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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 17 (15/11/19) Mariko/Okabe Shuku 丸子宿/岡部宿

2019.11.15 09:08

(19) Fuchu Shuku 府中宿 (続き)

(20) Mariko Shuku 丸子宿 (鞠子宿)

[間宿 宇津ノ谷]

(21) Okabe Shuku 岡部宿




安倍川会所跡

安倍川の橋が見えてきた。旅人が川を徒渡りのときに使う川越人夫の管理場所である川会所跡がある。安倍川の両岸にあった。料金はランクがあり、体のどの部分まで浸かるかで変わった。これは少し分かりにくい。調べてみよう。

料金について解説したサイトがあった。川の水位によって値段が決まっていた。

この場所は安倍川で弥勒町と呼ばれた。ここには多くの史跡がある。


由比正雪之墓碑

墓は確か品川の鈴ヶ森刑場にあったと思うが、墓が複数あるケースは多い。特に歴史上有名な人の墓は幾つもある。


駿河キリシタン殉教碑

江戸時代初期のキリシタン迫害で殉教した駿河の町人の慰霊碑。


安倍川架橋の碑

当時川越人夫による徒渡りだったが、地元の宮崎と言う人が私財を投じて明治7年に橋を架けた。この時代まで川越人夫に金を払っての徒渡りだった。


安倍川義夫の碑

その川を渡った時の出来事が記されていた。安倍川義夫の碑なるもの。

安倍川と言えば安倍川餅が有名。弥勒院と言う山伏が還俗して餅をここで売るようになったと言う。これが弥勒町の名の起り。江戸時代から続いている店が川のすぐそこにある。当時は川を渡る順番待ちの旅人で繁盛しただろう。

安倍川を渡る。思っていた以上に川幅が広い。旅人で歩行渡の際に溺死した人も多かったそうだ。駿河方面には富士山が見える。いつまで富士山が見えるだろう。今日が最後かもしれない。


佐渡の子授地蔵尊

丸子宿への途中にあった地蔵尊

もうすぐ丸子宿だ。



(20) Mariko Shuku 丸子宿 (鞠子宿)

丸子宿は東海道20番の宿場で府中宿から 1里16町 (5.7km) の距離。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、戸数211戸、人口795人では東海道中でもっとも小さい宿場。


丸子一里塚

塚はもう残っていない。表示板のみ。


江戸方見附跡

ここから丸子宿が始まる。


丸子宿脇本陣/問屋跡


横田本陣跡


藤波家脇本陣

宿場の雰囲気は数軒の古い家屋で何とか感じられる。


丁子屋

安藤広重の丸子宿の浮世絵に描かれている丁子屋が再現されている。創業は、戦国時代末期の1596年で、以来400年間場所を変えずに営業。当初はお茶屋。とろろ汁が名物だ。今でも旅人に出している。この写真が浮世絵に一番近いかな

この丁子屋は丸子川の辺りにあり、もう一軒とろろを出す店がある。多くの人がここを訪れている。細川幽斎がここで詠んだ歌碑があった。旅をしていると良く幽斎の歌碑に出くわす。訪れる先でその時に感じた事を歌にしている。そのように感じる事が出来るのは凄い事だ。この川沿いに自転車専用道路が走っている。行ってみたい衝動を抑えて先に進む。


高札場

丸子川を渡ったところに高札場跡がある。ここが丸子宿の終わり。当時の高札が幾つか掲げられていた。どんな事が書かれていたのか興味あるので写真におさめた。読めるかな?

丸子宿から次の岡部宿へは旧道と国道1号線が一緒になったり離れたりで、丸子宿と岡部宿との間の峠の谷間にある宇津の谷の間宿を通る。


[間宿 宇津ノ谷]

登り坂になる。それ程きつくはない。難所と言われているにしては拍子抜け。



宇津ノ谷集落

街道沿いには昔の家屋の様相を継承していて江戸時代の街道の趣が残っている。


羽織茶屋

宿場には羽織茶屋という茶屋がある。豊臣秀吉が、北条征伐の折、小田原に向かう途中に休憩した茶屋が、秀吉より戦勝のお礼として陣羽織を授かり「お羽織陣屋」と称する様になった。今は公開していないと張り紙があった。

ここの峠を越えるには、今はトンネルを通る。明治時代 (写真下)、大正時代 (写真上)、昭和時代 (写真中)、そして平成の4本のトンネルが走っている。時代によってのニーズが変化しているのが良く現れている。昭和と平成のトンネルを行けば岡部宿には楽に着けるが、宇津ノ谷集落にはいけないので、それは避けてここに来た。明治か大正のトンネルのどちらかで行くのだが、当然出来るだけ古い方を選ぶ。

明治トンネルに向かう途中に道が分かれて、峠越えの江戸時代の東海道が現れた。掲示板を見ると距離は1Kmぐらいで峠を越えられる。これを知ってしまうと山道を行きたくなる。往復2Kmは大した事は無い。自転車をそこに停めて徒歩での往復となった。成る程、これが難所と呼ばれた理由だ。集落から峠まではそこそこきつい坂だった。

山道は昔のままに残っていると思う。峠を越える少し前に地蔵堂の跡があった。建物は残って無いのだが石垣がまだ残っている。規模から見るとある程度の大きさの地蔵堂だっただろう。多分、今朝、途中で見た地蔵堂の様だったのだろうと想像。

無事、峠を越え、来た道を戻り、明治のトンネルを抜け岡部宿に向かう。



(21) Okabe Shuku 岡部宿

岡部宿は東海道21番の宿場で丸子宿から 2里 (7.9km) の距離。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒、戸数487戸、人口2,322人。ここには結局、東海道本線は敷設されず、宿場町としては衰退。

安藤広重の岡部宿で描かれているのは岡部宿の前に訪れた宇津ノ谷集落があるところ。確かにこの様な感じだった。



十石坂観音堂

岡部宿の東口にある小さな観音堂。この辺が岡部宿が始まる場所で近くには東枡形 (見附) があったそうだ。

岡部橋を渡ると岡部宿らしくなってくる。

岡部宿には細々した史跡跡を示した表示板はあまりなく、本陣と大旅籠柏屋を復元して、そこで岡部宿観光が完結できる様になっている。一般観光客が立ち寄って見るには便利だが、史跡巡りの旅には少し物足りない。何もなくてもそこに何があったと表示板だけでも色々と想像が膨らむからだ。



岡部宿本陣跡

隣には大旅籠柏屋を再現。中庭は土産店、展示場、ギャラリーなどに活用。


物見台


小野小町姿見の橋


高札場跡


西枡形跡

ここが西の見附や木戸にあたり、ここで岡部宿が終わる。


松並木

宿場を出て、先に進む。街道沿いには昔の建物は無いのだが、街道も雰囲気が出る様に建てられた家が多く感じた。松並木側残っている。これに合う様にしたのかな?


常夜灯


岩村藩傍標

朝比奈川に架かる横内橋を渡ると横内に入る。横内の終わりに岩村藩と田中藩の境界線があり岩村藩傍標がある。


田中藩傍標

田中藩傍標も少し行った所にある。

田中藩内に次の宿場の藤枝宿がある。葉梨川に架かる八幡橋を渡る。ここには籠や馬をはじめ人夫の休息所である立場があった。ここはもう藤枝市でもう少し行くと藤枝宿がある。もう夕方近くになっているので、ここで東海道を外れ、宿のある焼津に向かう。明日はここに戻って藤枝宿から始める。