反日種族主義① 父祖を侮辱する「徴用工」というねつ造
日韓関係をここまで悪化させる元凶となったのは、言うまでもなく2018年10月31日の大法院の元徴用工判決だ。今、話題の『反日種族主義 日韓危機の根源』(李栄薫編著)という本が、韓国で出版されるきっかけになったのも、この大法院判決があったからだという。
ここでいう「種族」とは、近代の「民族主義」以前のシャーマニズム的な精神世界に支配された集団、つまり原始的な種族・部族を指すという。編著者の李栄薫(イ・ヨンフン)李承晩学堂校長によれば、シャーマニズムには善と悪を審判する絶対者、神が存在しないため、むき出しの物質主義、肉体主義があらわれるのがその特徴だとして、次のように説明する。
「種族は隣人を悪の種族とみなします。客観的議論が許容されない普遍の敵対感情です。ここでは嘘が善として奨励されます。嘘は種族を結束させるトーテムの役割を果たしています。(中略)隣の日本を永遠の仇と捉える敵対感情です。ありとあらゆる嘘が作られ広がるのは、このような集団心性に因るものです。すなわち反日種族主義です。」(位置No343)
日本が朝鮮併合後、土地調査のため近代的な測量を行い、その過程で測量基準点となる標識・三角点を全国の山頂に設置したが、それを韓国の人たちは、民族抹殺政策の一環として、日本が韓民族の精気、気脈を絶ち切るため、風水から見て重要な命脈のある地点に鉄杭を打つ込んだと主張し、金泳三時代の1995年、全国で鉄杭を抜く作業が一斉に行われたり、ソウル景福宮の光化門近くにあった朝鮮総督府の建物も同じく風水家の助言に従い、民族の精気を蘇らせるためとして同じく1995年に解体撤去したりした。朝鮮総督府の建物は10年の歳月をかけ1926年に完成したが、当時、イギリスのインド総督府やオランダのボルネオを総督府を凌駕する東洋最大の近代建築物と言われた。そして戦後は日本から米軍への降伏文書の引き渡し式、憲法の公布、初代大統領の就任式、大韓民国政府の樹立宣言など、韓国現代史の舞台になった場所であり、その後も国会議事堂、中央政府庁舎、国立中央博物館として使われた建物だった。戦前、総督府として使われた年数は20年足らず、それよりはるかに長い50年間の歴史を韓国のために刻んだ建物を、正統性のない歴代政権を清算するとして解体処理し、建物中央にあった尖塔など、その残骸を独立記念公園の地面に晒して恨みの深さを見せつける。反日種族主義の「むき出しの物質主義、肉体主義」とは、まさにこういうことを指すのだろうか?
元徴用工の大法院判決について、この『反日種族主義』では、<「強制動員」の神話>として李宇衍(イ・ウヨン)落星岱経済研究所研究委員が、多くの資料を通して、炭鉱労働者でも給与や待遇に日本人と朝鮮人の差別はなく、賃金に差が出たのは経験年数の違いや家族の有無などのためだったことを実証している。また給与の半分が強制的に預金させられたケースもあったが、金を預かったのは同じ朝鮮人の飯場の主人や寄宿寮の舎監たちで、つまり強制貯蓄の賃金が支払われなかったとしても、それは日本企業との間の問題ではなく、飯場の主人や舎監との間の民事事件だった。
そもそも「労務動員」という言葉しかなかったのに、「強制徴用」や、まして奴隷労働などあるはずがない。すべて朝鮮総連系の朝鮮大学校の教員・朴慶植が1965年に書いた「朝鮮人強制連行の歴史」というフィクション本、フェーク本が、「日帝が朝鮮人を強制的に連行し、奴隷のように酷使し、一銭も給与を支払わなかった」と歴史をねつ造し、それを今の韓国人が一般的な国民常識、いや今は国民神話として信じて疑わない、いやその神話から離れたらもはや韓国国民ではないと、洗脳されている。
そもそも朴慶植が1965年に「朝鮮人強制連行の歴史」を書いたのは、日韓基本条約、日韓請求権経済協力協定の締結を阻止するためだった。日韓が国交を樹立したら北朝鮮が包囲されると考えたからだ。つまり、徴用工訴訟に至る韓国の政治・司法の流れ、国民の一般常識の世界も、北朝鮮に手玉を盗られ、北朝鮮の手の上で踊らされているにすぎないである。
