「つきのなみだ」青柳拓次 作 nakaban 絵
音楽家と絵本作家による共作絵本はつい先日、スズキコージさんと友部正人さんの「えのなかのどろぼう」をご紹介しましたが、こちらは青柳拓次さんとnakabanさんによる絵本「つきのなみだ」(2007年)です。
短い言葉と美しい青色で展開されるこの絵本を読むと、どこか寂しい気持ちになるのは何故なのでしょうか。
月が涙を流して、その涙が池になります。その池にやまねこが、次いでみみずくが、その次には猿がやってきて、それぞれみな、果物を洗ったり、水浴びしたり、池を覗き込んでそこに映った月と見つめあったり。
カエルややまがらもやってきます。段々と夜が明けて、すっかり月は嬉しくなって、また沈んでいきます。
静かで、優しい絵本だと感じます。でも何だか寂しい。
この絵本から感じる都会的な感覚はnakabanさんの絵によるものなのか、青柳拓次さんのお話によるものなのかわからないのですが、この寂しさが、不思議と都会的な感じがするのです。
この絵本には人間が全く出てきません。ほとんどの場面が夜の森の中で、最後の朝焼けの場面で遠景に街並みが少し見えます。
人間の出てこない絵本なんて、それはそれは山程あると思いますが、そうした絵本の中でもこの作品を特徴的なものにしているのは、人間の世界の片隅でありながら、人間が関係することのない場面のみによって展開されているからではないでしょうか。
居るはずの世界に、それが描かれないことによってかえって強調されているように感じるのです。
そしてきっと、この絵本に寂しさを感じる一番の理由は、この絵本の中で「何故、月が泣いているのか」それが何も書かれていないことなのだと思います。
この絵本の書き出しは「つきがないています」ではじまりますが、その理由には全く触れられることはないのです。
動物たちも、その涙に気づいているのかいないのか、尋ねることもありません。
描かれない人間と、書かれない月の涙の理由を重ねて考えてしまうのは、読み手の問題でしょうか。
そうかもしれません。
私はこの絵本を読むと、(恐らく人間のせいである)月の涙を、人間は癒すことができなかった、そんな風に受け止めてしまい寂しく感じてしまいます。
この絵本を貫いている多様な青の表現(青は人間にとって哀しみの色ではないでしょうか)も、心に滲んで、胸を締め付けます。
それでも最後の場面、動物たちや、夜明けの世界に自分を重ね、陽に照らされ青が消え、眩しく輝き始めるその世界の中で、この絵本を喜びで閉じることも、許されているのでしょう。
遠く見える街の風景の中にいるであろう自分に、それでも夜が明けたのだと、言い聞かせることもできるのでしょう。
悲哀や喜びの、多彩な響きが青の中で調和する、素晴らしい絵本です。
そして、限りなく美しい絵本です。
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「つきのなみだ」