よく学び・よく遊べる建物「旧開智学校校舎」(立石清重 明治9<1876>年竣工)
「新・美の巨人たち(テレビ東京放映番組 2019年8月10日)主な解説より引用」
「旧開智学校校舎」この建物は、現在も長野県松本市内にある。
松本城から徒歩15分ほどのところに、明治9(1876)年小学校の校舎として建てられた。
明治初期の「擬洋風」建築様式が特徴となっている。
これまで重要文化財であったが、本年(2019年) 「国宝」としての指定が決まった。
正面のエントランス造形といい、建物全体の造形といい、白い壁に白い天井といったように、明るい色をふんだんに使ったハイカラな建物というのが、訪れる誰もが抱く第一印象である。
日本風、中国風、西洋風といった、あらゆる文化の個性を取り入れたであろう雰囲気が、あちこちに醸し出されていて、観るものを楽しませてくれる。
「唐破風」バルコニーにも、白い雲がデザインされ、八角系の塔屋には、半鐘が納められている。伝統的な建築の美学と、少しズレた印象のところもある。校舎内の窓には、すべて海外からの輸入品である、板ガラスが2500枚も使われはめ込まれている。
建築したのは、地元の大工棟梁であった立石清重(たていし せいじゅう 1829-1894)氏である。彼は、当時の文明開化の圧倒的なパワーと情熱を、建物の中にふんだんに取り入れつつ、彼の中に脈打つ情熱とエネルギーの結晶として、本建物を築きあげた。
ピーク時には、30室以上の室内教室、30人以上の教師、1,000人の児童数とされ、「よく学び よく遊び 」をモットーに、先生方からの情熱・パワー・やる気が爆発していたようだ。
「番組を視聴しての私の主な感想」
そもそもの疑問として、文明開化の時代の先駆けとして、長野県という地に、なぜこのような建物が建てられたのか、考えさせられた。
これが、当時の東京都内に建てられたとしたら、あまり珍しい建物として目立つことはなかったのでは、とも思案した。
長野県といえば、「教育県」とも呼ばれていたことを思い出した。ある資料によると、県内で一番古い寺子屋ができたのは1469年とある。明治に入っても その傾向は変わらず、長野県は、明治9年には東京や大阪をおさえて、「就学率全国一」であったという。
長野の地は、近世に庶民教育が普及していたこともあり、これが明治以降の信州教育のもととなっている。
一方、地形的に考えれば、日本は本土の4分の3が山間部であった。このため、人々はあちこち転々としては住めず、1か所にまとまって住まざるを得ない状態であったことから、おのずと人と人の交流が活発に行われ、情報伝達も活発に行われたことがうかがえる。
また、「擬洋風建築」という聞きなれない言葉が出てきた。
これは、明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築のことを指している。
従来の木造日本建築に、西洋建築の特徴的な意匠・デザインや、時には中国風の要素を混合しつつ、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設されたことから考えても、この建物は、その代表例といっていいだろう。
「模倣」といった側面がなきにしもあらずの「擬洋風建築」ではあるものの、大工棟梁であった立石清重氏の、並々ならぬその情熱とエネルギーの発露には感心するほかない。
さらに、建築して以来、昭和38(1963)年までの90年間にわたり、この建物はそのまま、
実際の小学校として使用されていたという。当時の子どもたちは、どんなことを胸に秘め、毎日ここで学びの日々を送ったことか。想像するだけでも、ワクワクと胸躍るような感覚にさせてくれた。
「よく学び よく遊べ・・」
このスローガンを地でいくような、今回の古くて、しかも新しいともいえる建物。
その存在は、いまでも松本市内に、凛として立ち続けているランドマークのひとつである・・・
写真: 「旧・開智学校校舎」正面より全景を望む。
「新・美の巨人たち」(テレビ東京放映番組2019年8月10日)より転載。同視聴者センターより許諾済。