そもそも厳密な意味で「徴用」があったのは終戦の前年1944年9月から1945年4月までの8か月間で、およそ10万人が日本に送り出されたと見られる。それ以前の1939年9月からは「募集」、1942年2月からは「官斡旋」(行政組織を通じて支援)という方法で集められ、この間6年間で、合計73万人が日本に渡って働いた。徴用だけが強制的な動員で、これを拒否すれば1年以下の懲役、もしくは100円以下の罰金に処せられた。
今の韓国人が「強制徴用」という自分たちの造語、本来は存在せず、意味もおかしい言葉を使うのは、「募集」に応じ、自分たちの自発的な意志で日本に渡った労務者も「強制的に連れて行かれた」という虚構のなかに組み入れたいからだ。
その「強制徴用」が虚構であることを、みずから世界に向けて宣伝しているのが、「強制徴用労働者像」だ。痩せ細り肋骨が浮き出た男が左手を挙げて立っている彫像だが、この像のモデルになったのは、実は朝鮮人でも徴用工でもなく、1926年9月9日、日本の「旭川新聞」に載った日本人の土木作業員の写真だった。韓国では、この写真が「強制徴用」された朝鮮人の写真として、教科書や歴史博物館に堂々と展示され、銅像のモデルにまでなっている。写真の原板がどこのものか調べれば、嘘はすぐにバレるにも関わらず、今もその写真をもとにした銅像が、釜山の日本総領事館前をはじめ、世界各地に建てられようとしている。
ところが、朝鮮半島出身の炭鉱労働者たちが記念撮影で撮った実際の集合写真を見れば、ヘルメットなど完全装備の作業服、恰幅のいい体型やその笑顔などから、このどこが奴隷労働を強いられた人々かと一目瞭然、疑問をもつ。
『反日種族主義』がこれだけ実証的な証拠をつきつけて強制徴用は嘘だと主張しても、それをかえって「歴史歪曲」だと非難する論調が韓国のメディアには登場する。ハンギョレ新聞東京特派員のチョ・ギウォン記者が書いた「コラム・強制動員とは何だったのか」(日本語版10月11日)によると、
太平洋戦争中に長野県の松代大本営地下施設建設工事に動員された慶尚南道昌寧(チャンニョン)出身の男性は1943年末ごろ「村の職員が来て、何の説明もなく家から連れて行かれた。25歳の時だった。…貨物列車に乗ったが、人々をいっぱいに乗せて外から錠が掛けられた」と証言した。
時期的にみて募集か官斡旋のどちらかに応じた形だと思われるが、キム氏にとって単に「連れて行かれたこと」が現実だった。
日本の市民団体「朝鮮人強制連行真相調査団」がまとめた証言集には、全羅南道高興郡(コフングン)から長野県の御岳発電所工事現場に動員された男性が「1943年7月中旬だった。日本人の巡査が来て、私に用事があるから来いと言った。ついて行くと、留置場に放り込まれた。トラックで麗水(ヨス)港に連れて行かれ、日本の下関に到着した」という証言が載っている。この例も同じく法的な意味の徴用ではなかったが、実状は強制動員だった、とする。
それにしても、冷静に考えてみて欲しい。「強制的に連行された」というけれど、25歳にもなる大の男が、しかも普通の知能があると思われるいっぱしの大人が、何の抵抗もせず黙って連れて行かれ、その後も反抗することなく、唯々諾々と理不尽な奴隷労働に従事したというのだろうか。あるいは自分が置かれた状況について冷静に分析し、脱出手段や対抗手段を考え、自由を取り戻すために、仲間を糾合したり、他人の助けを借りたりするための知恵を絞る頭もなく、困難な状況を打開するために立ち上がり、格闘する勇気もない人ばかりだったということか?そんな理不尽な奴隷労働が実際にあったとしたら、あちこちで暴動が起きても不思議ではないと思うのだが、そうした事件があったことは寡聞にして聞いたことも見たこともなく、いかなる記録にも残されていない。
いま連日、新聞テレビが報道する香港の人々の抗議行動を韓国の人たちはどうみているのだろうか。、徒手空拳、手に無一物の若者や一般市民が、完全武装の警察官の催涙弾やゴム弾、実弾を装備した銃を前にしても、怯(ひる)むことなくデモ行進を続ける。香港中文大学や理工大学の構内に立てこもった学生たちは、決死の覚悟で、警察の暴力と向き合い、まるで戦場のような反抗の姿勢を見せつける。道理に合わない理不尽な弾圧には、徹底的に抵抗する。一人で無理なら団結して対抗する。これが本来の姿なのに、当時の韓国人にはそうした気概がいっこうに見えないのは何故なのか?
