Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~ショパンの頃から始まったロシアの音楽家ニコライ・ズヴェーレフ~

2019.11.16 10:00

ニコライ・ズヴェーレフ

(1832年ロシア帝国 ヴォロコラムスク近郊-1893年10月12日

 ロシア帝国 モスクワ)

学歴  モスクワ大学中退

職業 クラシック音楽、音楽教師、ピアニスト

ニコライ・セルゲーエヴィチ・ズヴェーレフはロシアのピアニストで音楽教師でした。ロシア5人組の中のひとりであったミリイ・バラキレフ、そして、アレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、などを教えた。


ズヴェーレフは、ヴォロコラムスク近郊の貴族の血筋に生まれました。

裕福な貴族の家柄だった彼は、モスクワ大学で数学と物理学を学ぶ一方で、邸宅に招いていた作曲家でピアにストであった、アレクサンドル・デュビュック(1812年~1898年彼は、ジョン・フィールドの弟子で、彼の家族はロシアに逃げたフランス革命の難民でした)にピアノを学びました。

貴族であったズヴェーレフは父親から莫大な遺産を相続しましたが、大学を卒業しませんでした。家族から彼は「不名誉な」ピアノのキャリアを続けることを禁じられましたが、ズヴェーレフは音楽院に入学することはなく、アドルフ・フォン・ヘンセルト(1814年5月12日シュヴァバッハ - 1889年10月10日ヴァルムブルン、はドイツの作曲家およびピアニストでした。)の下でピアノを学ぶことを続けました。

アドルフ・フォン・ヘンセルトはウィーンで宮廷楽長を務めていました。当時、オーストリアとプロイセンとロシア帝国はポーランドを分割して統治していた友好関係にありました。そのため、ズヴェーレフは、サンクトペテルブルクに移ってからは官僚に任命されました。

そして、ズヴェーレフは、サンクトペテルブルクでアドルフ・フォン・ヘンゼルト( 1814年5月12日 - 1889年10月10日はドイツ・ロマン派音楽の作曲家・ピアニスト。バイエルン王国シュヴァーバッハ出身。ロシア帝国に渡って、今日まで続くロシア・ピアノ楽派の基礎を築いた。)に学びました。ズヴェーレフは、師であるアドルフ・フォン・ヘンゼルトの影響により、自分の門弟にも厳しい指導を行いました。

しかし、ズヴェーレフは任命された公務員としての職に満足できませんでした。彼は、最初の師であったデュビュックに説得され、1867年にモスクワに戻って個人教師を始めました。そして、ズヴェーレフは、1870年にニコライ・ルビンシテインの任命で、モスクワ音楽院の教師になりました。

ズヴェーレフの門弟は男子のみでした。門弟になるとズヴェーレフ邸宅に住み込で、

厳しい訓練を課せられました。ズヴェーレフ邸宅で開かれた集いの招待客には、ピョートル・チャイコフスキー、アレクサンドル・タネーエフ、アントン・アレンスキー、アントン・ルビンシテイン、ワシーリー・サフォーノフ、アレクサンドル・ジロティ、などがいました。

ズヴェーレフは、同性愛者であった可能性があるという見解がありますが確かな根拠は不明です。彼は、1893年に61歳で亡くなり生涯独身でした。

前列中央がズヴェーレフ、

左から、サムエリソン、スクリャービン、マクシモフ、ラフマニノフ、チェルニャエフ、ケーネマン、プレスマン