石が運ばれてきた証明になります。石狩市内の遺跡でも「花十勝」が出てきますから、市内の黒曜石の一部は実に160キロメートル以上、離れた場所から来たことになります。また石狩市内での遺跡の黒曜石の大半は、これより近い後志管内赤井川村のからきています。赤井川村は古い火山の火口で、黒曜石があるのです。ここの石は、色は黒ですが灰色がかった細かな気泡が縞状に入る特徴からわかります。
正確に原産地を知るには、黒曜石に含まれる微量元素を測定して特定する方法があります。この分析により、全国の黒曜石の流通経路がわかり始めています。例えば北海道の黒曜石が津軽海峡を越えて三内丸山遺跡に運ばれていたことが明らかになりました。求めに応じて人から人、村から村へ運ばれ、ついに海を越えていったのでしょう。
http://vzp04542.la.coocan.jp/earth/volcano/fukue/fukue01/fukue01.htm
福江火山群(1) ~特異な単成火山群~
1.五島列島・福江島の位置と地形
五島列島と聞いて「火山」を連想する人はあまりいないでしょう。
長崎県の最西端、東シナ海に浮かぶ、かつて遣唐使の時代から中国や韓国との交易の拠点であった島々。
火山が分布しているのは、北の小値賀(おじか)島と、南端の列島最大の福江島です。今回は南の福江島を訪ねてきました。
広く周辺の火山分布を見れば、いわゆる火山フロントに並ぶ九州火山のメインストリート(阿蘇~桜島~薩摩硫黄島~トカラ列島)からは大きく離れたところに位置します。そこにある火山の景観は九州のものとは随分違っていました。
遠く目を向けると、西には韓国唯一の火山島である済州島(チェジュ島)がドンと構えています。五島は日本列島とユーラシア大陸の間にあって、日本で普通に目にするものとは異なる火山が見られるめずらしい場所といえるかもしれません。
福江島の地形。舌のような溶岩地形が非常に新鮮。
福江島
五島列島の南西端にある最大の島が福江島。周辺の島々と共に平成の大合併で「五島市」となりました。
火山島としての福江島の特徴が上の地形図に集約されています。
島の中央の大部分は侵食の進んだ第三紀の堆積岩および深成岩からなる基盤です。
その周囲にいくつかの平坦な「舌」のような半島が見られます。これらはすべて玄武岩質の溶岩が噴出したものです。
大きなものは北西の三井楽(みいらく)火山、南の富江火山、南東には島のシンボルである鬼岳(おにだけ 通称おんだけ)火山群。
あまり目立ちませんが北の岐宿(きしく)火山もこれらの火山群のなかでは最古参のものです。
半島になりきれなかった「火山島」も数多くあります。
三井楽の西に位置する嵯峨島(さがのしま)、鬼岳火山の南に位置する黒島(くろしま)、黄島(おうしま)、赤島(あかしま)・・・
福江火山群は活火山
2003年、活火山の定義がそれまでの”およそ2000年以内に噴火した火山”から”およそ1万年以内に噴火した火山”に変更になりました。その際、福江火山群が新たにリストに加えられたのは、鬼岳火山群のスコリア層の下から縄文時代の遺跡(黒曜石)が出土したからです。地形を見ても明らかに新鮮ですね。
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/nagasaki_data/oushima/oushima.html
黄島 火山と捕鯨によって築かれた溶岩石垣石塀の集落
福江湾の南方17kmに位置する玄武岩質溶岩の平坦な小島で、噴火口をもつ番岳(92m)が最高点。寛永14年(1637)には遠見番が置かれている。近海に好漁場があり、特に捕鯨は江戸時代から営まれていた。昔のうたに「黄島・赤島木と水さえあれば、福江城下にゃ負けはせぬ」との言葉があるとおり、水源がないため天水を利用していたが、昭和59年7月に国のサンシャイン計画による太陽光利用海水淡水化施設(世界初)が設置され、現在は住民の生活用水として活用されている。泊遺跡からは、縄文時代の土器片や黒曜石製の石器が出土し、古くから北部九州との交易があったことをうかがわせる。(「シマダス」参考)
福江島の南東海上には、赤・黄・黒と三色の名が付いた島がある。その一つ、黄島(おうしま)は、江戸時代から昭和まで捕鯨の拠点とした大変栄えた集落である。そして、火山であることから島全体が溶岩でできている。その二つの要因によって、「溶岩の石垣石塀の集落」という大変珍しい集落景観を見ることができる。過疎化によって家屋は数を減らしているが、板壁+瓦葺屋根の古い民家も残っている。五島列島の中でも必見の集落のひとつといってよい。
富江(とみえ)火山
福江島の南端に伸びた「舌」状の平らな溶岩平原。
火山というにはあまりにも平らな地形です。
中心火山は北部にある只狩山スコリア丘。
人は山を見て、その姿をいろいろ形容するのでしょうが、富江火山はそのあまりの平坦さで、「山」としての印象は低いかもしれません。
富江火山の特異さはこの平坦さにあります。
玄武岩質の中でも特に流動性に富んだ溶岩の大量噴出によってできた半島。
いつ頃噴火したのかについては、研究がそれほど進んでいないようですが、最も新しいとされる鬼岳火山群とそれほど変わらないのではないかという説もあります。