「強制徴用」や「奴隷労働」という人権侵害が実際にあったとして、その人権侵害の救済と損害賠償が戦後70年もたった今になっているという現実を、今の韓国人たちはどう考えるのか?これは「慰安婦」についても言えることだが、仮に、当時12歳にも満たない少女が突然、家族の元から引き離され、どこかに連行されたとして、その親、兄弟は必死の抵抗をすることもなく、ただ指をくわえて、見送るだけだったのか?仮に戦後もその少女が帰ってこなかったとして、その所在を突き止め、取り戻すために、なぜすぐに公に救済を訴え出なかったのか?
「強制徴用」された人たちについても、連れ去られたあとも何の抵抗もせず暴動も起こさなかったということは、みな分別もない無能力者か知的障害を抱えていた人だったとすれば、理解できないこともないが、本当にそうなのか?一家の働き盛りの大黒柱が突如、強制連行されたとしても、一家や周囲の人がだれも騒がず、訴え出ず、無視したということはいったいどういうことなのか?
そうした疑問に答える唯一の回答は、彼らが、香港人のように近代的な市民意識を持った人々なら、当然採るべき行動を採ることさえ出来ずに、それこそ近代市民意識を持つ以前の、自ら奴隷であることに甘んじ、それを何とも思わなかった人々、つまり原始的な「種族主義」にとらわれた人々だったからではないか。
ハンギョレ新聞が強調するように、「強制徴用」され「奴隷労働」を強いられた人々が百何十万人もいて、戦後70年以上たっても、その精神的な補償がなされない人たちが未だに何十万人もいると主張することは、自分たちの父祖たちが、自らが置かれた状況を打開するために何の行動も起こさず、いかなる抵抗も示さず、そんな勇気も気概もない怯懦(きょうだ)な人々であったことを自ら証明するものであり、ひいては自分たちの祖先を侮辱し、恥をかかせる行為であることに、なぜ気づかないのだろうか。
韓国でベストセラー作家として知られる趙廷来に『アリラン』という作品がある。1994年刊行以来、全12巻におよぶ大河小説で、350万部が売れたという。このなかで日韓併合後の土地調査事業を舞台に、土地調査に抗議する農民を日本人巡査がその場で処刑を言い渡し、即決で銃殺するシーンが何度か出てくる。そして、こうした即決処刑が当時、全土で4000件以上もあったと作者は主張する。農民を即決で銃殺できる根拠として作家は「警察令」という架空の法律さえ持ち出すのだが、そんな法律があるはずもなく、国家権力が人を殺すには所定の手続きによる裁判を通さなければならないのは、当時も今も同じ。こんな普遍的なことも無視する完全なでっち上げフィクションだった。実際に日本が1911年に公布した『朝鮮刑事令』にも、一介の巡査が人を即決で処刑できるなどとする条項はあるはずもなかった。
『反日種族主義 日韓危機の根源』のなかで李栄薫教授は、次のように記している。
<『アリラン』に登場する日本人は、みなが奴隷ハンターのような悪人です。かれらは数え切れないほど朝鮮人を殴り、奪い、辱め、殺します。反面、朝鮮人はアフリカの原始種族のように、されるがままに殴られ、奪われ、辱められ、虐殺されます。(中略)趙廷来は、日本人をこの上なく残忍な悪人として、朝鮮人は限りなく卑怯で野蛮な種族として描写しました。(文春e-bookの位置No407)
小説『アリラン』は100年前の日本統治時代の民衆の奴隷状態、つまり種族主義の時代を描いた作品であったが、同じような民族の状況を韓国の未来小説として描いた作品がある。
2014年に発表されたチョン・ミョングァン(천명관)の短編小説「退勤」が描く舞台は
失業率が90%に及ぶという未来の世界で、スーパーリッチと呼ばれる少数の会社勤めの人々と、仕事を見つけることなど、とうに諦め、政府からバウチャーと呼ばれるクーポン券をもらって食事や買い物をする貧民階級、「毛布」と呼ばれるホームレスの人々がいるだけだ。失業者の貧民階級は会社がある地域への出入りを禁止され、役人からゴミや動物扱いされて蔑まれても、命を繋ぐバウチャーをもらうためにただ従順に従うだけのまさに奴隷階級と何も変わらない卑屈な人々だ。
人間の想像力というのは、現実世界の範囲や、自分が経験したこと以上にはなかなか及ばないものだということは、ここでも証明される。少数のスーパーリッチと「毛布」と呼ばれる多数の貧民階級は、かつての両班と白丁・奴碑のイメージそのものだ。「反日種族主義」は、彼らにとってもともと馴染みのある、居心地にいい場所なのかもしれない。