「日曜小説」マンホールの中で 終章
「日曜小説」マンホールの中で 終章
「誰だ」
善之助は一人暮らしであった。それでも病院から戻って、しばらくの間は子供や孫が泊まりに来てくれていた。しかし、それから数カ月もたてば、誰もが普通の生活に戻ってゆくことになる。妻は数年前に先立って行った。町の中心から少し離れた一戸建ての家に一人で暮らすしかなかった。
病院にいても、お見舞いという形式的な儀礼で来る人は少なくなかった。しかし、自分の家族のように、そして昔からの仲間のように見舞いに来てくれる人はいなかった。「日常に戻る」ということは、善之助にとっては「孤独な生活に戻る」ということに他ならなかった。
もちろん、毎日駅前の施設に通い、それなりに他人との会話はある。しかし、どれも事務的であるか、あるいは、全く意識をしているわけではないのだけれども、目が見えない善之助に対していらぬ憐憫の情をもって話してくるような輩ばかりである。
この日も、また、あの時よりも少し和らいだ夕日の中を、また、誰もが相手に対して無関心で、そして、全く相手のことを考えない人々が、イヤホンで他人の心の悲鳴を遮りながら、自分勝手に闊歩する街の中を歩いて、家に戻ってきた。あの交差点を本日も通ってきたが、あの周辺がどのようになっているのかは、目の見えない善之助にとってはどうでもよいことであった。退院してしばらくは、足元のアスファルトの感じが昔と違ったような気がしていたが、それでも、それから一カ月以上たった今では全く違和感を感じなくなっていた。
そんな日、夜中にたまたま目を覚ましたところ、自分の家の中の雰囲気が違う。そして、部屋の中で音がするのである。
部屋の中に自分以外の誰かがいる。自分以外いないはずのこの家の中に、誰かがいるのである。
「誰だ。目が見えないと思って物でも盗みに来たか。それならば欲しいものなどないぞ」
「爺さん」
聞き覚えのある声であった。
「お前は次郎吉か」
「さすが爺さんだ。相手が泥棒だとわかるというのは、感覚が優れているね」
「こんな時間に誰もいない家に入ってくるのは泥棒意外いるまい」
「まあ、爺さんぐらいになれば、あの世からのお迎えも来るかもしれんぞ」
善之助は、次郎吉の久しぶりの悪態に笑って答えるしかなかった。
「おいおい、あの世からのお迎えは、お前の鼠の杭に逃げたらいなくなってしまったよ」
「覚えていたのか。」
「ああ。もう一度君と会いたいと思っていたよ。」
善之助は、床の上に座り、声のする方に顔を向けた。自分は目が見えないので、電気をつける必要はないのであるが、なぜか癖で、テーブルの上にあるリモコンを押して電気をつけた。次郎吉は、どうもテーブルの向こう側に座ったらしい。そのような音がした。今日は、寒くもないのにダウンジャケットのようなビニール生地の上着を着ているのか、キュッキュッという音がする。
「いや、いい家に住んでるじゃないか。爺さん」
「マンホールの中の方が広いぞ」
久しぶりに会った次郎吉に何かしてあげたいと思ってお茶を入れようと動く。しかし、次郎吉に手を取られて、元の位置に座らされた。
「爺さん、目が見えないんだから何もしなくていいよ。お茶も出なかったなんて話す相手もいないしな」
「おいおい、鼠に報告されてはあまりうれしくもないぞ」
「おい、爺さん。鼠だけじゃないぞ。俺の話し相手は」
「それにしても無事だったのか」
「ああ、ちょっと腕の骨を折ってしまったようだったが、爺さんより軽症だったよ」
「ちゃんと治したのか」
「心配すんなよ。こうやって爺さんに気づかれないうちに家の中に入ることができるくらいに治ってるよ」
善之助は、何か安心した。目の前にいるのは泥棒である。本当の姿であれば、この場で殺されて、有り金をすべて持っていかれてもおかしくはない。しかし、善之助には次郎吉がそのようにしないことを知っていた。いや、もしも何か心変わりをして、そのように凶暴な行為をされても、相手が次郎吉ならば許せる気がしていた。
「しかし、爺さんには驚かされるな」
「なにが」
