Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

最後の皇帝15-スレイマンウィーン包囲

2019.11.20 11:43

1529年オスマン軍は、ハンガリーの諸都市を落としウィーンまで迫る勢い。大公フェルディナンドは、防衛の準備をしてリンツに避難して、援軍を待った。幼馴染の仏王母ルイーズと帝叔母マルガレーテ、二人はカンブレーに到着し丁々発止の交渉を行うが「ワタシ失敗しないので」と言ったかは定かではない。

8月3日、そこでまとまった講和をカンブレーの和約、またの名を「貴婦人の和約」と言う。フランスはイタリアの全権益を手放し、皇帝はブザントン周辺を仏領とするかわりにネーデルランドを正式に得た。そしてその証として、保留となっていた姉を正式に仏王妃として嫁がせた。

そして教皇クレメンス7世も和解し、ボローニャでカール5世の戴冠式を行うことと決められた。7月皇帝カールはバルセロナから船に乗ったが、今回はまるで仏王を信用せず、「息子を人質から取り戻したらまた裏切るに決まってる」と言った。それよりもウィーンが心配だった。

オスマンは12万と300門の大砲を備え、10月1日よりウィーン攻撃を開始した。しかし行軍が遅れたため、守備兵は準備準備万端、オスマンの砲撃にも耐え、城壁が破壊されると、直ちに埋めて修復。坑道を掘り進めると、城外に出て阻止、14日からは雪が降りだし、スレイマン1世はついに包囲をあきらめて撤退した。

下はトルコドラマ「オスマン帝国外伝」のスレイマンのウィーン包囲