「まさか、爺さんが元の役人、それも警察の偉い人だったとは思いもしなかったよ。そのうえ、そのあと県会議員様だって。まあ、マンホールの中で真っ暗だったし、何もわかんなかったな」
「調べたのか」
「もちろん。病院に行けば、それくらいはわかるさ。爺さんのカルテを見たり、住所から何かを調べるくらいは、銀行の金庫を開けるよりも簡単だからね。あの辺の書類は、本当は個人情報だのなんだの言いながら、全く管理ができていないからね」
確かにそんなものだ。コンピューター管理をしているだの、個人情報保護法だの言っても、そのパスワードをコンピューターの横に貼ってあれば、何の意味もないのである。それも、ご丁寧に、カルテが紙で印刷されていては、パスワードで管理していても意味がない。
「いや、警察にいたのは昔の話。それもあの当時はあれだけ敵対していた泥棒に、次郎吉さんのような人がいるとは思いもしなかった。いや、警察であるのに泥棒を尊敬するようになってしまったよ」
「今さら爺さんに捕まるのも嫌だけどな」
「それで病院を抜け出したのか」
「ああ。本名も言えないしな」
次郎吉は笑った。
「それでも、爺さんが気になって、一応挨拶に来たわけさ」
「ありがとう。本当にありがとう」
「さて、あいさつもしたし」
次郎吉は立ち上がった。
「まて、次郎吉」
「なんだ、今度は逮捕する気になったか」
「まさか、私は警察を辞めているから逮捕する気などはないよ。そうではない、一緒に仕事をしないか」
「仕事!」
さすがに次郎吉は驚いて、もう一度座った。元警察の、それも元県会議員様が泥棒という完全に社会からドロップアウトした自分と何を一緒に齟齬戸をしようというのか。
「いや、君と一緒に仕事をしたい。いや、私と組んでくれ。頼む」
善之助は、恥も外聞もなく、その場で頭を下げた。目が見えないからか微妙に次郎吉の方向と違う方に向かって頭を下げていたが、次郎吉は全く気にならなかった。
「まさか、爺さんが泥棒になるってんじゃないだろうな」
「まさか。目が見えなくて、足も手も骨折したジジイには、泥棒なんて高度な仕事は無理だよ」
「じゃあ、何をやるんだ」
「スパイ」
「はあ?」
様々な信じられない話を見聞きして、そのうえ自分も泥棒という浮世離れをした存在である次郎吉であっても、さすがにスパイというもっと現実離れをした話がくるとは思いもしなかった。
「次郎吉と組むというのはいかがなものかと思うが、事前に犯罪を防ぐ、そんな話だ」
「???」
「今結論出さなく手の良いから、考えておいてくれないか」
次郎吉は、一度立ち上がったにもかかわらず、もう一度その場に胡坐をかいた。
「爺さん。これだけ犯罪をした俺に、今度はスパイか。鼠小僧からジェームスボンドか」
「君ならばできる」
「そんなもんか」
「ああ」
しばらく二人の間に沈黙が続いた。しかし、今回はマンホールの中ではない。あまり焦ることもなかった。善之助は再度悩んでいる次郎吉のためにお茶を出そうと立ち上がったかが、胡坐をかいた次郎吉は、先ほどとと同じように立ち上がり、また手を取って、善之助を座らせた。
善之助はそのままそこに座ると、何も見えないにもかかわらず、それが礼儀であるかのように、次郎吉の方を見ていた。
「爺さん。俺はあんたが元警察官だと知らないで、自分が泥棒であるといった。そして、実は今日はあんたに逮捕してもらおうと思ってきたんだ。なんだかこの前爺さんと話してから、そろそろまっとうな道に戻った方が良いような気がしてね。でも、俺よりも爺さんの方が、変な方に行ってしまったみたいだ。今度は俺が連れ戻さないといけないみたいだな」
「受けてくれるのか」
「鼠の国の仲間を一人にしておくわけにはいかないだろ」
次郎吉は仕方なさそうに言った。
「では、今度はいつ」
「そのうち、爺さんの後についてゆくよ。しかし、逮捕でも自首でもなく、まさかリクルートされるとは思わなかったね」
次郎吉は、マンホールの中の時のように笑った。
家の外には、鼠一匹いない、静かな夜が更けていった。
(了)